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2013年1月20日 (日)

市民社会概念の思想史―M・リーデル『市民社会の概念史』読解  

第一章  市民社会概念の思想史―M・リーデル『市民社会の概念史』読解  

第一節 市民社会概念の歴史的系譜  

第二節 二分法的解釈の意義―GemeinschaftGesellschaft 

 本章の主たるテーマは、市民社会の概念の変遷を考察することである。ここでは、市民社会概念への着目を主とした内容としながら、その中で共同体とは何かという問いを包含する幅広い視線を準備する必要がある。それは、市民社会の概念史を基本線として歩みを始めるが、その多くに共同体概念についての議論が止むことなく生じていることも明白だからである。

社会史という通史的理解における、市民社会および共同体に着目する方法や論点は多くあり、容易に収拾を付けることは難しい。よって、「概念の歴史」という主題に沿って論考を行いたい。けれでも、この方法も曖昧性を持ち合わせる観点であるといえる。そこで本章において、市民社会概念の歴史に関しての一級研究書であるマンフレート・リーデル『市民社会の概念史』(原書Geschichtliche Grundbegriffe, hrsg. Von Brunner/ Conze/ Koselleck, Bde. Klett-Cotta Stuttgart 1975-82(一)に示される要所を通読し、概略を取りまとめることで、「市民社会」の概念についての論究を行う。

 『市民社会の概念史』の著者マンフレート・リーデルは、一九三六年に旧東ドイツ・ザクセン州のエッツォルツハインに生まれ、一九五四年から一九五七年までライプツィヒ大学において、エルンスト・ブロッホ、ヘルマン・アウグスト・コルフ、ハンス・マイヤーの指導を受けながら、哲学とドイツ文学を学んだ。しかし、社会主義国家に絶望したリーデルは、その後一九五七年に当時の西ドイツへ移住し、ハイデルベルク大学のカール・レーヴィット、ハンスーゲオルク・ガダマーのもとで研鐙を積み、一九六〇年に学位論文「へーゲル思想における理論と実践」を提出して、一九六八年に大学教授資格を取得した。一九六九年から二年間、ハイデルベルク大学、ザールブリュッケン大学などで私講師を務めた後、一九七一年にエアランゲン・ニュルンベルク大学教授に就任した。その後、ハレ・ヴイッテンベルク大学教授として、哲学を講じた(二)

 リーデルの主な研究テーマはヘーゲル研究であるが、その対象領域は哲学、倫理学、法学、歴史学、社会学と多岐にわたっている。解釈学的批判主義という独自の方法論を駆使し、「市民社会における理論と実践」を主要論点として考察した功績は著名である。一方、リーデルは一九九〇年に、イタリア・ニーチェ賞を受賞し、一九九一年よりマルティン・ハイデガー協会の会長職を務めた。リーデルの著書は多数発刊され、世界十数か国の言語に翻訳されている。邦訳書は、『へーゲル法哲学―その成立と構造』(清水正徳・山本道雄訳、福村出版、一九七六年)、『規範と価値判断倫理学の根本問題』(宮内陽子訳、御茶の水書房、一九八三年)、『解釈学と実践哲学』(河上倫逸、青木隆嘉、M・フーブリヒト編訳、以文社、一九八四年)、『へーゲルにおける市民社会と国家』(池田貞夫、平野英一訳、未来社、一九八五年)、『体系と歴史―へーゲル哲学の歴史的位置』(高柳良治訳、御茶の水書房、一九八六年)が挙げられる(三)

 リーデル『市民社会の概念史』は、特定のシリーズに投稿された論考の集成であるにもかかわらず、「市民社会」を語る上では看過できない術語の変遷を中心とした概念史を仔細に論証している。『市民社会の概念史』の構成は、第一章においては「市民社会」を説明し、古代ギリシア時代から中世を経て近代の哲学領域に至るまでの市民社会概念の系譜を論理的に描写している。第二章においては「市民、公民、市民階層」を主題とし、同じく古代ギリシア時代からの市民や公民の概念的把握を行っている。第三章においては、「ゲゼルシャフト、ゲマインシャフト」が取り上げられ、伝統的なゲゼルシャフト理論の解説と、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトという二分法の解釈に対する諸議論が述べられている。第四章においては、「システムと構造」という項目の下、伝統的なシステム論の把握と科学的なシステム学を中心とした議論が行われ、システムと構造に関する歴史的な経緯が述べられている。「市民社会」という本章のテーマに基づいて、本章は特に『市民社会の概念史』の第一章と第三章を参照することになる。

第一節 市民社会概念の歴史的系譜

 リーデルの論考は、次の術語解説から開始される。「ヨーロッパ政治哲学上の術語としての〈市民社会 bürgerliche Gesellschaft〉は、アリストテレス以来伝承され、およそ一八世紀中葉に至るまで通用した、古い言語伝統においては、《市民団体》ないし《市民共同体》といったことを意味する。これらの語においては、市民が自由で平等に共存し(通常は市民自身によって担われる)、政治的支配形式(共和政や貴族政あるいは君主政も含む)に自ら服する社会ないしゲマインシャフトが理解されている。〈市民社会〉は、その歴史的由来によれば、〔政治的共同体を意味する〕ギリシア語のポリティケ・コイノーニアの、ラテン語のソキエタス・キウィリス societas civilisの逐語訳であり、たしかに発音上の違いはあるがこれらの表現と同じ意味の術語である。」(一)そしてこの解釈に対して、「一九世紀初頭に始まる新しい用法では、〈市民社会〉は、中世の封建社会の諸々の政治的支配形式から近代市民階層が解放されることによって生まれた、市民たる私人からなる社会を意味し、彼ら市民たる私人は、自由と平等の原理によって人格としても所有者としても相互に独立し、―初期の市民的自由主義の理論的雛型によれば―人間による人間に対するいかなる支配にも服さないものとされる」(二)というように指摘を加えている。

 つまり、ギリシア語=ラテン語の伝統をひく古い用法では、〈市民〉社会ということで、常に《政治》社会が理解され、その結果、この場合の語義は支配団体としての市民共同体(ポリス・キウィタス)とその公的=政治的組織つまり《共同組織〔=国家〕》(ゲマインヴェーゼン・コイノン、レス・プブリカ)をも含意するのであり、これを定式化すると、市民社会は政治的支配形式つまり《国家》と同意味ないし同義語であり、両術語とも同一の概念を表わしているということになるということである。対して、新しい用法では、〈市民社会〉と〈国家〉とはまさしく相対立するものとされ、そこでは〔市民社会という〕術語の用法は支配・組織形式の欠如ないし否定によって定義されるのである(三)

 リーデルは「〈市民社会〉はいまや市民たる私的所有権者からなる社会、つまり人間による人間に対する政治的支配にかえて、(人格および所有権の自由という原理により)物に対する経済的支配だけがなお承認されるような社会という、脱国家的脱政治的な領域だけを指している」(四)と述べ、政治的な意味での市民社会という観点を先ず提示しているのである。続いて、その術語用法の変遷について、リーデルは次のような論述を加える。

そこから政治哲学にとって、〈市民社会〉という術語のもつ同音異義の問題が生まれる。つまりその用法は多種多様であり、近代世界の社会的関連のなかでますます多義的となってきたのである。同音ないし同一名称が様々に適用され、その意味がもはや時代や状況にかかわらず不変のものとしては通用できない事態が一八世紀から一九世紀への移行期に随所で露呈し始める。(五)

 この説明に続き、リーデルはカール・マルクス『ドイツ・イデオロギー』の序文を引用する。「市民社会という語がでてきたのは一八世紀であって、所有関係がすでに古代的および中世的な共同組織からぬけだしていたときだった。市民社会そのものはブルジョワジーとともに初めて発展する。しかしながら直接に生産と交通とから発展する社会組織は、全ての時代に国家およびその他の観念論的な上部構造の土台を形づくっているが、やはりいつでもこの同じ名称で表わされてきた。」(六) すなわち、マルクスやエンゲルスにおいては、市民社会は自由な所有権者からなる人的結合体という自由主義的モデルによっては考えられてはいないということである。リーデルの指摘によると、マルクスはこの点で初期社会主義の自由主義批判を継承しつつ―物〔=財〕に対する人格の支配が目指されたことと結びついて、政治的、社会的な結果、例えば、物〔=財〕ではなく労働力だけをもつ人間に対する所有権者の支配を指し示しているということであり、この支配によって「市民社会の言語的連関体系はもう一度更新される」としている(七)

 つまり、市民社会は、あらゆる支配を免れ、自由で平等と認められただ市場法則のみに服する人格と所有権者からなる結合体を意味するのでなく、有産階級に従属する無産の《プロレタリア》階級と区別された、《市民》の有産階級つまり、資本と労働の対立に基礎をおく一九世紀の《ブルジョア社会》という意味での市民社会を指す、ということである(八)。これらの点の問題性に対して、リーデルは「概略だけを示した背景からしても、〈市民社会〉という術語と、とくに現代に至るまでのドイツ語の概念伝統のなかでのその適用とに付随する未解決の問題が多々あることは理解されよう。イギリスやフランスのような西ヨーロッパ諸国においては、明らかにこの語の歴史は、ドイツは別として、変化に富んではいない」(九)と述べ、具体的に、「これらの国々では(観念論哲学以前の)古くからの源泉に由来する自由主義による〔社会〕解放運動が政治的に成功をおさめ、理論においても実践においても市民社会と国家とは伝統的に同一視され、それが姿をかえながら繰り返されたからである」とし、「英語の〈シヴィル・ソサイエティ civil society〉やフランス語の〈ソシエテ・シヴィル société civile〉は依然として政治社会と同義語であったのに対して、自由主義の伝統のうすいドイツでは市民社会と国家との対立が一九世紀初頭以来のこの語と概念の歴史を一貫して規定してきた。」(一〇)と示している。これは他の側面でも見られ、例えば、英語のCommunityが様々な意味を総括した一語として使用されている事例を我々に想起させてくれる。

 リーデルが次に行った市民社会という術語についての言語連関系の区分は、市民社会の概念を研究する上で、一つの要綱的な規定となる素地を多分に含んでいるといえよう。

〈市民社会〉という語を、それと関連する同義語や同音異義語との歴史的文献学的緊張の場に置きつつ、その歴史を全体的に概観すると、明らかに次のようないくつかの言語連関系が相互に区別される。(一)ギリシア=ラテン語的連関系。これは古典期ギリシア政治学から、ローマ法と聖書キリスト教を経て、スコラ哲学盛期におけるアリストテレスの再受容と近世初頭の自然法論に及ぶ。(二)市民的=自由主義的連関系。これは一八世紀から一九世紀にかけて自然法論より発展した。(三)社会主義的=革命主義的な連関系。これは自然法論に刺激を受けたが、その後その《自由主義的》で《伝統主義的》な観念世界を見捨てた。(四)市民社会成立以後の市民社会の連関系。これらの連関系には、それぞれに様々な形で構築され構造化された用語法と特殊な理論形式が対応しており、これらは個々の相互に共通する点もあるが、およそ次のように分類される(一一)

