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2016年5月

2016年5月24日 (火)

フィンランディア、39、ライン。

埼玉交響楽団定期演奏会へ。フィンランディアに始まり、モーツァルト交響曲第39番を経て、シューマンのライン交響曲へ。ヴァイオリンの後藤典子さんは今回はヴィオラで。チェロには先日のデュオコンサートで輝きを放っていた関根順子さん。そして、昨年、丸ビルのサンスエサヴールでのパーティーでチェロを弾いてくれた石黒雄介さんがチェロのフォアシュピーラーで出演。

シベリウスのフィンランディアについて。これについては、実は私の前著である『ゴルトベルク変奏曲から始まるカイエあるいは神秘の防壁』にて書いた散文的な内容があり、それを載せてみよう。

フィンランディアの旋律は、北欧音楽の代表例として表象され続けている。太陽が顔を出す前の薄暗い重々しさ。しかし、フィンランディアには燦然たる太陽が輝いている。そしてミネルヴァの梟が飛んでいくような黄昏時に向かっていく。フィンランディアは、周辺強国に淘汰され続けてきたフィンランドが、独立し再生を果たすための精神的支柱となった音楽であると言われている。これはフィンランド国民に対してだけでなく、困難に立ち向かっていこうとする全ての人々に大きな勇気を与...えてくれる音楽であると思う。失敗を恐れず、前へ向かっていこうとする勇気を。そして、失敗したとしても、優しく慰めてくれる旋律。

モーツァルトの第39番については先日の私の拙い分析があり、概要は割愛。演奏は豊かな響きが混じり合い、その全体的なバランスが素晴らしいものだった。要点を押さえるクラリネットの旋律が、モーツァルトらしい装飾に花を添えていた。



そして今日はシューマンの交響曲第3番「ライン」について考えてみたい。

ラインはシューマンの命名ではないが、ライン地方での作曲がされたことから、この副題が長らく伝えられている。この交響曲は言わずと知れたロマン派音楽の記念碑的作品であり、同時期のメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」と共にその時代を代表する大作として評価されている。シューマンの交響曲第4番は初期の1番と同時期のものであるから、この第3番「ライン」が作曲家としての一つの到達点であると言える。ベートーヴェンの亡き後、交響曲を書くこと自体が憚られる時代、その後のベートーヴェン交響曲第10番と称揚されるブラームスの交響曲第1番へと、どうにか交響曲史を断絶させずに繋ぎ合わせたのがこの「ライン」であった。それは音楽的にも、ブラームスを高く評価したシューマンの人間的な結び付きとしても、ということである。

細部に目を向けると、ラインの第1楽章は、その冒頭の壮大な進展がベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」からの影響として、親近性が古くから語られてきた。そう考えると、今回の演奏会のプログラムは実に面白い。ベートーヴェンの英雄に影響を与えたと推察されるモーツァルト交響曲第39番と、英雄との繋がりを彷彿とするシューマンのラインが演奏されたことになる。曲の選定にて、この要素が含まれているかは不明であるが興味深い。また、5楽章という珍しい構成も、ベートーヴェン交響曲第6番「田園」を連想する。

楽譜や演奏の見地からすると、この音楽は各所にロマン派的な旋律が織り込まれているが、その大半はヴァイオリンとフルート、オーボエによって奏でられる。ということは一方、ヴィオラは通例より更に下地固めに傾注し、チェロも付随するため、旋律とは程遠い小刻みな演奏により音の構成の部品作りに多くの力量が発揮されることにある。シューマンは高らかに歌いあげる旋律を各楽器に割り振ることはなく、壮大な響きの根源をヴァイオリンと吹奏楽に委ねた作品であるように感じられた。

第1楽章の第1主題はまさにロマンティックであり、題名と曲に関連は無いものの、ライン川の雄大で時折速さを増す風景が眼前に浮かんでくる。第2楽章のロマンツェも緩やかに進み、ヴァイオリンが先導する。第3楽章のスケルツォから第4楽章までは穏やかさの中に淡い美をじっくり放つ。それは華美な装飾音を削り、全体の調和を図りながら進む。そして、最後の第5楽章へ。祝祭的なフィナーレ。嗚呼、シューマンがダンスする足音が聞こえる。作曲家らしさが見え隠れする旋律の表現が各所に登場する。下地を作り上げてきたヴィオラとチェロも一気呵成に進み、その躍動感によって存在感を高める。シューマンにとって最後の交響曲は華やかに終わりを告げた。



