文化・芸術

2013年1月14日 (月)

オートクチュールからプレタポルテへ

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 服飾ファッション、モード界はオート・クチュールからプレタ・ポルテへの変遷を経過して、今に至っている。顧客と服飾生産者との個と個を重視し、生産数が極めて少ないオート・クチュールと、ライセンス生産、ライセンス契約による生産数の増加を求めたプレタ・ポルテは対立した概念であった。本稿では、この移行について、具体的なブランドを提示し、その背景を探りたいと考えている。そして、オート・クチュールとプレタ・ポルテが果たした、特にパリにおけるモード史、ファション史への寄与について考察する。勿論、そこには私見によるモード解釈が含まれるということを付しておきたい。

 オート・クチュール(haute-couture)はフランス語で高級衣裳店の意である。本来の意味からすると、パリ高級衣裳店組合の組合規定に従って運営されている店舗を示すものである1。服飾デザイナーや製作者が顧客のために完全にオリジナルな衣裳をデザインするものである。生地、仕立に対する完成度の高さが主たる特色であり、その費用は高価である。一般的に、このオート・クチュールが大衆から着目されるのはコレクションと名付けられた新作品の展示会である。オート・クチュールという個別性を持ち合わせながらも、そのコレクションによって、春夏秋冬を通しての流行色が決定されるといった威厳も含んでいる。ワースと称されるフレデリック・ウォルトから開始されたオート・クチュールの方式は20世紀中葉まで流行した。オーダー・メイドの服飾から漂う高級感を求め、世界中の貴族階級がパリに足を運んだといえる。しかし、戦後、ファッションの傾向が一定のモデル・スタイルに型押しされた服飾の大量供給へと転換し、今日ではブランドの版権が流通され、プレタポルテをブランドの主力部門とするなど、旧来から継続していたオート・クチュールを得意としていたブランドや服飾店の形態が多様化した2。今日では、パリ高級衣裳店組合の流れを汲むパリ・クチュール組合がオート・クチュールの未来的可能性を模索し、主導的な立場として存在している。この組合に、メゾンと称されるブランド企業や店舗が23所属しており、シャネル、イヴ・サン・ローラン、クリスチャン・ディオール、ピエール・カルダン、ウンガロ、ランバン、ハナエ・モリがその代表的なブランドして挙げられる。

 オート・クチュールに対して、フランス語で既製服を意味する造語プレタ・ポルテ(prêt-à-porter)パリのアルベール・ランプレールが1945年にアメリカの既製服の業態を取り入れたときに初めて利用したのが用語の起源であるとされる3。元来、フランス語では既製服はコンフェクションと呼称されていたが、品質の悪い安価なイマージュが付随することから、高級既製服を意味するものとしてプレタ・ポルテという名の方法が普及した。つまり製作工程において一種のライセンス化を図り、大量生産とは異なる、限定量産によって、名の通りの既製服を販売するという方法である。プレタ・ポルテを専門に手がけるデザイナーには、モードの帝王と称され、シャネルやフェンディへのデザイン提供で著名であるカール・ラガーフェルドらがいる。また、オート・クチュールからは先述の流れの中で、多くのデザイナーがプレタ・ポルテを取り入れ、クリスチャン・ディオールや、60年代のパリデザイン革新期を担ったピエール・カルダンらがいる4。そして、1966年に誕生し革命的な印象を放ったサンローランのブティック「サンローラン・リブ・ゴーシュ」、ロンドンの「ビバ」、ミラノの「フィオルッチ」によって、高級なファッションシーンにおけるプレタ・ポルテの流行は本格的な高潮を見せた。日本人の参入は70年にケンゾー・タカダがパリに「ジャングル・ジャップ」を開いたことから始まり、コシノ・ジュンコのサイケデリック・ファッションやキミジマ・パリなどが、日本とヨーロッパを越えた、プレタ・ポルテ・シーンを先導していったのである5。日本では、独自の東京的モードを確立したヒロミチ・ナカノの活躍も見られた。