第一の系の用語法は古典期ギリシア政治学(アリストテレス)によって、第二の系の用語法は近代自然法論(ホッブス、カント)と合理的で歴史哲学的に基礎づけられた初期の社会理論(社会学)とによって、また最後に第四の言語系の用語法は、ヨーロッパの階級闘争や市民闘争の政治的に〈保守〉派ないしは〈革命〉派の防疫的戦略によって、それぞれ特徴づけられる。これらの用語法と理論はしばしば相互に混淆しているので、それぞれの局面や系を相互に正確に区分することはできない。こうして第一言語系に関係づけられる市民社会のポリスモデルは、なお第二の連関平面、つまり近代自然法論の契約モデルにおいても作用しており、後に第三の局面になって初めてその受け継がれてきた雛型は最終的に解消される。ここにいたって初めて概念のイデオロギー化の問題、つまりその複義性ないし多義性の問題が生まれる。このようなイデオロギー化は正確にはその概念を政治的=自然法論的伝統によって使用するという規準が失われ、そして近代の社会革命運動がその概念を社会の政治的なグループ別けの規準としてのみ使用する可能性を認めた時点に始まる。そうした規準の功能のいかんによっては社会的=歴史的世界にかかわる基本術語についての一般的な了解は、もはや認められないばかりでなく、言語=革命戦略的な理由によって無用とされる(一二)

 ここに多く引用した市民社会に関する区分と解説は、市民社会の概念史の要点を色濃く示唆したものであるといえる。つまり、用語法に基づく歴史的な区分という側面と、各学問体系に従った区分という側面を、並行して理解することが求められている。しかしながら、この区分の基底部は簡潔に説明できない多くの問題が存在している。それはまさにイデオロギーや志向に関する問題である。それぞれの市民社会への認識と用語法が合致したものであるかどうかという判別はできない。また、政治的な市民社会を踏まえて、この用語を使用しようという判断は決して安易なことではなく、一概には説明できない。ただし、区分の順序のように歴史的に古きから新しきへという過程に則して、市民社会の概念の変遷を捉えることは、歴史の進展と概念の変遷という二項の関係性を把握するために有効であろう。その最初期が古典期ギリシア哲学である。

 リーデルは、古典期ギリシア哲学における市民社会の概念について説明することから、市民社会に概念の実質的な史的考察を開始する。すなわち、「〈市民社会〉という語が政治哲学に採用されたのはアリストテレスにさかのぼる。ポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕というアリストテレスの造語に近似したいくつかの表現法はプラトンにみられるが、アリストテレス以前にこの表現が術語として確立されていたことは検証できない。しかしアリストテレスが、日常語において時にポリスを表わすものとしてすでに存在していた表現を採用しそして政治哲学上の専門的用語として学問的に《規準化》したと思われる。」(一三)と述べ、アリストテレスはこの語を彼の『政治学』の冒頭に着目し、「人々の間には様々な共同体〔社会〕の形態があり、そのうちのひとつが真に独立したもので、残りの〔共同体の〕ことごとくを支配している―これがいわゆる《市民》社会すなわち《政治》社会としてのポリスである」(一四)として、アリストテレス『政治学』冒頭から「それこそがポリスと呼ばれているもの、すなわちポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕なのである。」という一節を引用している(一五)。更に、政治哲学とその一八世紀に至るまでのヨーロッパに広範に存続した言語意識にとって、このアリストテレスの解釈は決定的な意味を担ったとしている。

 つまり、アリストテレスは、ギリシアの日常語である〈ポリス〉や〈コイノーニア〉のような語を、ポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕という術語に要約し、これをポリスの歴史的実例に即して説明することによって、ギリシア都市共同体から分離し、ローマ共和国や、近世ヨーロッパの都市や国家世界へと転用された普遍性のある市民社会概念を前もって示したということである(一六)。更に、リーデルは「ポリスの《本質》とは何かを範例的に―《善き》すなわち徳のある幸福な生活という目的のために相互に結合する市民の社会と―説明することによって、アリストテレスの市民社会〔概念〕は、普遍性の点で他にもはや凌駕されることも他の術語によって置き換えることもできない政治学上の概念形成の雛型として通用する」という評価を行っている(一七)。そして、アリストテレスにおける市民社会の概念化に関して、次のような三用法が本質的であるとして、より具体的な解釈を示している。

第一は《家》(オイコス)と《都市》(ポリス)、すなわち、《家》共同体〔社会〕と《市民》社会との区別である。ポリスは、アリストテレスの理解によれば多くの《家》々の連合体であり、《家》々と諸《氏族》、すなわちギリシア自由人の同族結合と家族結合とから組織される。しかしながらかかる組織には、本来的に政治的なものと家政的なものの領域との対立が固着しており、これがポリスとオイコスを相互に分化させる。(一八)

この対立は、アリストテレスが奴隷、居留民、〈市民社会〉という術語を規準化するさいに用いる第二の区別、つまり自由人(《市民》)と非自由人(〈非市民〉、外人など)という身分によるポリス住民の分類から、説明される。市民社会の発生、つまり《前市民的》共同形式からポリスへの移行は、個人の保持と個人の生活上の欲求や必要の充足がすでに確保されていることを前提にしている。かかる個人的欲求の充足は、近代的観念とは異なり、アリストテレスにとっては市民社会ではなく《家》共同体の義務である。家共同体の学としての家政学と政治学―市民社会とその政治的な体制の学としての―とが相互にかかわるのは、市民が同時に家の主人であるかぎりにおいてである。この二重の機能のうちオイコスは、全ての市民に共通のもの、つまりポリスないしポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕という公的なもの(コイノン)から排除された《私的なもの》(イディオン)の領域として、現われる。市民は、《国家》と同視される市民社会の成員として、《家》という私的領域に属するのではなく、逆に、《私的なもの》を支配しつつ、家の主人として労働と経済的生産の領域から解放されているからこそ、市民でありうるのである。(一九)

そこから更にアリストテレスはその概念の専ら政治的な意味を規準化する第三の区別をも見出す。アリストテレスにとって国家経済の《学》なるものはなお存在しなかった。というのも全ての《家政的》な知識は、生活を維持していくうえで必要なものとされるだけで、全体として《偶然的》であり《無価値》だからである。生活に必要な手段を《支配する》ためには、《家政的》な支配だけで十分であり、それには何ら特殊な知識を要しないのである―《政治的》(市民的)な支配への関与はこれとは逆で、市民たるものはこの支配というものを常に《理解》していなければならないとされる。《家政的》な支配が非自由人(奴隷)、未熟自由人(子供)、権利制限的自由人(妻、女子)に拡張され、実力にのみ依拠するのに対して、市民的な支配は自由人による自由人に対する支配であり、この支配は被支配者の合意のみならず、アリストテレスによって市民社会の秩序とされる法をも前提にしている。(二〇)

このリーデルの示した、アリストテレスの概念化に関する三区分は、あくまで政治共同体の内実の説明を客観的に行ったという意味がある。重ねてリーデルの説明を確認するなら、「アリストテレスの術語はその哲学的原理的意味とギリシア都市国家の時代と歴史に拘束された自己理解を越えた規準的意味を獲得する。ポリスとは、ポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕、つまり、実力や圧制にではなく、法の原理にもとづく自由で平等の人士の社会としての、〈政治社会〉のことである。このようにアリストテレスが彼の時代の政治学的な用語を規準化することによって、この術語自体、人間の社会形式と支配形式を規準化する機能を得るのである。つまり、この術語は政治社会を他の全ての社会から区別するのに役立つ。換言するとポリスという形をとって初めて歴史に登場した《社会》、つまり自由な人士としての人間を原理とし、平等の人士としての市民を支配の主体とする《社会》を規定するのに役立つのである」。(二一)アリストテレスは、『政治学』における二個の基本原理として、人間は本性上「政治的動物」であり、ポリティケ・コイノーニア(政治的共同体)としてのポリスは人間社会の発展の目的であり、「規範」であるという理解に結び付けるのである。

 しかしながら、リーデルはこの基本原理に対して批判を加えている。それはつまり、「この点にアリストテレスの概念形成の限界がある」ということであり、「アリストテレスは人間の本性を常にすでに歴史的に解釈しているので、この人間の《本性》と、ポリスという市民社会における人間の社会=歴史的な存在との関係は、説明されないままにとどまっている。まったく不確定的な意味で《本性的》である二つの関係形式、つまり、社会形式と支配形式が(事実上)存在する。すなわち主人・奴隷関係と市民相互間の関係つまり市民社会自体が存在する。こうして結局のところポリスの起源をその二重の本性概念によって規定しようとするアリストテレスの試みもまた挫折している。」という批判である(二二)

 要するに、ポリスの組織は人間社会の現実化として、社会と支配との正と不正の規準であり、ポリスの目的に対応する社会は《正しい》ものとして現象するという前提に立つ場合、自由かつ同等の人士の間の《法》によって形成される市民社会自体に《正しくない》支配関係の基礎を置いていることは、いささか矛盾を孕んでいるのであった。また同時に、リーデルは、アリストテレスはこれらについて問題にしないことに併せて、支配と従属との関係の規準について問うていないと分析している(二三)

ラテン語的概念

 続いて、リーデルが着目するのは「ラテン語的概念伝統」である。市民社会の理論におけるアリストテレスの欠陥は、アリストテレスの理論が大きな影響を与えたヨーロッパの政治哲学の用語の変遷と系譜に向けて難点を付加した点であるとされている。アリストテレスが論じた、貴族が支配する、限定された自由権にもとづく生活形式という概念は、(帝政期以前の)古いローマのキウィタスのみならず中世ヨーロッパの貴族世界や都市世界、更には近世初期の身分制社会を再認識するための試案となった(二四)、だが、この実相について、リーデルは「ヘレニズム時代の新しい大帝国が成立し、ギリシアの都市国家が衰退するとともにアリストテレス的概念が存続するための根拠は、初めて失われたように思われる。伝承の史料を概観するかぎりでは、アリストテレス的概念は実際のところペリパトス学派においてのみ受け継がれ、更に教義編集として伝達されたにすぎない」というように説明している(二五)。そして「一方でストアの世界主義的なエートス、他方でエピキュロス派や懐疑派の哲学の隠遁的なエートス、そして最後にキリスト教の勃興、これらが古代末期においてアリストテレスによって規準化された適用可能性を越える概念の発展をもたらす」(二六)という点を指摘し、その具体的な概念史に触手を伸ばそうとしている。

 特に、アリストテレスとの違いという点で、リーデルが重視したのは、「正しくない」支配関係の排除に向けた働きかけであった。すなわち、それは、「古典期ギリシア哲学が宇宙の秩序をポリスに投影するのに対して、ヘレニズム思想は宇宙自体を、神と人間に共通で《自然》からなる法ないし法則(共通法則あるいは自然法則)によって規制される《ひとつの》ポリスへと高める」ということであり、リーデルは「ストアのこの《自然法》は、《本性上》ポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕としてポリスに統合される自由で同等な人士たちの《法》から区別される。自然概念はアリストテレスにおいては主人の奴隷に対する支配を市民社会の支配秩序とともに正当化するものであったのに対して、ストアにおいてはいまや逆に主人と奴隷、市民と外人、ギリシア人と蛮人との区別を排棄するのに役立つのである」という解釈を与えている(二七)