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緩急

蔵書を紐解くと、ル・コルビュジエの上半身裸での仕事姿。そして、真夜中にふと目が覚め、朝近く、ドイツ語のssの「ß」やフランス語のoeの「Œ, œ」をふと思い出し、余計なる一思考し、また数時間の睡眠を経て、現実的な田園地帯に舞い降りることでしょう。

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白さから想う。ミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライト、そしてル・コルビュジエ。

白いモダニズム、熊谷市庁舎と佐藤武夫。事務棟と議会棟の接続部。アール型の窓枠。私の拙い文章ながら新聞に取り上げたことで反響も大きく、建て替え派だった方々も含めて建物への再認識に繋がったことは良かったのではないかと思う。今まで熊谷ルネッサンスでは、私の好きなミース・ファン・デル・ローエや、フランク・ロイド・ライトなど建築家の実例や思想を織り交ぜながら書いてきた。そんな建築マニアに対して「ル・コルビュジエの建築作品」が世界文化遺産へ、というトピックスが入る。何故か「おめでとう」みたいな賛辞を含みながら教えてくれる人もいる。全くの部外者で、どちらかというとミースかなあという私にとっても嬉しい話。ル・コルビュジエの作品に目を通してみると、彼の建築の方向性はまさに白い箱と形容される如くに、佐藤武夫の市庁舎建築の志向とも共通するものを感じる。熊谷市庁舎の白い立体的直線性の特徴とも繋がる。ルッコルと佐藤を結び付ける線については分からないが、モダニズム建築に対しての関心が再び高まるであろう機運の中、少し誇らしく感じた。


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39

地元のオーケストラにて演奏されるモーツァルト交響曲第39番変ホ長調 K.543。モーツァルト最後の三大交響曲の幕開けを意味する39番。39番からジュピター交響曲の41番まで、僅か1ヶ月で作曲されたという。この交響曲は予てより喜びに満ちたものとして表現されることが多かったが、他の同時期の楽曲との比較から、第1楽章第1主題のスラーや第2楽章、第3楽章のメヌエットに含まれる穏やかなる冷静さは、死や信仰の悲哀などを意味するのではないかとの見解も提出されている。第1楽章のアダージョからモーツァルトの本領ともいえる歌うアレグロを経ての経過部は堂々とした曲調となっている。この部分はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第1楽章の主題を思わせる。この側面からもこの楽章はベートーヴェンに影響を与えたことが推察される。また、この交響曲の特徴として言えるのは、管楽器の編成の中でオーボエに代わってクラリネットが用いられたことにある。当時、新たな楽器としてのクラリネットの利用が確立される中で、この曲でモーツァルトはクラリネットを主軸に置いた。それはまた変ホ長調という調性の選択にも関連が及んでいるように思える。第3楽章でのクラリネットの優美であり淡く響き続けるメヌエットはセレナードに近く、先程の深刻な意味合いの中にも優しく輝く光であるのではないか。そして、第4楽章のアレグロへと繋がる。ソナタ形式の構成美はジュピター交響曲の最終楽章を彷彿する。この楽章では暗闇から光を見出す希望に満ちたポリフォニーが前面に出されている。それはジュピターの先へと進み出て、ベートーヴェンの交響曲第7番の踊るような躍動感に満ちた最終楽章に対する影響をも窺うこともできる。死や信仰に対する想いを超えて、モーツァルトが辿り着いた一つの境地を表現するごとく、極めて新鮮なコーダを迎える。本人が生きている間に演奏された記録は残されていないが、モーツァルトの天才性を多分に含む名作であることは明らかであると言えよう。