 これらのオート・クチュールからプレタ・ポルテへの流れは、双方を対立した概念として捉える面もある。しかし、全体的な特質を鑑みると、各デザイナーやブランドはオート・クチュールを下地にプレタ・ポルテの有用さも理解し、デザインやモードを形成したということが、60年代以降の内実であった。以降では、その内実を具体的に、特に歴史的な視点から各ブランドの変遷を通じて論じる。

 オート・クチュールの老舗であり、その誇りを懐きつつ、プレタ・ポルテの進展も順調であった一番手はクリスチャン・ディオールである。46年末、木綿王といわれたマルセル・ブサックの援助を受け、現在のパリ・モンテーニュ街に、オートクチュール・メゾン「クリスチャン・ディオール」を発足し、翌47年春には最初のコレクションとして花冠ラインを打ち出した。これは、肩を露出させるカット、細きウェスト、ペチコートで張った20cmのフル・スカートによって構成されていた。この最初のコレクションはファッション界、モード界に一石を投じることになった6。花冠ラインによって、世界中の女性のスカートが、肩のラインを生かして、そして優美なイメージを放つロング・スカートへと変化したのである。この花冠ラインは、戦禍の暗鬱から抜け出せずに、その転換を求めていた国際的なモード界の共通認識に対して「ニュー・ルック」という名のファッション革命を生み出したのであった7。ニュー・ルックによって、世界のモードの中心地を再びパリに戻したという側面も窺える。クリスチャン・ディオールは創立の初々しさ漂う中にあったにも拘らず、世界的なブランドとなった。

 ディオールの最大の特徴はラインの形状にある。50年春のバーティカルライン、51年春のオーバルライン、52年春のシニュアスライン、53年春のチューリップ・ライン、ヘム・ライン、54年秋のHライン、以降のAYライン、56年春のアローライン、57年秋のスピンドルライン。これら全て、モードの基本として見なされ、時代性の一表象として影響を及ぼし続けている。

 ディオールにおけるオート・クチュールとプレタ・ポルテとの関係性はまさしく融合という表現が相応しい。そしてその方向性が今日の慣例として継承されている。つまり、ニュー・ルックの流行という実例からも分かるように、ブランドの根底部にはオート・クチュールの精神が存在している。そして、ラインシリーズ以降のプレタ・ポルテの新時代においても、オート・クチュールの方式は維持される8。この双方の結節点は何たるかということは重要なテーマである。相応が独自に存立したと考えることは難しい。私見を示すとするなら、それはまさにオート・クチュールという実験室を経て、そのモードの評価を確認するという作業が行われているといえる。そしてプレタ・ポルテとして世に問うことへの模索が繰り返されているのである。その後、プレタ・ポルテによって、多くの一般大衆に対して改めてモードの良し悪しを問うことが出来る。加えて、世界的なブランドとしての確立と維持のためにも、愛好者の増加のためにも、プレタ・ポルテの可能性は看過出来なかったのである。

 次は、同じパリでの隆盛を未だに持続させているブランドであるシャネルに着目する。オート・クチュールを基本としたシャネルは、プレタ・ポルテへの参入に関して、クリスチャン・ディオールとは異なる性格を有していた。それは創始者ココ・シャネル(ガブリエル・シャネル)の絶対的なオート・クチュール精神が影響しており、彼女の死後に本格的なプレタ・ポルテが開始されたという点である。

 ココ・シャネルのデザインの発端は帽子であるが、1921年に最初の香水となる、「シャネル No.5」を発表し、香水のブランド化によって彼女の名が知れるようになった。1926年にはシャネル調という作風が定着化すると共に、リトルブラックドレスを発表し、本格的な服飾オート・クチュールが展開されるようになった91934年にはコスチューム・ジュエリーのアトリエを作り、装飾品部門のコレクションが開始される。以降、戦争期の中断を挟んで、オート・クチュールのコレクションがシャネルの名声を更に高めていったのである。この傾向は1971年のシャネルの死まで続いた。シャネル・ブランドがプレタ・ポルテに本格的に参入し始めるのは、1978年のプレタ・ポルテ「シャネル・ブティック」からである10。プレタ・ポルテの旗手、カール・ラガーフェルドがシャネルのコレクションを担当する主任デザイナーに就任して以降、全世界を顧客としたシャネル・ブランドの展開が顕著となっている。