更にリーデルは、説明を加え、「ストア派は人間を政治的動物としてでなく、《社会的》動物と呼び、エピキュロス派は共同組織(コイノン)にかかわる法を、諸個人間の詳しく特定化されていない相互的《社会》の前提として解釈した。このことはローマ法の用語のなかで受け継がれ、ローマ法はこの用語法をさまざまな形で受容した。古典期ギリシアのポリス理論が市民社会の雛型によって組織されない種族、民族、大帝国をその概念から排除するのにたいし、ローマ人にあっては《外人》のための法は万民法(iusgentium)上の制度を形成する。この点で、ストア的な世界皆市民の理念は、ローマ帝国に包括される諸国民と諸民族の連合〔の理念〕へと展開され、潜在的には、奴隷でなく自由人であるかぎり《全ての人間》にまで拡張される」(二八)というストア派に見られる新たな考え方を提示し、その意義を認めている。そして、「ローマ市民であると外人であるとを問わず(sive sives Romanos, sive peregrinos)。」という文言を引用して、ストア派ならびにエピキュロス派からローマ時代への水脈を説明している(二九)

 その後、これらヘレニズム思想の素地の上に、キリスト教が来訪したことによる変化が見られたことに着目し、リーデルはこのことをアリストテレスとの比較という意味で重視し、次のように指摘している。

  新約聖書の福音が政治的なものの領域にもたらした決定的な変化は、おそらく異教的な都市的世界全体にとって特徴的な市民と文化の共同態の統一性を解体した点に求められるべきであろう。アリストテレスにおいてはなおポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕の概念に属する、供犠と祭儀の共同、《都市守護神》の崇拝は、たしかにすでに以前に失われているが、キリスト教の普及とキリスト教の《教会》への組織化によって初めてポリスないしキウィタスと教会とが相互に対立するようになる。アウグスティヌスが古代末に神の国 civitas Deiおよびこれと地上の国 civitas terrenaとの対立という歴史神学として総括した、人間の二重市民権の理念も、先述の内容と関連している。この理念は紀元一世紀の百年間を通じて古典的政治学とそれにもとづく言語連関系をほぼ完全に忘却させた。(三〇)

  アウグスティヌスにおいては〈市民社会〉(そのラテン語化されたかたち〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉という術語は、わずかに一箇所だけに見いだされるにすぎない。そこではキリスト教以前の古代における市民と祭祀の共同態という先に挙げた連関を主題にしている。このことと呼応して、新約聖書で用いられる古代政治学的な術語の大多数はもはやこれらに本来的にそなわっていた意味ではなく、寓意的=神秘的意味をもつようになった。そこではおそらく、すでにヘレニズム期のストア学派哲学に始まったその空洞化の過程が極めて顕著であり、この過程は初期キリスト教の教父文献において存続する。しかしながらこれに対する反対運動は、すでに四世紀から五世紀にかけて、ラクタンティウス、アンプロシウス、そしていうまでもなくアウグスティヌスに始まる。(三一)

 

 キリスト教の来訪からアウグスティヌスまでの時期は、まさにキリスト教の組織化の起点をなしているため、キリスト教の「市民社会」への関心は薄く、上記に見られるように、神の国 civitas Deiという理念は、逆に祭祀的な共同態へと連結するものであるといえる。つまり、信仰における共同体の実践に向けたキリスト教的解釈が市民社会に関する議論より先んじていたと考えられる。そして、このことへの着目は、次章のエーレンベルクの論考へと結び付くものである。

リーデルは、「古代末期に再び〈公的〔存在〕〉になった教会の地位は、キリスト教的教義伝統がそれまで以上に強力に伝承の政治的観念世界とその言語的な基本形象とに結びつくという結果を生んだ。そのことが初期キリスト教における政治的な概念の脱世俗化と宗教的な新しい解釈を許容するかぎりにおいて、教会の指導者たちは、コイノーニア〔共同体〕論の古代的基礎を更新したのであって、このことから我々は、新約聖書の福音も古典=政治学的伝統をひく《市民社会》の理解を究極において打破することができなかったと判断できる」(三二)として、それらの難点を指摘している。

ラテン語への翻訳

 〈市民社会〉概念のヨーロッパ的な教養言語は、キケロ以来ポリティケ・コイノーニア〈市民社会〉のラテン語形の表現が存在するものの、このラテン語形が広くゲルマン・ロマンス語系民族の言語世界と概念世界に普及するのは、一三世紀から一四世紀にかけての、アリストテレスの『政治学』と『ニコマコス倫理学』の翻訳と、これに続くスコラ学派によるこれらの著作の註釈によるものが大きいとされている(三三)。リーデルはその市民社会の語形を仔細に取り上げている。この概念と術語・用語の双方を踏まえた諸解釈とその系譜を明確に記した論考は存在しないと思われる。まさにリーデルは綿密なまでの発掘作業を行ったのであった。その発掘によって得られた多くの知識と情報を次に引用し示したい。

キケロにあっては〔ポリティケ・コイノーニアという〕その語は〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉とも〈コムニタス・キウィリス communitas civilis〉とも訳された。ギリシア語からラテン語への翻訳という事実に目を向けると、コイノーニアが〈ソキエタス societas〉とも〈コムニタス communitas〉、〈コムニカティオ communicatio〉、〈コイトゥス communio〉とも訳しうることが注目される。中世において、アリストテレスの『政治学』を初めて翻訳したヴィルヘルム・フォン・メルベケは、一貫して〈コムニタス・キウィリス communitas civilis〉ないし〈コムニカティオ・キウィリス communicatio civilis〉〔という訳語〕を用いている。」(三四)

 

アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスの註釈は、ヴィルヘルム・フォン・メルベケのラテン語版をもとにしているので、彼らの註釈においてこれらの概念が好んで用いられていることは当然のことであろう。トマスはこれらの概念と並んで、〈ソキエタス・ポリティカ societas politica〉、〈ソキエタス・プブリカ societas publica〉のほかに、時には〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉という表現を用いている。これらの表現は最初キケロによってギリシア語の訳語として採用されたものであるが、一五世紀から一六世紀の人文主義者たちの翻訳により普及したと思われる。ここで先導の役を果たしたのは、レオナルド・ブルニィによるアリストテレス『政治学』のよく読まれたラテン語版(一四三八年)であり、ブルニィはメルベケの表現を「不合理で」かつ粗雑であると考えている。(三五)

 

一七世紀になると、〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉、〈シヴィル・ソサイエティ civil society〉、〈ソシエテ・シヴィル société civile〉、〈ソチエタ・チヴィレ società civile〉という語がアリストテレス主義者のみならず反アリストテレス主義者の間でも同様に広まり、その結果新しい訳語がそれとともに併存している訳語を〈古い〉ものとして次第に排除していく。(三六)

 

このような訳語の問題に関する一方で〈キウィリス civilis〉と〈ポリティクス politicus〉、他方で〈ソキエタス societas〉と〈コムニタス communitas〉という同義語が二重に用いられていることが我々にとって重要である。これに続いてポリスとポリティケ・コイノーニアとを同一視するアリストテレスの同一性の定式が第三の概念契機として書き継がれる。こうして一四世紀初頭ヤコプ・フォン・ヴィテルボは〈コムニタテス communitatescommunitas〕〉すなわち〈ソキエタテス societatessocietas〕〉の秩序は、人間の本性の傾性そのものによって展開される―。(三七)

 

〈キウィリス civilis〉と〈ポリティクス politicus〉との同義関係はこの〔コムニタスとソキエタスとの〕同一視に対応しており、この同義関係があの同一性の定式を示していることはすでにアルベルトゥス・マグヌスにある。アリストテレス『政治学』註解において、「人間にとって自然であるところのもののうち、キウィタス civitasとはコムニカティオ・キウィリス communicatio civilisすなわちコムニカティオ・ポリティカ communicatio politicaである」といわれている。(三八)

  

〈キウィリス civilis〉と〈ポリティクス politicus〉の同義性は、ギリシア語術語のラテン語への受容にさかのぼる。キケロは初めて「適切にも市民に関するcivilis―ギリシア語では政治に関するpolitikosと呼ばれる哲学上の論点」について語った。〈キウィリス civilis〉はローマ人にとっても、〈市民 civis〉つまりローマ国家 civitas Romanaの成員としての市民にかかわるものであり、市民に関する哲学 philosophia civilisとはしたがってギリシア古典哲学の構成部分としての政治学である。訳語上のこのような言語的事実は、〈市民社会〉の古い概念理解に組み込まれているはずである。(三九)

近世におけるこの概念の歴史を一瞥するならば、一八世紀末葉に明瞭になる《国家》(キウィタス、レス・プブリカ)と《社会》(ソキエタス、ソキエタス・キウィリス、ポプルス)の近代的な峻別だけでなく、少しのちに要請された《利益社会 ゲゼルシャフト societas》と《共同社会 ゲマインシャフト communitas》ないし《協同社会 ゲノッセンシャフト》との区別もその当時の概念理解には知られていなかったといえる。(四〇)

 これら引用した部分に含む多くの要点を踏まえると、今日的な用語の源泉は何かという問いへの解答を与えてくれる。用語の源流はアリストテレス『政治学』に見出されるが、〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉、〈シヴィル・ソサイエティ civil society〉、〈ソシエテ・シヴィル société civile〉、〈ソチエタ・チヴィレ società civile〉に示される「市民社会」の用語が各言語に共通して示された傾向は重視すべきことであろう。そしてこの傾向による統一化によって、政治学分野における市民社会の概念化が進展した系譜が自明なものになるのである。

 リーデルは上述の概念史の様相に加えて、一三世紀から一四世紀にかけてのスコラ哲学において行なわれたアリストテレスの術語の受容という状況について解説を行っている。すなわち、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスとは、アリストテレスによって形成された概念を、一方で聖書キリスト教教義と、他方で中世の都市生活の法的=政治的要素とを連結させたという分析であった(四一)。 

つまり、「人間の法がそれへと秩序づけられている共同体と神の法が秩序づけられている共同体とでは、それらのあり方が異なる。けだし人間の法は人々の和互の結びつきである政治的共同体communitas civilisへと秩序づけられている。―しかるに、神の法がそれへと秩序づけられているのは、現世の生においてであろうと、来世の生においてであろうと、神との関係における人々の共同体である」。(四二)という引用を行い、リーデルは《世俗的に》理解された政治的共同体(コムニタス・キウィリス communitas civilis)と、全ての人的規約を超越する超世俗的な神における共同体(コムニタス・ディウィナ communitas divina)との二極に着目し、トマスにあってはこれが更に現世と来世における形態が区別されるという説明を行っている。加えて、「古典的な市民共同体は、キリスト教を通じてその歴史的な状況との連関を失ったにもかかわらず、トマスにおいては神の信仰に生きる人々の国(神の国 civitas Dei、神のもとの国家 res publica sub Deo)への体系的な結節点として再現する」として、また、「たしかに(可視的教会 ecelesia visibilisと不可視的教会 e. invisibilisとして)その超越性はアリストテレスの市民共同体より高いところにあるが、しかしその歴史的内在性を破壊することはなかった」として捉えているのである(四三)