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指揮者とは。芸術家とは。

好きな指揮者は誰かと聞かれることがある。指揮者により、勿論オーケストラにより、同じ作曲家の同じ作品が全く異質に聞こえることが多い。完成された音楽を感受する中で良し悪しを付けることは難しいが、また指揮者は優れていてもオーケストラによって目的に達し得ないことも多い。そのような双方の関係性を捉える時、指揮者の指揮法に対する趣向も生まれる。私が好きな指揮者は何人もいるが、私の好きな指揮法でオーケストラを操る指揮者は限られている。その一人がカルロス・クライバーである。残された音源と映像は少ないが、彼の流麗な指揮に世界は圧倒された。彼はオーケストラの常任指揮者に就くことを嫌っていたと言われる。好まない曲目は指揮しない。理解のない演奏者からは遠ざかる。それでも彼の指揮と音楽に対して多くの人々は魅了された。いまや普段の生活をこなしながら、芸術に向き合う人は多様に多数いる中で、彼のような生き方は難しい。一流の演奏家、著名な画家であれ、自身の美学や芸術性を全うできる人は極めて少ない。生きる中での日常と絶えず向き合わなければならないからだ。だからこそ、彼のような生き方...は、勿論自分がそうなりたいと思うことはないが、相当な魅力を孕んでいるのは間違いない。なりたい、と魅力に思うは違う。組織の中で生きる芸術家は、その仕事に身を置き、少なからず自制している。生きる術として、その抑制がその身を保障する術である限りは大切なことである。自制を解けば、真の芸術が到来するとも限らない。オーケストラに属さない指揮者、ソリスト、筆一つだけで挑み続ける画家は過酷であるが自由である。自由であるが過酷である。まさに孤独であるが自由。自由であるが孤独の立ち位置と向き合う中での芸術家である。このような存在が市民社会の中から見出され、新たな芸術的な世界を開拓していった近代は最早遠い過去のものになってしまった。対して、現代に生きる私はどうかと考える。私にとっての絵画や評論、在野での研究は生活の糧にはなり得ないものであるが、趣味とは認識していない。与えられた仕事は真摯に全うする。そして、この仕事ではない仕事に今ある力を注ぐことにより、私は今ここに生きている意味を見出しているのではないか。芸術が私を救い、これからも救ってくれる。金曜の夜、眠気の中でそう考えている。


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響きの記憶

ウィーン国立音楽大学でウィーンフィルハーモニー管弦楽団コンサートマスターのライナー・キュッヒルに師事した大島響。5年前の熊谷うちわ祭の最終日、朝3時くらいまで調査した勢いで、そのまま東京での凱旋コンサートに足を運んだ。キュッヒルの奥様は日本人でもあり、そんな由縁からも日本人の弟子の活躍を後押しするという逸話は多い。彼女はドイツ・ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターを経て、2010年よりハンブルク州立歌劇場管弦楽団(ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団)の第2ヴァイオリンの首席奏者を務めている。 そして、世界屈指のオーケストラ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、バイエルン国立歌劇場管弦楽団でも客演首席として登場し注目を集めてきた。演奏されたイザイの無伴奏ヴァイオリンソナタ第4番(クライスラーへ捧ぐ)やフランクのヴァイオリンソナタを懐かしく思う。




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大島響 Hibiki Ohshima/Violin







ここくま

ここくま。
私の指とスマホ。
読売新聞。

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熊谷市庁舎と佐藤武夫

熊谷市庁舎と佐藤武夫。大隈講堂を設計した人物の遺作的作品が熊谷市庁舎。身近な街路をシャンゼリゼに例える冒険と、解体ではなく保存に意味を与えるルネッサンス。

あたかも毎回がピアノソナタの作曲のようにも感じ、長い道のりを経て、ようやく第30番。ベートーヴェンはピアノソナタを32番まで作り上げましたが、恐れ多くも、その数だけを見るとすれば、一つの目標点に近づいています。そして、今の立ち位置を見つめながら、この先を見通しながら、ベートーヴェンのピアノソナタ第30番を思い起こしています。本当に素敵な曲で、第1楽章の第1主題は心踊るように。この音楽から次なる一歩を踏み出そうと思います。