 プレタ・ポルテへの移行について、他のブランドと比較すると時期的に後者であった。しかし、これはシャネル・ブランド特有の理由があったことは自明である。つまり、シャネル拡大の契機となった香水や装飾品、バッグ等の携行製品のブランド・イメージが先行していたことが挙げられる。そして、他方の服飾デザインについては商業性よりも更なるモード追究に力を注ぎ、よってオート・クチュールを重視したと言える。それは、1955年、ココ・シャネルがモード・オスカー賞を与えられた経歴からも理解できよう11。シャネルの例は、服飾オート・クチュールとプレタ・ポルテが別の次元で存立していた様子を認識できる。

 シャネルのブランド・イメージに見られるように、好調なる他部門という構図は、今日のブランド一般においては必然的な事象である。この好調なる他部門という要素を創設以来において受け持つパリ・ブランドの一つにエルメスとルイ・ヴィトンがある。

 エルメスはオートクチュールなどの奢侈品需要の高揚する19世紀中葉の時期に繁栄したブランドであり、四輪馬車と従者にHが打ちこまれたロゴは周知の通りである。1837年、ティエリ・エルメスがフランス・パリのバス・デュ・ランパール通りの一角で、高級馬具の製造販売を始めたことに由来している。第2回パリ万国博覧会(1867年)で、鞍が銀賞を受賞している。1880年、2代目のエミール・シャルル・エルメスが、現在地のフォーブル・サントノレ通り24番地の角地に工房を移転させた後、1892年には、馬の鞍を入れるための鞄「オータクロア」を発売し、これは後の「バーキン」の原型として一般の認知度を高めた。1902年、アドルフ・エルメスとエミール・モーリス・エルメスが「エルメス兄弟社」という商標を得た。翌03年、エミールが、札入れ、財布、バックの製造を開始した12。特にハンドバッグの部門では、クージュ・セリエと呼ばれる鞍縫いの職人的製法を活かした革製バッグが好評を博した。このバッグ製造スタートの背景には、馬車の時代から自動車の時代への転換が重要な意味を為したと言われている。勿論、馬具販売の終焉が最たる理由であった。しかし、科学技術の進展や工業力の増大が、社会全体の風潮にあった当時にあって、少量生産主義、換言するなら限定量産を維持した点は、商品の希少価値という観点から有効であり、ブランドとしての尊厳を維持することにおいて重要であったと言える。

 その後も、23年に、高級車ブカッティ用バッグとして、丸いラインが特徴的な大型バッグ、ブカッティの製造を開始した。27年、時計を発売。また、衣服、旅行用品、時計、宝飾品などを事業に取り入れ、支店を拡大。36年には香水の販売を開始し、1935年、オータクロアのハンドバック・タイプ、サック・ア・ロアを発表した。1937年には「カレ・モムニバスゲームと白い貴婦人」の名で初の絹スカーフを発表し、マスキュリン・ルックのアクセサリーとして、多くの称賛を得た1360年代、既に製造されていた香水で、馬車の名をネーミングしたカレーシュの発売とともに香水部門が独立した。79年には、エルメス時計社が設立され、時計部門に参入している。更に、エルメスのプレタ・ポルテは、90年代初頭の秋冬パリコレで、馬具製造としての創業期の分野を想起させるような、ルダンゴトにヒントをえた作品を発表するなど、豪華なイマージュを持つブランドとして名を馳せている。