上述に加え、アリストテレスの市民共同体は、下に向かっては《家》共同体から区別され、上に向かってはアウグスティヌスの『神の国』に対応して《神の》共同体から区別されるとしている。すなわち、トマス・アクィナスはアリストテレス政治学の格言的註解において、アリストテレスのコイノーニアの形態を、《様々な共同体》diversas communicationesとして扱っているが、そこでは《自然的》共同体や《家》共同体が政治的共同体 communicatio politicaに先行し、それ自体は教会に体現される《神の》共同体によって超越されるということである(四四)。そして、リーデルは「実際、ある共同体は自然的なものであり、ある人々が自然的な由来で共同し、また、この共同体においては父と子と他の血縁者の友誼が形成される。ところである共同体は経済的なものであり、これによると人々が家内的な義務について相互に共同する。またある共同体は政治的なものであり、これによると人々は自分たちが同国民であるために共同する。第四の共同体は神的なものであり、これによると全ての人々が教会という唯一の団体において、あるいは顕現的にあるいは潜在的に共同する。」(四五)という指摘をここに付加している。続いて、リーデルは、「アリストテレス的概念の規準を越え、トマスがこの連関で先取りしているもうひとつの区別」を「すなわち永続的なことと一時的なこと(in perpetuum et temporale)という契機による人間の社会的生活の区別」であるとして、「トマスは《永続的社会 societas perpetua》として、市民社会を人間の生涯の全時間に(ad totum tempus vitae hominis)関係づける。これは彼にとっては《都市》での《居住》(mansio civitatis)」であるとして明確に位置づけることでトマスへの評価を提示しているのである(四六)

 つまり、都市における倫理的=政治的な生活形態は、目的論的=自然的に、人間存在の完成に属するとみなされるのではなく、市民的存在の有限性や神的存在に対するその無縁性を包含しているという理解である(四七)。アリストテレスにおける『政治学』のポリス理念はアウグスティヌスにおける神の国と地上の国の対置によって相対化され、その意味での《市民社会》は、時間とは無関係な古代都市のあり方をキリスト教的中世的都市住民という時間的存在に限定したところで現出せられていると捉えられる。その理解に基づいて、リーデルは「《公的社会すなわち永続的社会 societas publica sive perpetua》は、政治社会 societas politicaの概念で捉えられている。」と考察している(四八)

 また、近世自然法論に関連して、市民社会のスコラ学派的概念は、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスによって再構成された形で、一八世紀に至るまで通用し続けたとされている(四九)。このスコラ学派的概念が長期的に通用したことに関して、リーデルは「アリストテレス=スコラ哲学の用法は、歴史哲学ないし社会理論によってその術語を相対化することをしないのである。この点で、政治哲学はアリストテレスにおいて基礎づけられた形で、なお数百年にわたって、自然と人間の歴史が原理的に不変と考えられる市民社会の地平において統一をなす社会的=歴史的世界の理論であり続ける」として当時の状況を再認識しているのであった(五〇)

宗教改革

 歴史的経過を踏まえる上で、リーデルは続いて宗教改革に着目する。その前提として、「宗教改革者たちはスコラ的アリストテレス主義に対する批判を行なっているにもかかわらず、社会構造とその術語の不変性という特質は、彼らによっても問われていない。むしろその特質はアリストテレス主義と容易に一致される若干の基本的観念によっていっそう助長された。このことはとくにルターとメランヒトンの三身分に関する教説と、社会、法、支配との関連におけるその規準化的機能にあてはまる」(五一)と述べ、「〈法〉は、ルターの場合、極めて一般的に《世俗的統治》、〈政府〉、ラントと都市における支配を意味し、《官憲》という政治的身分 status politicusにある人間の、臣民に対する統治として理解される。一般に人間の起源は、《家》、家政、つまり《家〔支配〕権》によって整序された親、子、使用人間の支配関係にある。そしてこのふたつの《世俗的》統治に対して、《精神的》統治、つまり教会ないしエクレシアが上位を占める」というように、ルターの政治に関しての解釈をそこに提示している(五二)。続いて、キリスト教において重要視される教会についてのルターの解釈を取り上げ、ルターの捉える教会とは、家から〈人々〉を、都市すなわち〈政府〉から庇護を得るものであると示している。そして、リーデルは、「したがって詩篇一二七で地上のただふたつの肉体的〔=世俗的〕統治は町と家であるとして次のように言われている。《主が家を建てられるのでなければ》ないし《主が町を守られるのでなければ》。第一は世帯であり、そこから人々がやって来る。第二は町の統治であり、これはラントであり、民衆、諸侯、主人である。それは一切のもの、子供、財産、貨幣、動物などを与えてくれる。次いで、第三のものは神ご自身の家と町である。それは教会であり、家からは人々を得、町からは庇護を得なければならない。」という詩篇に含まれる寓意性の提示を行っている(五三)。これは史的な資料を見通す上で、極めて有用であるように思われる。

 併せて、ルターが、全ての世俗的秩序、つまり、家的秩序、政治的秩序、教会的秩序の《初め》を創世記の記事から捉え、それらは神によって直接に定められたと定義したことに言及している。すなわち、ルターの三身分論には、「アリストテレス的なコイノーニア〔共同体〕論のみならずスコラ的な人間完成perfectio思想も欠如しており、その結果、ルターによってこの講義で使われている市民社会概念は、たしかに市民としての人間のありかたを意図しているが、人間存在の《自然的な》完全性に属するものとしてではなく、神の意志によって定められ造られたものである」(五四)というような特質を見出すことができるのである。加えて、ルターが行った「全ての支配において神の秩序と意志とが配慮されるべきことは先に述べた。我々はこの同じ教説によって、単一の理由から神がこの世にそうした仮面や役割すなわち市民社会の地位や秩序のあることを欲せられたということをふさわしいところで説明され、勧められる。」との言及を用い、この神の秩序の問題を我々に提起させているともいえる(五五)

 なお、リーデルは、これらのルターの解釈に関して「初期の著作において最も明確に定式化された、霊の国と世俗の国という宗教改革的な二王国論がその背景にある。それゆえ学問的用語法から受容された市民社会の概念には、政治的な隠喩という性格があり、この隠喩によって、ルターは、道徳哲学的ないしは自然法的にではなく、肉体的=身体的すなわち歴史神学的に把握された人間の《世俗的》存在を書き直す」と指摘している(五六)

 メランヒトンの市民社会概念は、道徳哲学的基礎と伝統的=政治学的な価値を回復することを基礎にしているとされており、メランヒトンのアリストテレス『政治学』註解において行った政治学と倫理学との伝統的な峻別からも窺うことができる。すなわち、それは「倫理学が《私的な》慣習を論じているのに対して(sicut Ethica de natura ducit)、政治学の対象は、市民社会、社会成員の諸義務、この社会の自然的な発生原因である( ita politica disputant de societate civili, et officiis ad societatem pertinentibus, et causas societatis ex natura ducit)。」という区別として見出せるものである(五七)。加えて、メランヒトンは『ニコマコス倫理学』註解において、独自の《道徳哲学》Philosophia moralisについて論じている。

 これへの着目と解釈として、リーデルは「アリストテレスやキケロへの様々な回帰が組み込まれ、社会概念の自然法的な基礎づけへの着手が認められる「有力な原因〔作動因〕は社会を営もうとする人間本性(自然)の傾向ないしは判断であるが、こうした傾向は神学的な傾向(「神は社会があることを欲したまう」 vult Deus esse consociationem)とは真っ向から対立する」ものであると指摘する(五八)。つまり、「自然法(lex naturae)と人間理性(ratio)にもとづく、アリストテレス=スコラ哲学的な論証に対して、メランヒトンは『神学上の立場 Locis theologicis』において神が市民社会の真の原因者であることを説明する」という傾向を捉えたのである(五九)、それは、メランヒトンが「たとえこの見解が真実であるとしても、市民社会 societas civilisないし帝国imperium〔すなわち国家〕の原因について未だ十分に説明していない。というのは、たんに人間の熟慮や実行力だけではけっしてすぐれた法律や市民社会が維持されえないからである。それゆえ我々は、神の命令によってこの秩序が設立され認可されたものであり、また実際神によって支えられているのを知るのである。」との指摘が、まさに典型的な言及として示されているということである(六〇)

 リーデルは加えて、次のメランヒトンの解釈を提示している。「モーゼの律法の全てがこの〔神の〕命令についての明確な証しであり、たとえそれがひとつの民族に提示されたものであるとしても、この政治的生活についての神の意志の証しである。他方道徳律 Lex moralisは、適切に理解されると、それ自体まさしく市民社会 societas civilisの秩序ordoである。」(六一)すなわちここで捉えるべきは、メランヒトンや古いプロテスタント的倫理学においては、モーゼの十戒の第二表が政治的生活内部での掟や生活形式と関係づけられるのに対し、第一表は教会という精神的領域に関連するという点である。リーデルは続いて、宗教改革の流れを参照した上で、次のように述べている。「カルヴァン、ツヴィングリ、ブツェルにも同様に、霊的《秩序》と世俗的《秩序》(教会的秩序 ordo ecclesiasticus ―市民的すなわち政治的秩序 ordo civilis sive politicus)という峻別が認められるが、メランヒトンは一六世紀の人文主義的教養をそなえていたので、他の宗教改革者に比して古代の哲学的道徳理論つまり倫理学と政治学により大きな比重を置こうとするかぎりにおいて、彼らの峻別を越えている。」(六二)。 

そして、神学的基礎はメランヒトンにおいては政治的秩序の道徳哲学的正当化を含むものであり、この正当化は倫理的な政治的序列と世俗的地位を基礎づけるものとして捉えられたということである。これによって、市民社会概念は初めてこの地位を獲得したということが明確になるのである(六三)

近世の哲学と政治学

 市民社会という術語におけるアリストテレス的な概念の特質は、近世の政治学や哲学の諸傾向においても識別することができる。フランシス・ベーコンは「新オルガノン」を示し、アリストテレスの論理学と政治学の再構築を試みた上で、それらを未知の取引(de conversatione)と業務(de negotis)の教説に基づいた補足を行っている。しかしながら、その主題は「市民社会」であり、人々はこれらの教説において扱われている《善》を市民社会に負うのであると理解できよう(六四)。リーデルはベーコンの「善とは人々が市民社会 societas civilisから自らのために獲得しようとするものである」といった市民社会概念の前提要件に含まれる政治学についての理解を次のように示している。

  狭義の政治学を補足しうるであろうとされる諸学問のなかに、ベーコンはこれらの教説のほかに更に「国境拡張論(de proferendis finibus imperii)」と一般的正義論すなわち法の源泉論(de iustitia universali sive de fontibus iuris」を挙げる。前者の学科の導入は、マキアヴェッリと彼の一派以来《国家理性》(ragione di stato)という題目と結びついた特殊近代的な政治学概念―政治的権力獲得の技術、絶対主義的国家の《力》の保持、上昇、拡張―と関係している。この政治学概念に、ベーコンは《力》ではなく《法〔律〕》を規準とする正義諭を対置する。(六五)

ベーコンにあっては「市民社会societas civilisでは法律 lexか力visかいずれかが有効である」、といわれる。力と法律との支配ということによって市民社会を定義しようとする古典的な概念の理論とこの命題は真っ向から対立する。法律が市民社会の理論と統一をなすのは、市民社会自体が《自然的(スコラ的な見解では、神的)》な掟ないし法によって正当化され、この掟ないし法を維持するために支配者と民衆は彼らの行動において責任を負うとされるかぎりにおいてである。(六六)

 これらに見るベーコンの解釈から見えるのは、市民社会を定義付けるものとしての法と力を重視しているものであり、旧来の考えから脱却させるという意識が含まれているということであった。ただし、市民社会の法学的解釈にあたり、法哲学の実質的な探究が繰り広げられていなかったこともあり、法学と市民社会に関しての議論が不明確であったということは一つの難点であるといえる。