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エロイカ

小麦畑を前に車を止めて太陽を拝む。ベートーヴェン交響曲第3番を聴く。クリュイタンス指揮、ベルリンフィル初めてのベートーヴェン交響曲全集から。新たな時代を開拓した名作。ベートーヴェンの天才性は凄まじいと改めて考えさせる。夕陽を浴びる小麦畑に、ベートーヴェンのエロイカがこれほどまで合うとは思わなかった。ベートーヴェンの風格と小麦畑の風格とか合致した瞬間が確かにあった。

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2016年5月 6日 (金)

フランク ヴァイオリンソナタ

セザール・フランクという人生。彼の代表作に挙げられるのは「交響曲 ニ長調」と「ヴァイオリン・ソナタ イ長調」である。ともに晩年の作品で、作品数が少ない作曲家であるにもかかわらず、この2つの記念碑的作品によって彼の名は永遠となった。このことからも大器晩成型の作曲家として解釈されることが多い。またフランス系であり、ドイツ音楽を下地にした作風は、その当時では限定的な理解に留まっていた。この2作も作曲当初は聴衆からの評価も一定ではなかった。フランクへの理解と評価は、作品が広く演奏される中で徐々に高まりを見せた。その栄誉に浴する時間は短く、フランクはその交響曲を作曲してから数年後には没している。ヴァイオリン・ソナタの第4楽章に響く旋律は奥深さや渋さを含みながらも若々しさが漂う。このソナタもベートーヴェンとブラームスと同じく、冷淡さや暗みを経て光明による救済へと至る。光明と希望が散りばめられている第4楽章へ。この旋律がフランクに永遠なる命と若さを与える。


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チェロ・デュオ

正田醤油 文右衛門ホール
《関根優子・関根順子
チェロ デュオ コンサート》

ご姉妹のうち、関根順子さんとは不思議な縁があり、熊谷出身の同い年でイタリアで活躍しているピアニストの森田義史さんと桐朋学園大学の同級生。そして、私の個展で演奏してくれたヴァイオリニストの後藤典子さんとも芸術学校やオーケストラでご一緒されているチェロ奏者ということで、7月の演奏会に引き続き、足を運んだ。文右衛門ホールの木の温もりの中で響くチェロが心に沁みた。

曲目はバッハ無伴奏チェロ組曲第1番。プレリュードからジーグまでを姉妹交互に弾く。プレリュードの駆け出しから力強く。この曲の真骨頂の一つがサラバンドにある。この曲は順子さんが弾いた。いつもこの音楽を耳にすると、冬の曠野を思い出す。雪が積もる平原の中央に銀色の道があり、太陽が燦燦と輝き、雪の冷静なる白と太陽の輝く白が呼応し合う中を、前へと進む感覚。これは絶え間のない祈りのような気高さも感じられる。まさにチェロの響きはこの想像を加速させるのだった。

沢田千秋さんのピアノが加わり、エルガーの愛の挨拶、パッヘルベルベルのカノンへと繋がる。実は沢田千秋さんも藝大の奏楽堂コンサートで耳にしていたことがあり、またリストによってピアノ編曲されたベートーヴェンの交響曲についての研究でかねてより存じ上げていて、これもまた不思議な縁だった。 ロッシーニへの《デュエット》へ。これは元来、チェロとコントラバスのデュオで知られている曲を、チェロ版として編曲し演奏された。ロッシーニといえば、モーツァルトからの影響もあるが、華やかさの中に重厚さを併せ持つ楽曲として表現されている。最終楽章のクライマックスに向けた一気呵成の前進は迫力があった。

休憩のコーヒーブレイクを経て、後半へ。ピアノソロの愛の夢で穏和に始まり、順子さんによるパガニーニ作曲、ロッシーニの主題による変奏曲。この難曲に立ち向かった技量と気力はまさに勇者のようだった。A弦のみで奏でる超絶技巧の一端が垣間見られた。続いて、カサド作曲の《親愛の言葉》は優子さんが弾いた。スペイン民謡のモチーフからの懐かしみのある曲調ながら、これもまた難曲。全体的に安定感のある収め方からも技術の高さが感じられた。 プログラム最後はヘンデル《トリオ・ソナタ ト短調》。バロックの弦楽デュオとしても壮麗で重厚さ、更には熱情的な響きが発せられていた。第3楽章のラルゴはアリアにも近く、冷静さの中にある深刻な祈りにも似た曲想が心に迫るようだった。バッハ無伴奏チェロ組曲のサラバンドとも通底する白く輝く音のほとばしりを感じざるを得なかった。そして、最終楽章のアレグロ。この標題にはコンフェルメッツァ(しっかり明確に)が加わり、更なる抗いや戦いを挑んでいるように思えた。2つのチェロはピアノの伴奏と交わりながら、決然とコーダを目指し、多様な技巧を重ねた。響きは厚みを帯び、最後の一音に壮大な精神性を込め、じっくりと余韻が残されるのだった。 チェロから触発され、私はどこへ向かうか。新たな模索が始まった。