 ルイ・ヴィトンはバッグファッション、モードに特化したブランドである。1854年、ルイ・ヴィトンは、旅行鞄では世界初のアトリエ「ルイ・ヴィトン」を設立した。グリ・トリアノン・キャンバスというヴィトンの素材は、防水加工の施された木綿製であり、旅行趣味の高まりと共に大きな効用を齎した。1880年、ジョルジュ・ヴィトンが2代目となり、88年、登録商標としてのルイ・ヴィトンとして「Louis Vuittonmarque deposee」、という文字を織り込んだダミエ・キャンバスという新しいキャンバスを発表した。これは、世界初の登録商標で、表面にブランド名を表示した最初の商品でもあった14。以降の、ルイ・ヴィトンの爆発的躍進は目覚しいものがある。ブランドとして服飾モードに寄与する面もありながらも、服飾における、オート・クチュールやプレタ・ポルテという概念は該当しない。しかし、バッグ製品は初期の段階からプレタ・ポルテの方法を用いる必要がある。まさに、バッグは工業製品と同じく、産業革命以降の風潮に乗った上で、ブランド品を世に出さなければならない。付言するなら、服飾モード、ファッションデザインには余り介入しない経済性という点が、ルイ・ヴィトンには含まれなければならなかったのである。このジレンマへの抵抗が、ルイ・ヴィトンの歴史であり、成功例であったと考えられるのであろう。

 以上、オート・クチュールからプレタ・ポルテへの変遷、或いは双方の結節点について、クリスチャン・ディオール、シャネル、エルメス、ルイヴィトンといった具体的な事例を中心に論じた。オート・クチュールが有する個性や高貴さ、プレタ・ポルテが持する大衆への寄与、双方の利点が融合した形で、今日のモード界は進展するべきであろうし、昨今においてはそのような傾向も見られる。つまり、オート・クチュールとプレタ・ポルテという用語は今や対立してない。個々人の趣向を以て、選択するべき製作方法であろう。しかしながら、私見として、今日的大きな話題を生んでいるスローフード運動(slow-food)と同じ思想を含み持つであろう、スロークロス運動(slow-cloth)というべきムーブメントも必要では無いだろうか。まさに、それはオート・クチュールの精神である。上質な布地、繊細な裁断と刺繍、身体に適合した服飾、持久性のある服飾、更には自然環境と調和した色彩、そしてデザインやモードに対する思考の時間、これらを全て内包した服飾文化にこそ、本源的な「服飾美」が存在しているのではないだろうか。

参照文献

(1)       石藤栄子『パリのオートクチュール』講談社 1965年 p.11-12

(2)       山口好文編『世界服飾用語辞典』文化出版局 1977年 「オートクチュール」

(3)       同上 「プレタポルテ」

(4)       小池一子編『ファッション・ワールド・コレクション』講談社 1985年 p.89

(5)       浅田牧子編『ファッション』洋泉社 1987年 pp.45-55

(6)       上記『世界服飾用語辞典』文化出版局、『世界服飾文化辞典』文化出版局 1973年、『服飾辞典』文化出版局 1979年、浅田『ファッション』、杉野芳子編『図解服飾用語事典』鎌倉書房 1986年、鷲田清一編『ファッション学のすべて』新書館 1998年。各「クリスチャン・ディオール」の項目。

(7)       同上

(8)       同上

(9)       同上、「ココ・シャネル」、「シャネル」の項目。

(10)    クロード・バイヤン『孤独のシャネル』田中史子訳 竹内書店 1973年 pp.45-47

(11)    同上 p.60

(12)    『世界服飾用語辞典』文化出版局、『世界服飾文化辞典』文化出版局 1973年、『服飾辞典』文化出版局 1979年、浅田『ファッション』、杉野芳子編『図解服飾用語事典』鎌倉書房 1986年、鷲田清一編『ファッション学のすべて』新書館 1998年。各「エルメス」の項目。

(13)    同上

(14)    小池一子編『ファッション・ワールド・コレクション』講談社 1985年、鷲田清一編『ファッション学のすべて』新書館。「ルイ・ヴィトン」の項目。

他に、クリスチャン・ディオール、シャネル、エルメス、ルイヴィトンの情報に関して、各ホームページサイトも参照した。

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