 ベーコンに含まれる政治学領域から視線という意味で、同様の立場であるのがマキアヴェッリ、ボダン、ホッブスであった。リーデルは、マキアヴェッリ、ボダンの政治学を通した市民社会への関心を次のように捉えている。すなわち、それは、「マキアヴェッリが〈市民社会〉という術語にかえて、あまり明確に定義されているといえない〈市民的生活〉(vivere civile, politico)という表現を用いたのに対して、ボダンは先の術語に固執する。ボダンは、市民社会(civitas, societas civilis)が最高権力(至上権 summa potestas、大権 maiestasあるいは主権 puissance souveraine)という徴標によって初めて政治的組織形式(res publica, république)を維持するという前提から出発する」(六七)としている。

そして、「このカテゴリーが近世政治哲学へ導入されることによって、市民社会と政治的支配権力の関係が根本的に変更される。支配する者と支配される者の《市民》としての同等性の理念に依拠するあの市民社会に代わって、《主権》から生じる《統治》の有効性がその概念理解の中心を占めるようになる。《統治》はいまやしだいに《国家》の領域に独立し始める。《主権》という術語によって、職業身分団体、法人、自治体が法学的にも政治学的にも排除され、《国家》はもはや市民社会ではなく、《統治》社会を形成し、この社会は先の狭義における《市民》社会から術語的に区別される」というようにリーデルは概説し、更に、家族は自然共同体であり、職業身分組合は市民共同体であり、《国家》は、主権によって統治された共同体であるという利点を含むということを加えている(六八)

 ボダンにとっては、《市民》社会と《統治》社会の区別が《国家》と《社会》の区別において維持されていない。この点について、ボダンは伝統的政治哲学の用語を重視しているのである。リーデルは、「ボダンはその後も彼の政治学上の代表著作のラテン語版において相変わらず《共同組織》として理解される《国家》について、国家 res publicaは職業身分組合や団体がなくても自立しうるが、家族なしには自立できない市民社会 societas civilisである」と引用を用いながらの分析を行っている(六九)

 対して、リーデルはホッブスの行った「市民共同体」についての解釈について論じている。つまり、「ホッブスは、《国家》に集中される《主権的》支配権力がなお、市民社会の領域において、直接的に政治的関係に立つという多かれ少なかれ伝統的な前提と挟を分かった。そのさいホッブスもまた、初めは新しい主権理論の射程について未だより正確な観念を持ち合わせていなかった。それゆえに、ホッブスが彼の政治学に関する最初の著作『法の原理 Elements of Law』(一六四〇年)において、国家〔=市民共同体〕すなわち市民社会〔=政治的共同体〕societas civilisとする伝統的な解釈を、彼の先駆者から受け継いでいる。そこでは〈市民社会〉は、その当時の日常語と教養語に周知の術語として使われている。その古典的政治哲学からの出自は、なおいかなる問題をも形成することなく、ホッブスによって愛好された契約的構成と難なく同定されうる」と示している(七〇)

そして、「このように形成されたこの結合体 unionは、我々が今日政治体 Body Politicあるいは市民社会 civil societyと呼ぶものである。そしてギリシア人たちはこれをポリスすなわち都市国家と呼ぶが、ポリスとは共通の権力によって、彼らの共通の平和、防衛および利益のためにひとつの人格として統合された多数の人々であると定義されてよい」(七一)という指摘のように、ホッブスは国家共同体の主体としての《人間の集団》という点に着目しているのである。加えて、リーデルは次のような考察を続ける。

契約的構成のモデルは『市民論 De cive』(一六四二年)では、ホッブスが合意の理念自体を擬制的に把握することによって徹底的に覆される。国家 civitasはひとつの共通の強制権力によって、ひとつの人格へと統合される《人間の集団》ではなく、その人格が最高権力(summum imperium, summa potestas)の保持者としてその統合そのものを代表する。「ところで、かく形成された統合体 unioは、国家 civitasすなわち市民社会〔=政治的共同体〕 societas civilisとも、市民的〔=政治的〕人格 persona civilisとさえも呼ばれる。」(七二)

市民社会 societas civilisは、それがそれ自身において何らの統一性をもたないがゆえに、市民的〔政治的〕persona civilisなのである。個別意志に関する自然法自体のために、契約的構成という前提によれば、全員の意思は、市民社会によって体現された意思の統一性から区別される。それゆえ、ここでこの統一性を強制する最高の権力が必要とならざるをえない。この権力は国家 civitasの統一性を表わす擬制的な人格に現実性を付与するが、この現実性はそれまでは、ボダンによってやはり前提されている、自由な家長たちによる支配的=コーポラティヴな統合という意味での市民社会 societas civilisを保証していたものである。ホッブスが『リヴァイアサン』において、結局のところ市民社会 societas civilisの概念を国家 civitasの定義からのみ導いているのは、こうした出発点の帰結でしかない。(七三)

 他方、ボダンによってはなお本質的に支配者主権として捉えられた主権は、いまや《国家》主権へ、また《市民的〔=政治的〕人格》は《国家的人格》へと展開しているということである。すなわち、「国家〔=市民共同体〕 civitasとは何らかの市民でもなければ、全市民の集まりでもない」というホッブスの言説がそこに含まれるのである。リーデルによると、最高権力なくして国家は空虚な言葉にすぎないのは勿論であるが、最高権力の保持者に対して、市民は原理的に臣民として、これに対立するという構図がそこに見られるのである(七四)。つまり、「ホッブスにとって、市民とか自分自身の主人である人(自権者 sui iuris)とかの観念は、《市民》社会においてひとつの頂点に達する諸《社会》の自然的発展段階と同様に、もはや何らの意味をも持ち合わせない」(七五)ということである。

更にリーデルの説明を加えると、ホッブスによれば、名誉 honorと功用 utilitasを得るために、人間は集まり互恵的な社会を享受する(societate mutuagaudent)のであり、人間はまず功用を求め、第二にその結果としての名誉を求めるということである。なお、この箇所に引用される商事会社の例は全ての団体に妥当するとされ、各人が尊重するものは仲間ではなく、自己の業務に力点が置かれるということである。換言するならば、それは「自然によって自己保存のための本源的加第一次的な権利が与えられる個人は、もはや個人を意のままにし、個人の行為の手段や行為そのものを、所定の目的に従って処理した全体の一部分ではなく、全体から解放されている。そのかぎりで、ホッブスの自然法は市民的解放の原理、個人の優越性を定式化している。個人は自身の自然的な目的を追求することを通じて初めて《社会》を形成するものとされる」(七六)ということであり、社会の形成過程についての思考の余地を広げていることが分かる。

自然法論からの提起

 自然法論の中心には、国家〔=市民共同体〕 civitasと市民社会〔=政治的共同体〕societas civilisとの伝統的=政治学的な同一性の定式がある中で、主権論が解体する構図が見られる。この解体過程における限界は、ホッブスによって示されたのである。ホッブスは一七世紀における学派哲学の伝統に対する批判家であるが、すなわち国家 civitasを、何らかの社会や共同関係という観点を越え、大きく継続的な諸社会から、また自然的状態 status naturalisにおいても可能な一切の社会的状態から完全に区別することが、ホッブスの場合も欠如していることは注目に値するのであろう(七七)

 リーデルはこれらの基礎的な状況を踏まえて、「古典的政治学とは対照的に個々人という存在から出発する自然法論は、アリストテレスの伝統をひく市民社会 societas civilisを、固有の問題にする。一七世紀の自然法論の諸体系では個別者、個人が社会的全体に先立つ。ここでは市民社会は本源的な(《自然的》な)存在ではなく、派生的存在である。先なるものではなく、後のものであり、個々の個人において始まる過程の結果である。近世自然法論の核心である、人間の自然状態の教説は、古典的概念理論の自然的地平との断絶を示す」(七八)としている。

加えて、リーデルはホッブスが、「市民社会 societas civilis 外部での人間の身分について」という題目を使用したことに関連し、「古典的政治学上の類概念を、それに固有の無歴史性から引き出す決定的な基本命題、つまり事物と人間の自然は市民社会 societas civilisへの統合を可能にする原理ではないという基本命題を定式化している」と指摘し、「古典的な政治学の伝統のもとでは統一をなしている人間の自然と歴史とは、いまや相互に分解する。市民的〔=政治的〕 status civilisは、本能か理性的衡量(正しき理性 recta ratio)かのいずれによってもたらされるにせよ、自然の《状態》がこれを放棄することを必要とする条件を生じさせるかぎりにおいて、自然の諸条件のもとにあるにすぎない」(七九)というホッブス解釈を提示している。続いてロックに関してリーデルは「ロックにおいては、―自然の規定は人間によって我が物とされることにあるのだから、市民社会 civil societyの根拠は、労働に侵されない事物の自然ではなく、所有権である」と分析し(八〇)、ホッブスを土台とした「自然法」についての議論の経緯を示した後、自然法論が提示する市民社会概念の多様な類型について次のように紹介している。

正統哲学の自然法論においては、個人の自然的目的(衝動、欲求など)を全体の人倫的目的と一致させる自然法(lex naturalis)の目的論によって、国家〔=市民共同体〕 civitasと市民社会 societas civilisとの同一性が正当化されているが、個人の存在から始めることはこの同一性を解体させることになる、しかしながら伝統とのこの断絶は必ずしも市民社会 societas civilis概念の枠組みからの離反を意味しない。自然法的諸原理において自然法論を差異化することは、市民社会と政治的体制との関係を規定する結論部においては維持されていない。というのも、自然法論は一七世紀の正統哲学とともに古典的政治学の〔国家と市民社会の〕同一性の定式に固執しているからである。〈市民社会〉の意味は伝統政治学上のものであり〈国家〉との同一性にあるとされる。〈キウィタス〉 civitas、〈ソキエタス〉 societasないし〈ソキエタス・キウィリス〉societas civilis、〈ポプルス〉populus、〈レス・プブリカ〉 res pubulicaといった言葉は、その表現上相互に言い換えが可能である。(八一)

後期スコラ哲学者フランシスコ・スアレスにあっては次のようにいわれる。「人間の共同体 communitasすなわち社会 societasはふたつに区別されるべきである。ひとつは家内的すなわち家族共同体と呼ばれるものであり、もう一つは市民的 civilisすなわち市民 populusの共同体もしくは国家 civitasの連合体と呼ばれるものである。」このような表現は一六世紀から一七世紀にかけて繰り返し見られ、しかも正統哲学の内においても外においても見られる。このような例として、メランヒトン(「市民社会すなわち帝国 societascivilis seu imperium)、コウァルウィアス(「国家すなわち市民社会 civitas id est civilis societas」)、H・コーンリング(「国家すなわち市民社会 civitas sive civilis societas」)、フランシス・ベーコン(「国家すなわち社会 civitas sive societas」)、フーゴー・グロティウス(「国家または市民すなわち連合 civitas ac populus sive coetus」)、スピノザ(「国家すなわち社会 civitas sive societas」)を挙げることができる。(八二)

