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2016年6月

2016年6月27日 (月)

森の中 月の光

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ラルゴ。まだ森の中に迷い込んでいる感じではあるが、月の光を感じ、そろそろ筆を置く時を迎えようとしている。私はまだ覚悟を持って吹っ切れてはいないが、私も私を精いっぱい表現しながら生きていくしかないと考えている。

そして、楽理的な対話を。

バッハの無伴奏ソナタは教会ソナタで、緩 急 緩 急 それぞれの楽章には速度記号のみで表し厳粛な感じがしますが、このLARGOにだけ  espressivo  の標示がされています(PETERS版) 。単旋律でも充分に美しく演奏が成り立つ(和音を入れないで上の音だけ)、もちろんその方が演奏も楽なのですが…  拍のアタマに重音が2重3重と加わり深みが増すのでありますが、これを、それぞれの音を正確にとらないと美しい響きとなりません難しいですよ。


昨年のBWV1004から今年の1005へという橋渡しの意味もあります。ラルゴ、確かに版によりラルゴだけの場合や、PETERS版やヴァイオリニストで自身もバッハの校訂をしたレオポルト・アウアーも、espressivoを付していますね。まさに表情豊かにという標題の如くのラルゴだと思います。冒頭からの慰めの雰囲気もさることながら、重音による厚みと淡い部分との差の付け方が、ふと、1004のサラバンドを思い起こしたりしています。20小節の第3拍、4拍でのドッペルドミナントにひとつの希望を感じることもできます。難しさの中からの光。絵の中に生かせたらと。





2016年6月23日 (木)

ラルゴへ

ラルゴ。本当難航していて終わりが見えない。青を基調として白を生かす。現状では辛辣なシャコンヌに近い。光を。もう少し光を。「人は愚かで人生は余りにも果敢ない。ならば私は私を精一杯表現しながら生きていくしかない、と吹っ切れた」。レカミエの彼女、庄司紗矢香の言葉を思い浮かべている。

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2016年6月19日 (日)

渦中

サルトルについて語られる「アンガジュマン」とは、社会に対する参加でもあり、歴史や礼節に対する参加を意味する。前者はマルクス主義に対する解釈であるが、後者は生きる個人の自由ならざる状況へと結び付く。サルトルは歴史の呪縛から解き放つ生き方を問い続けた。ここにサルトルの実存主義の原点がある。サルトルの哲学が高校生の私を揺り動かしたことは確かだ。

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熊谷ヒストリー

約半年前の地元ロータリークラブでの講演の様子がアップデートされていましたのでご参照の程。熊谷ヒストリーのアウトリーチ。

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ラルゴ

バッハ《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番》ハ長調、第3楽章「ラルゴ」ヘ長調。4分の4拍子。21小節という小品でありながら、響くアリアが心を震わせる。バッハを描くことは、真摯に向き合い演奏することと異なり、罪深きことなのではないかと思うことがある。ありのままに絵を描こう。その立ち位置では到底辿り着かない領域であることは分かっている。この絵が最後になるかも知れないと思って描く。結局は次なるキャンバスを求めることになるのが常だが、ラルゴを耳にして、深刻な想いと共に描く他ないと考えている。その先に何かがあるのか。それはいずれ分かることだろう。私にとり趣味でも娯楽でもない境地がある。人生そのものでもなく。シャコンヌに対しては抗うこともあったが、ラルゴに対しては抗うことはしない。受け入れ、感じるままに、私は描きたいと考えている。


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「レカミエ」の彼女

庄司紗矢香、無伴奏ヴァイオリンリサイタル。神奈川県立音楽堂へ。ストラディバリウス「レカミエ」の彼女は、赤と薄紅色のドレスで登場した。

彼女の音楽が、私を救ってくれたような気がしている。そのことを先ず言いたかった。

都心の夜景に微睡む車中で、その感想を書いてみたい。

...

バッハ《幻想曲とフーガ》ト短調。オルガン曲として知られているが、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェによって無伴奏ヴァイオリン曲に編曲された。重層的な響きをヴァイオリンの重音に仕立て上げられた曲を彼女は可能な限りの透明な音で表現した。濁らず明朗な音の粒と化していた。

バルトーク《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》。バルトークは母国ハンガリーの民族的な曲想をもとに無伴奏ヴァイオリン曲として編成した晩年の傑作と言われている。曲調はあくまで現代的である。それ故に、各所に高度な技術が要求されている中、彼女は持ち前の前進力と持久性によって、研ぎ澄まされた音の世界を構築した。弛まぬ意志を表現するようにヴァイオリンの音色は重なり合い、緊迫感の満ちた空間がそこにあった。それは次の細川俊夫による現代色の濃い委嘱作品の演奏へと引き継がれていた。

そして、バッハ《無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番》ニ短調。私にとり感慨深い曲。それは言うまでも無く、私の件の個展と結び付く。個展で演奏してくれたヴァイオリニストの後藤典子さんも彼女の音源を耳にしながら修練を続けていたとされる。パルティータは、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグ、シャコンヌへと繋ぎ合わせる。この聖性に満ちた曲についてはかつてより機会あるごとに概要を加えてきたので、今回は雑駁ながら感受した想いを書き綴ることにしたい。

私は最初のアルマンドに触れたその瞬間から鳥肌が立ち、サラバンドに至る頃には涙が溢れていた。舞曲の特色の中で悲愴なるものを表現しつつ、その悲愴からの再起を予期させている。心身に伴う苦痛を慰める。バッハの精神的な意図は分かり兼ねるが、苦難の先の光に目を向けていたことは確かなように思える。演奏者は暗譜にて全身全霊を傾けていた。シャコンヌの複雑な部分でさえ、彼女は音を濁らせず、ビブラートを最小に留め、純粋なる音に追求の触手を伸ばしていた。音の分散も風格ある広がりを見せ、全てに通底しているのが、温和なる調和であった。それが対位法に向けたバッハの真意を演奏として描き出したものだと言える。我らが生きゆく中で様々な苦痛や戸惑いを経験する。その苦を希望に変えるには相応の努力が必要となる。神が与えてくれることもあるが、それは限られている。自らの努力と意志で立ち向かわなくてはならない。バッハを彼女が表現する根底にはそのような想いがあるように感じられた。普段の日常や仕事における悩みを前に、私はどのような人間であるのか。まだやるべきことが多いのではないか。苦難や失敗から再起するためには何が必要か。それに対する答えや意思を的確に表現することは難しいが、その問いを投げ掛けながら、前を向かせてくれる。私はそのようなことを彼女の演奏から受け取った。すなわち、それは今の私に対する救いに他ならなかった。

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