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我々はどこから

埼玉新聞「熊谷ルネッサンス」。ゴーギャンの名作「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこに行くのか」から考える秩父道しるべ。

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ラルゴ

バッハ《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番》ハ長調 BWV1005 第3楽章ラルゴ。このラルゴはへ長調、4分の4拍子。前楽章の354小節にも及ぶ壮大なフーガを乗り越え、21小節という短い楽章。冒頭のアリアのような旋律。自然の脅威に打ち拉がれ、苦難に見舞われた人々に対する癒しとなりますよう。


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サンジェルマン・デ・プレ


26歳の時、公募展に初めて出品した絵画《サンジェルマン・デ・プレの春》。この批評会の際、画家の原田二郎さんからこの絵を褒められたことが、本格的に絵を描き始めるきっかけとなった。そして、今に続いている。そんな偶然の出会いを経験してから、それぞれの瞬間に宿る運命を大切にしたいと思うようになった。




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山下祐樹 《サンジェルマン・デ・プレの春》











2016年5月 5日 (木)

レカミエ

レカミエの女神。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ニ長調。第1楽章の中終盤。独奏ヴァイオリンのトリルと共にクラリネットとファゴットが下地を奏でる。弦楽器が繰り返した後、独奏ヴァイオリンがピアノからフォルテに高まる。すると、管弦楽のみの全合奏で、第1楽章を象徴する旋律が奏でられる。この部分は約60小節もあるが、独奏ヴァイオリンは登場しない。これは楽章の冒頭にある管弦楽の前奏を独奏が待ち受ける場合とも色合いが異なる。この60小節を演奏者は立ちながら、管弦楽を身に浴びる。この約2分間における独奏者の姿勢や動作から音楽家としての美学が見え隠れすることがある。視線や体の動かし方も音楽なのだ。ストラディバリウス「レカミエ」を手にする演奏者のことを考えながら。



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あふれるひかり


師として仰ぐ言語学者で歌人である中村幸一先生の第4歌集『あふれるひかり』。音読する。癒される。信念を感じる。触発される。そんな素晴らしい歌集だった。今日という光と共に。

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見出せる光

同い年のヴァイオリニストの音楽に触発されながら、早くも15年が経過する。1999年のパガニーニ国際ヴァイオリンコンクールで優勝してからのこと。数多くの演奏と録音を残してきた。途中で彼女は画家としても活動している。自由であるが孤独。孤独であるが自由。それはバッハ、ベートーヴェン、ブラームスに連なるモチーフである。彼女のシャコンヌは壮絶で神憑り的であるが、このモチーフの延長線上にあるように思える。私を待つべき死が遠いのか、近いのか分からない。それでも今を力強く生きることで見出せる光は必ずあるのだから。

https://www.youtube.com/watch?v=Asa7FOnkQtE&app=desktop












軽く。

猫は身軽だ。一方、私には色々積載していて良くない。とは、言えないから、毎日を淡々と過ごす。それは猫と同じだ。同じ時間に食事し、お出掛けし、だいたい同じ時間にお気に入りの場所で休む。嫌いな猫が来れば、身構えなければならないし、好きな猫が来れば、それなりに格好をつけなくてはならない。人間には難しいかも知れないが、心のどこかにはそんな素直さを大切にしたい部分もある。私にはやりたいこともたくさんあるし、叶えられていないこともたくさんある。でも、その全てに手を伸ばすことはできない。そんな実力も勇気も、時間もない。喜びや幸せにも鈍感になっている。だからこそ、猫のように、その素直さや純粋さを忘れないようにしたい。


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