メランヒトンはそのアリストテレス『政治学』の註釈において次のようにいう。「国家 civitasとは法によって組織された市民社会 societas civilisであり、相互の利益とりわけその保全を目的とする。市民とはその社会にあって統治権あるいは裁判権に服しうる者のことである。」スピノザも同様に次のように定義する。「ところで社会 societasは法律と自己保存の能力とによって確保されたとき、国家 civitasと呼ばれ、そしてその法によって保護される者は市民と呼ばれる。」最後にこのような関連で、更にロックの『市民政府論 Second Treatise of Civil Government』(一六八九年)とカントの『法論の形而上学的基礎づけ Metaphysische Anfangsgründe der Rechtslehre』(一七九七年)が挙げられよう。ロックはその著の第七章を《政治社会すなわち市民社会について》 Of Political or Civil Societyと題しており、カントはその法論の第四五節において《国家》と《市民社会》との関係を《国家すなわち市民社会》civitas sive societas civilisという同一性の定式によって説明している。(八三)

 すなわちリーデルは、カントまでの市民社会の概念形式において、個別意思と一般意思の間の差異化が十分には具体化しなかったことによって、自然法論はこの定式の前提と根拠との説明が不明確であるとしており、(八四)他方、「自然法的契約説が差異の表現であるというのは、契約がばらばらの個人に適合した組織形式であるからであり、差異の克服への手段であるというのは、契約によって社会が再び政治的にすなわち《市民社会》として構成されるからである」という説明を加えるが(八五)、自然法と契約の問題に関しても、市民社会への確固とした概念を提起することはできなかったことを示している。

 しかしながら、自然法論的な《市民社会 societas civilis》の概念は、一七世紀末から一八世紀にかけて、ドイツ語圏において〈市民共同体〉または〈市民社会〉という語で翻訳されるようになり、このうち〈市民社会〉という語が一般的に支配的となったとされている。すなわち、リーデルによると、「一八世紀における〔市民社会概念の〕流布は、ラテン語からの逐語訳に由来するのであって、イギリス(シヴィル・ソサイエティ civil society)やフランス(ソシエテ・シヴィル société civile)という啓蒙主義の影響のもとに、ドイツ語圏に浸透したわけではない。一七世紀では、これに先立つラテン語的な表現形式は、〈ツィヴィル・ソツィエテート Civil societät〉や〈ツィヴィル・ゲマインデ Civil Gemeinde〉であり、これらのほかには、〈ビュルガーリヒェ・ソツィエテート Bürgerliche Societät〉が見られるが、そこにはドイツ語翻訳におけるある不確定性が認められる。そのことは〈市民社会〉という語の導入にもあてはまる。この語は正統哲学派の概念の翻訳語として、当時の語法には親しまれていなかったように思われる。いずれにせよプーフェンドルフの『自然法および万民法について De iure naturae et gentium』のドイツ語訳者の註記はこのことを示唆している」(八六)という影響関係を捉えることができるのである。更に、この内容を更に明確にすると次のように示される。これは政治的な意義について論考する際に多くの示唆に富むものである。

  プーフェンドルフの訳者の註記は、〔市民社会〕概念の古い意味になおかなり正確に対応している。市民社会は、古典的政治学においても近世自然法論においても、人的団体、すなわちラントないしある都市の自由で責任ある人士(家長すなわち市民)の政治共同体である。ここではなお組織(合理的な支配=行政機構とこれに付随する官僚制をともなう)としての《国家》と臣民団体としての《社会》との区別は行なわれていない。その区別が前掲の箇所において現われているかぎりにおいては、その区別は〔市民社会〕概念によっていわば受け入れられている。すなわち官憲(人的に把握された支配組織)と臣民とは、その概念において《一緒に結合されている》。市民社会と政治的機構形式とは、なお相互に同化されている。すなわちそれらの《結合された》成員が《一緒になって》王国あるいは共和国を形成する。その際、ここで〈市民社会〉と訳される〈キウィタス civitas〉は、《国家》を、たんに《都市》すらをも意味せず、全ての《政治的》団体、すなわちラントの様々な支配組織―あるいは王国、あるいは男爵領、あるいは伯爵領、あるいは諸侯領( sive sit dynastica, sive baronia, sive comitatus, sive principatus)―に適用されうるものである(八七)

 

プーフェンドルフの自然法論から導かれる一つの水脈は、ライプニッツへと繋がり、彼による市民社会の規範化は「自然的共同体」naturerliche gemeinschaftであるという見解を導かせる。リーデルに指摘によると、「自然的共同体の成員は時にはひとつの都市で共同生活を営んでいることもあり、時にはラントに拡散していることもある。市民社会概念の理解は、都市とラントとの区別によるのでもなく、その支配領域の広狭によるのでもない。ライプニッツは市民社会に関連し、ラントは様々な都市の共同体であり、王国ないしは巨大な支配領域は様々なラントの共同体であるとしている。そして、「一九世紀の法哲学や国家哲学が《封建社会》の典型的な現象形式として強調することになる、貴族によって統治されるラントの支配層とそれを支える人的な従属者の層は、この市民社会概念のなかに含まれている。すなわち、市民社会 societas civilisが、一七世紀から一八世紀にかけての政治理論において繰り返し好意的に受け入れられている封建的身分社会の本来的呼称であること」(八八)が説明され、都市共同体は支配的に把握されるこうした社会の一構成部分を構成するに過ぎないというものである。

 加えて、リーデルは一七世紀から一八世紀にかけての政治理論において市民社会と政治社会(societas civilis sive politica)が長らく区別されなかった理由について次のように説明している。それは、〈政治社会 politische Societät〉の概念が、市民社会 Bürgerliche SocietätないしGesellschaftを指示することによって説明されるという傾向があったということである。つまり、この問題に関して、〈市民的 Bürgerlich〉という形容詞は、社会の政治的分肢、市民的に特権的な、支配に関与する人(格)と身分だけに関連するものであり、〈市民的 civilis〉と〈政治的 politicus〉の同義性は、たんに言語的に根拠づけられるだけでなく、そこには古い市民社会の同質的な支配層が表現されているということが示されるのである。この支配層は、直接的な従属関係(隷従制、隷農制、農奴制)あるいは間接的な従属関係(雇傭、賃金制)に依拠し、これらと明らかに対照するという構図が見出されるのであった。

そして、その結節点は《国家》でも《社会》でもなく、両者から区別される自律的な法則に従う経済領域(《利益社会》)でもなく、一方で市民と《市民的》身分(「市民身分すなわち政治身分」 status civilis sive politicus)であり、他方家への支配とそれに由来する人的自立性ないし独立性への請求権であるといえ、また、この社会の言語的連関系に関しては、古い《共同組織 res publica》が本来的に適切な表現であるとした上で、市民社会はこの表現によって常に包括されているという点が、リーデルの解釈としてそこに見受けられるのである。すなわちリーデルは、「国家はこの点において最も広く受け取られると政治社会すなわち市民社会である( Res publica latissime sumitur hoc in loco politica sive societate civili.)」というように述べ(八九)、国家への関心において市民的という観点と政治的という観点が同一の思考として存在していたことを我々に教示するのであった。

イギリス・フランス経済理論

 リーデルは、前項に続く時代的な潮流としてのイギリス・フランス経済理論という主題に取り掛かる序論として興味深い指摘を行っている。「西ヨーロッパ思想では、ここで原則的に不変な行動原理と捉えられ、また市民社会と同列に置かれているこのかかわり合いの領域は、商業とマニュファクチャーという物質的領域に、教養的関心ではなく、取引上の占有と所有の利害関心で結びついている市民的私人の諸関連網に繰り込まれている。このかかわり合いの領域は、いまやスコットランド道徳哲学、ファーガソン、ヒューム、スミス、およびギルバート・スチュアート、ジョン・ミラーにおいて、またフランス重農主義者(ケネー、ミラボー、テュルゴー)においても登場する市民社会の概念形式のうちに反映されている。イギリス中流階級が一七世紀の政治革命以降手に入れた経済的産業的興隆、技能としきたりの《洗練》、法律と制度の《改良》は、ここでは与えられたものとして一般に前提されている。」(九〇)更に加えて、「市民社会の静的な自然法理論は、進化的自然史的形式を獲得することになるが、スコットランド道徳哲学はこの形式において近代市民社会のもつ経済的政治的政治要素の漸次的自由化を歴史哲学的に正当化したのである。その歴史《市民社会の歴史》(ファーガソン)の対象は人間社会の文明化における自然的進歩である。この歴史は、従来の自然法カテゴリーではもはや叙述しえない構造変革、一七世紀以来古いヨーロッパ社会の(経済的、軍事的、法的、技術的)外的諸条件を捉えた構造変革を、すなわち政治的法的また経済的意味における自由主義的市民的社会へのこの社会の進化を分析している。」(九一)

ここには経済学とその周縁を含んだ諸学問の思考の前提が示されており、それぞれの視点が直接的には市民社会には向けられてはいないものの、市民社会の歴史に対してのアプローチの方法を見出すことができる。

 リーデルは、デービット・ヒュームが示した「享楽は、自然の開かれた自由な手によって我々に与えられているが、技術、労働、産業によって、我々はおびただしい量の享楽を得ることができるからである。それゆえ、全ての市民社会においては所有という観念が必要となる」(九二)と言う箇所を引用し、「社会的生活にとっての所有の必要性はまもなく論争の的になるが、市民社会の出現は所有という事実を前提とするという命題は、その後もずっと反論しえないことであった」と説明している。また、リーデルは、ルソー『人間不平等起源論』における「土地の一画を囲い込み、これは私のものだ、と告げ、それを信じるに十分なほど単純な人たちを見いだした最初の者が、市民社会の真の創設者であった。」という引用も加えている(九三)。なお、伝統的政治的哲学の基礎を覆すこれらの思想は、一八世紀の後半にドイツ通俗哲学において更に示されることになった。

 ドイツ通俗哲学は、自然と人間の歴史とは、もはや市民社会の秩序によってその間に境界線が引かれるとは考えられないという観点に立つ。つまり、「自然自らが歴史を持つことがこの間に認識されるようになったからである。重農主義理論と連携して、進化論的傾向のある道徳哲学は、〔市民社会の〕概念を、自然法的契約説の先例に構成上内在しているところの特有な非歴史的静力学から解放する。このことは、概念史的にまた語彙の歴史からすると、イギリス人の場合〈市民社会 civil society〉が〈文明化社会 civilized society〉に、フランス人の場合、〈市民社会 société civilisée〉に書き換えられたことに表われている。この書き変えは、一八世紀の道徳哲学的、経済学的諸説がもはや、市民社会の市民状態(status civilis der societas civilis)を、その核心となる部分、つまり政治体制についての教説とともに対象としているのではなく、〈社会〉の〈文明化〉された状態を対象としていることを明確にしている」というリーデルの分析を生じさせるのである(九四)

 ドイツ啓蒙主義のヴィーラントは『ドイツ・メルクール』への寄稿論文のなかで《市民社会の状態》を「ポリツィーレンされた社会の状態」と同一視する論点を提供した。自然状態から市民状態への移行は、ヴィーラントによれば飛躍ではなく、むしろ《社交性》の漸次的な展開に依拠する、「同一状態のたんなる進展」として捉えられているのである。

リーデルは、ヴィーラントの理解を次のように示す。「社交性は人間の教養にかかわる事柄である、教養はしかし欲求と資質の増大と洗練に結びついている。そしてこれらはまた、相互作用をとおして持続的につくりだされ、前進的に分化してゆくためには、高尚な、あるいは少なくとも向上せんとする社会の存在を前提とする。社会は人間の社交性の産物であり、逆に社交性は社会の産物である。この二つは万有引力の中心、すなわち人間を共有しているが、人間は社交性を、社会のなかでまた社会に触れて形成してゆくのである。」(九五)ここに見る社交性という思考法の提供は、人間による社会の構成という意味を含む、新たな試みであったといえよう。

続いてリーデルは、モーゼス・メンデルスゾーンの「教養、文化、啓蒙は―社交的生活の変様であり、また社交的生活を改善しようとする人間の勤勉と努力の結果である」という言説を用いて、「〈文化〉は市民としての人間の教養〔形成〕を、また〈啓蒙〉は人間としての人間の教養〔形成〕を意味する。市民としての人間の教養〔形成〕はしかしその市民社会への人間の形成ではなく、〈社交性〉、〈文化〉、〈洗練〉において明瞭に現われるある社会的生活形式への人間の形成である」と考察している(九六)

ドイツ観念論とフランス革命・自由主義的理性とカント

 「問題の脈絡をますます見失い空虚な区別立てに迷い込んでいる啓蒙主義哲学とは反対に、カントの市民社会理論は、その当初から従来の学派概念との対決を基礎に発展してきた」(九七)というリーデルに指摘は適切であると考えられる。そして、カントが新しい自然法理論の言語を受容することから思考を開始することについて、次のような言説によって説明を行う。

カントは、―概念の法論への導入に際して、自然状態と、《市民的》状態によるそれの克服の必然性という方法上の擬制が援用されている。市民状態は、相互に孤立し法的に保護されていない諸個人を、法秩序のもとに統一し、たんなる人間の群れにたいしある種の政治的体制を与える。国民ひとりひとりが相互関係にある状態は市民社会( status civilis といい、国民ひとりひとりの全体はその構成員に対する関係において国家(civitas)という、国家は、法的状態のうちにいる、という全ての人々の共通の利害関心によって結合されているという形態ゆえに、共同組織(ゲマインヴェーゼン、いうところのレス・プブリカ)と呼ばれている。国家がいまだに〈キウィタス〉と〈レス・プブリカ〉と特徴づけられているように、市民社会もまたソキエタス・キウィリスとして現われる(九八)

このような各論を前提にした上で、市民社会に関しての論考が行われているのである。また、先人とは異なり、カントは、スタトゥス・キウィリスの市民社会がそもそも《社会》であるのかどうか、と問うているのであった。《仲間》(ゲゼレ)の《仲間関係》や《並列関係》は、《従属関係》の政治的な理論や実践においては君主(統治者)もしくは一般意志のもとに後退せざるをえなかったからである。そして、「市民的連合( unio civilis)」を社会と認めていない。なぜなら、命令権者(imperans)と臣下(subditus)の間には仲間関係がないからである。この連合は、社会であるというよりは、社会を形成するとカントは捉えるのである(九九)。 

 このカントの意見は、支配者と家臣の関係を新たに規定し、市民社会を自然発生的な支配社会(不平等な社会)とする従来の解釈や市民社会を後期封建期の貴族世界の歴史的状態へ投影することを不可能にするものであった。すなわち、カントは「市民社会」という術語の従来の言語使用からはずれた基準化と、この術語に関連する体系とを展開したとされる(一〇〇)。この基準化は、「〔市民社会概念を〕自然状態の諸《社会》の段階的発展から導出すること、およびその概念を《支配と隷属》関係へ無批判的に適用することを排除する。というのもこの関係は、カント自身先行者と同意見で契約関係と見なしているが、契約の必然性、自由と強制の結びつき(《支配》)の理解がそこから初めて可能となるような法原理、すなわち《人間の権利〔人権〕》に基礎づけられているからである」(一〇一)とリーデルは指摘している。リーデルは更に詳察する。

カントにおいては、自由と強制は、相互に対立する(近代的自然法)のでもなく、また市民社会によってもたらされた奴隷制との区別を根拠に正当化される(古典的政治学)のでもない。自由と強制は、「アプリオリに統一された万人の意志」(ルソーの一般意志)、すなわち実践理性による規範措定そのものから生ずる正当な(ひとりひとりの自由を可能にする)強制力という概念のもとに結び合わされている。この規範は、カントによれば、全ての社会的諸関係に正当性もしくは非正当性の基準として適用されるべきなのである。市民社会について語られうるのは、歴史的に与えられたある体制がこのような普遍的人権という規範的基準に相応しているときだけである。あるいはカントの言葉でいうと、一般意志を《実現》しているときだけなのである。法の規則によれば、ひとりひとりの意志は、一般的かつ外的規則にもとづいて自己自身と一致しなければならない。それゆえ、この意志はいわば全体のひとつの意志であらねばならない、そして共同体的意志の実現は市民社会なのである。(一〇二)

  こうして《一般意志》が市民社会の規範になることによって、この概念は、体系上従来とは異なった機能を獲得する。ここに表現されているのは、もはや社会的法の実定性ではなく、北アメリカの革命とフランス革命とで始まる自然法の実定化の過程である。市民社会は、古典的市民的自由主義の理性理念であるアプリオリに統一された意志の現象として捉えられると、政治体制の「原因」というよりその結果となる。「市民的体制は、恣意的ではなく、他者の安全のための法を根拠に、必然的である。社会はまた、この状態の原因ではなく、結果である。法という実践的な至上の根拠が、社会をつくる。(一〇三)

 

 カントは、古代からの系譜を持する市民社会の伝統的政治的支配形態(君主政、貴族政、共和政、あるいは民主政)を、「動かざる彫刻」であると捉えたのである。習慣によってのみ存在し続け、社会の(市民的であれ、非市民的であれ)法的性格にとって何ら重要でないある体制の《機械組織》に数えているということであった(一〇三)。カントは、他方ではまたこの市民社会を歴史の法主体として解釈する試みを行っており、リーデルによると、カントは『世界市民的見地からの普遍的歴史へのイデー』(一七八四年)の第五命題において、「人間が自然に解決を迫られている、人類にとって最も大切な問題は、普遍的に法を司る市民社会の達成である」と記述したのであった(一〇四)

 加えて、「万民法」との関連で、カントは《国家市民社会》(国家間にわたる市民社会)について論じている。そして、《国家市民社会》は諸《民族》の確立されるべき公的権利という理念を実現するための目的であると位置付ける。すなわち、「全ての民族の可能的統一をその交通(commercium)の普遍的法則に則って、理性理念において表わしている世界市民権との関連上で、《世界市民社会》が問題とされている」(一〇五)といえよう。更に、リーデルは、「カントの法論が〔市民社会〕概念に認めている普遍的位置は、彼の法論の基礎となっている人権の普遍性に対応している。この人権によって市民社会の自由主義的構想は、伝統的な政治哲学の限界を打ち破り、自由を、全ての人間の譲渡不可能な権利として承認し採り入れた。権利主体、《人格》であるという人間の本質が、いまや市民社会を規定するのであって、その反対に市民社会の法が《人格》を規定するのではない。こうして、《封建的》特権秩序と身分秩序、およびこの内部での《不平等な社会》と《支配》構造の法的可能性が脱落する」と捉え、人権と市民社会の関係性について論じている(一〇六)

そして、カントを引用して次のように説明している「全ての社会は同質である。なぜなら、ある全体の全ての部分は相互に連関している。意志の統一には、どの意志も全体意志の一部分であり、それゆえ、各人は自らの意志を他の意志と結合しているかぎりにおいてのみ、全体意志によって統治される、ということが要求される」、そして「人間性に逆らう全ての契約は、本性からして用をなさず無効である」。このようにしてカントは、農奴制と世襲的隷従に異議を唱えたが、これらは人間の本質、人間の法能力に最もあらわに矛盾しているのである。六〇年代、七〇年代のこれに関する熟考では、(国家における)隷従とは、君主たちの契約である支配の下での支配のことであり、国家における臣下の間の相互関係ではない」(一〇七)

 これらを踏まえて、リーデルは、「カントは《市民》を《国家におけるひとりひとりの人間》へ拡大することに沿って、市民社会概念を《公民〔=国家市民〕社会》の意味で、すなわち法の前に自由で平等な人間の総体という意味で使用するのが論理的帰結であろう。」(一〇八)としている。すなわち、カントの市民社会概念において再び現われる規範は、本質的にはカントの援用した独立性(自己充足 sibisufficientia)という術語〔概念〕によって引き起こされるのであり、これによりカントは、市民社会概念を再び伝統に沿って使用せざるをえなくなるということである。

 カントの議論とその思想背景について着目した場合、そこには近代市民社会に関しての古典的自由主義的構想が含まれているということが分かる。すなわち、このカントの自由主義的構想に向き合ったリーデルは次のように説明し、カントへの評価を提示している。

古い(《封建的》な)市民社会についての伝統的政治的構想に対しては二重の関係にある。それは一方では、アリストテレスにより規準化された市民社会《法》を採り入れるさいに、自由と支配の関係について、自由そのものを普遍的人権として市民社会に導入し、したがってヨーロッパ市民層の政治的解放をヨーロッパの歴史と哲学の連続性から正当化することによって新しい言い廻しを提供し、旧来の言語使用のもつ限界を乗り越えている。他方では、まさにこの連続性のもつ遅々として進まぬ要素に圧倒されている。というのも、政治的解放は個別的には、(自由は支配に結びつけられているので)、すなわち経済的諸条件によって抑制され続けているからである。カントによっても、また彼に続く自由主義的理論によっても熟考されなかったこの矛盾において、一九世紀の「社会問題」が燃え立つのである。それは古い自由主義が市民社会の生活への参加、《市民的人格》を否定しようとした社会層と階級に発した、ヨーロッパ社会における解放の歴史の閃光である(一〇九)

ここに示されるように、カントの思考と大きな時代潮流との狭間において生じた、市民社会論の概念的に不明瞭な側面を我々に明らかにしようとする意図が窺える。

社会と国家が対立する構想の発起

 フランス革命を発端とした一七八九年の人権宣言が市民権規定に先行させている人間の権利は、旧市民社会の支配秩序を忘却させたと、リーデルは指摘する。この権利は、自然法論からの着目の少なかった特定の社会権―まさにエンチクロペディスト(百科全書派)たちが市民社会と関連づけていた普遍社会の権利―を企図しているとして、次のような解釈を述べている。

一七八九―一七九五年の革命的過程は、本質的には、この両者を一致させようとするところにみられる。とりわけ第五条一五と一六で登場する《社会》は、再び〈政治社会(société civil ou politique ではなくて、association politique)〉として構成されるが、しかしいまやそれは、平等な市民(シトワイヤン)の至上の一般意志を基礎にしている。それは、旧《市民》社会を《国家市民〔公民〕》社会に変転させるが、これは従来の概念理解の完全な否定であるのがわかる。というのも、市民権および市民概念を原則的に社会の全ての人間へと拡大することは、このような形では歴史的にいまだかつてどこにも存在しなかったし、何にもまして、このようなことは、政治的および自然法的思考法の最も根本的な前提諸条件のいくつかとまったく相容れなかったからである。この点は、近代市民社会の解放でもって古代共和制の道徳秩序を実現するのだと考えた、フランス革命の革命家たちの意識にとっても、依然として隠されたままだった。社会権(人間性の権利)として、伝統的歴史的支配秩序を克服する人間の権利は、また同時に個人権利をももくろんでいる。〈政治社会〉は人間の自然権(droits naturels de l’homme)の堅持、すなわち自由(liberté)、所有(propriété)、および安全(sûreté)の堅持をその目的とする(一一〇)

ここに示される人権に関する解釈には、革命期の終わり以後、国家市民(政治)社会と(近代的な意味での)《市民的》社会との間で噴き出してくる矛盾が示されているのである(一一一)

 旧市民社会の《国家》からの《社会》の政治的解放について着目された当時の時勢において、この秀逸なる解釈者として、リーデルはフィヒテの名を挙げる。つまり、一八世紀の政治哲学とは異なるフィヒテは、「社会と国家の間にはっきりした境界線を引いているだけではなく、通常みられる両領域の交錯の根拠をも認識している」のであった。フィヒテの『フランス革命についての公衆の判断を正すための寄与』(一七九三年)において従来の社会概念についての論述を示し、また、《社会》という概念を行使しようと試みている。この概念はカントが自由原理の内容と射程距離について不明確なまま、法論の基にしていたソキエタス・キウィリスという契約構成とも一致しないというものであった。いわゆる、「社会と国家の相違」を、フィヒテは、一七九〇年代初頭における《市民契約》を変革することについての議論と関連させるのであり、フィヒテは、市民契約を変革する権利を―例えば人間「文化」の発展を通じて現われてくる―社会と国家の差異から生ずるものとして理解したのである。この差異を、フィヒテは抽象的自然法的な自然状態と市民的状態との差異と同等な関係であると認識しているということである(一一二)。リーデルは、フィヒテが「革命への権利」を《社会と国家の相違》から導き出すことによって、伝統的歴史的な市民社会概念(ソキエタス・キウィリス)を乗り越えたと捉えている(一一三)。ただし、フィヒテは〈市民社会〉という言葉はまれにしか使用せず、登場する場合でもその言葉は、フランス革命によって解き放たれた《国家市民〔公民〕》社会の基礎を表現しているものであった。リーデルはこの国家と市民の概念について次のように説明している。

市民契約の不変性は人間性の規定に矛盾しているから、市民はその不当性を見抜くや、この市民契約を再び廃棄することができる。フィヒテは、古い市民社会の支配権に取って代わった、フランス革命の普遍的で平等な公民〔=国家市民〕権から出発する。フィヒテは、カントがフランスの公民概念(シトワイヤン)を法論に採り入れたにもかかわらず、まだ共同体の《構成員》としての市民と、共同体の「部分」としての《被保護者》との間にもうけた二義的な区別を斥けた。このことはとりわけ、フィヒテにはカントとは反対に、市民社会権への参加資格をえたひとつの自立した法領域としての《家》々という観念が知られていなかったことと関係している。「国家」と市民の間をもはや相対的に独立した支配権力が媒介するのではなく、ひとりひとりの「公民」とその「家族」が直接的に国家のもとにある。《全き家》がたんなる《身体の代償物》へ、《大きな入れ物》へと戻って形成され、このなかで、市民は、家主であれ《賃借人》であれ、自分の《所有権》を持ち、この《所有権》は他の《私的な》所有形態と原則的に区別されないのである。《家》の私化に対応しているのが国家市民概念の抽象的公的意味内容である。フィヒテは『自然法の基礎』(一七九六年)で、社会という概念を再び契約構成のなかで出現させているが、それでもなお、フランス革命を検討することで得た《国家市民〔=公民〕》社会の理念、《全て》の人間が市民として同等の権利と義務をもつという理念を、固持している。(一一四)

 

 すなわち、カントに至るまでの自然法による契約構成にとって根本的な意味をもっていた支配と《市民社会》との関連に基礎付けられた議論から、フィヒテの場合には《人格》と《所有》の関連として提示されることになったのである。リーデルはこれらの思考方法に鑑みた上で、フィヒテの問題点を指摘する。すなわち、「フィヒテは、公民契約のもとでの人格と所有に関する自由処分とともに、労働の交易、所有の交易、商品の交易という狭義の《市民的》領域が生まれ、この領域が《社会》という(《契約》だけではなく)特定の法則に従う新しい概念を形成してゆくことを見通してはいない。ここにおいてフィヒテは、社会的自発性という彼自身が初めて発見した契機を実り豊かなものにすることなく、むしろこの全領域を再び自然法的契約概念のもとに包摂してしまう」(一一五)ということである。前の引用およびこの記述に見られる権利と義務、契約に関係する視点は、政治学ならびに経済学へと大きく寄与するものに他ならないであろう。

市民社会の構造変遷・へーゲルとへーゲル学派

 へーゲルの『法哲学綱要』によって、政治概念形成の歴史的体系的な重大な転換がなされることは自明の通りである。リーデルは、「アリストテレスからカントに至る政治学の伝統の言語用法に従うと、国家は市民社会と名づけることができるが、それはこの社会がそれ自身すでに政治的に正市民(cives)の法能力および統治する支配権力へのそれの統合において構成されているからである。それに対してヘーゲルは、国家の《政治的》領域を、社会のいまや《市民的》となった領域から区別する。そのさい〈市民的〉という形容詞はその本来の意味に反して、専ら《社会的》という意味で使用され、もはや〈政治的〉と同じ意味をもつものとしては使われない」(一一六)とヘーゲルの市民社会の概念化の特徴を挙げている。

 よって、へーゲルが術語の基準化を導入するときの基本命題は、市民的自由主義的解放の原理を、細分化した個々人という事実と、政治的制度に妨げられない経済社会の私的市民という事実とに由来して定式化しており、この経済社会を《市民》社会として当て嵌めているのである(一一七)。すなわち、「特殊な人格として自らが目的である具体的人格は、欲求の総体、自然必然性と恣意の混合の総体として、市民社会のひとつの原理である。しかし、これは、本質的には、他のこのような特殊な人格との関連における特殊な人格であり、それゆえ、各々の特殊な人格は、他の特殊な人格を通じ、また同時に、一般性という形式、このもうひとつの原理を通じて媒介されることによってのみ、自らを通用させ満足を得る」ということである(一一八)。リーデルはこれらに示した状況について「経済的《欲望の体系》、私法的《司法活動》、および《ポリツァイとコーポレーション》による国家への政治的人倫的統合を基準とした内的編制を、へーゲルは、彼の時代の日常語や専門術語(国民経済学、法学、国家学)のもつ多少の差こそあれ明瞭な形をとった表象から出発して、政治革命や産業革命を経て出現したヨーロッパの社会と民族の状況を把握しようという意図のもとに展開していった」と説明している(一一九)

 ヘーゲルは、文化文明論的観点から教養社会としての市民社会の存在を正当化するが、この社会はルソーに見る盲目的な文化拒否と、アダム・スミスの近代国民経済学や産業体制の自由主義派に見る同様に盲目的な文化擁護、この両極端の中間に位置するとされ、その第三の段階では、この術語は、自然法の歴史的政治的な実在化過程、フランス革命以降のヨーロッパ諸国家の憲章における人間と市民の基本権の承認を基準化する。そして、この観点において、市民社会は法社会である。つまり歴史的に形成され、労働と教養に媒介された状態において、《人格》と《所有》の権利に定在を与え、したがって自由に普遍的承認を与えるような社会であるという思考が、そこに見出されるのであった(一二〇)。すなわち、この社会にあっては、「人間が重んじられるのはユダヤ人、カトリック、プロテスタント、ドイツ人、イタリア人等々だからではなく、人間が人間であるからである」ということであり、最後に第四の段階では、市民社会は、「富の過剰にもかかわらず―十分に豊かではなく、貧困の過剰と下層民の発生をうまく制御できるほど市民社会固有の財産が十分ではないような」社会であると、リーデルの鮮明な語句によって、説明されるのである(一二一)

 また、「へーゲル学派の影響によって、術語のこのような規準化は、一八三〇年以降、時代の言葉として採り上げられ普及する。へーゲルはこの規準化でもって、曖昧で無意味となってしまった以前の概念を明確にし、取り換えようとする要求に応じた」のであるが、この規格化も異論の含む難題であったとされている(一二二)

 へーゲル左派は、国家の組織に続いて社会におけるより良い組織を構想することを課題とした。この課題との対面が個別的また全体的にどこにあるのかについての論争が交わされたのであった(一二三)。リーデルは、アーノルド・ルーゲが、「それは、この組合において、《自由な労働者組合》へと市民社会を高めることにあり、その原理としての労働の完全な実現により、下層民の事実がおのずと消え去り、労働者が《市民》と平等で対等となるのである」という考えを唱え、加えて、「もちろん市民社会になって初めて人間的社会なのであり、構成員、つまり市民ないしは労働者を、貧困や奴隷状態にすらさらすような非人間的社会にあっては、自由はけっして導入されえない」という市民論が展開されていることを紹介している(一二四)。すなわち、へーゲル的な意味での市民社会の《政治的》国家ではなく、《社会的》国家あるいは「人間的な国家社会」として示されることが明らかにされるのである。

これらの視点に対して、リーデルは「市民社会の段階はまたすっかり抜け落ちることもありうる。アウグスト・ツィースコフスキーによると、法哲学的社会哲学的発展においては、へーゲルのいうように、家族、市民社会、国家と続くのではなく、家族、国家、人類と続くのである。へーゲル的な媒介者の位置にいまや前三月の革命的危機にあって国家と社会の二元論が出現し、この二元論は青年へーゲル派においてはモーリッツ・ファイトが最も激しく説いているように、へーゲルの市民社会論を批判的に解体する」と指摘している(一二五)。そして、リーデルは「社会は(これでもって私はヘーゲルが〈市民社会〉と呼んだものを理解しているのではない)国家をその前提とするが、社会は、国家の醗酵し、芽生え、駆り立てる内容であり、形を永遠に自ら産みだす生き生きした絵画である」(一二六)というモーリッツ・ファイトの独特で比喩に満ちた言説を引用しているのであった。

社会運動と社会主義・共産主義

 リーデルが行った市民社会概念の収集作業において、社会主義・共産主義への着目は作業の工程が終わりに近づいていることを意味している。リーデルは「へーゲルによる概念形成が青年へーゲル派によって実際に解体されることはなかったし、学問的に更に発展させられることもなかった。それは、マルクスとエンゲルスによって初めてなされたのであるが、彼らの市民社会批判はまったくへーゲルによって整えられた地盤のうえに育ったのである」(一二七)と指摘している。すなわち、マルクスの著作に「市民社会」が初めて使われるのは、一八四二年の『ライン新聞』においてであり、へーゲル学派を不安にさせた問題、下層民と貧困問題に関連した部分での使用であった。ここで、マルクスは市民社会の慣習として「貧しい階級の存在」を理解しているのみであったとされる。こうして「若きマルクスの言語使用も最初は、その概念を市民階層もしくはブルジョワジーへ論争的に転用するという、初期社会主義にしばしば見受けられるやり方から遠くかけ離れている」という状況が見られるのであった(一二八)

リーデルは、このマルクスの思考について「『聖家族』(一八四四年)に至るまで、彼には市民社会の本来の政治的意義が、例えばヘーゲルに比べていっそう明確に意識されていたと言える。『ヘーゲル国法論批判』(一八四三年)ではマルクスは、社会と国家の近代的分離の対抗像として考えられ、〈市民〉社会と〈政治〉社会の失われた同一性を再構成するものとしての、中世「封建社会」の概念を展開している」(一二九)と分析し、一定の評価を与えている。すなわち、ここに見る中世の状況では、「市民社会の諸身分と政治的意義における諸身分は同一であった。なぜなら市民社会は政治社会だったからであ.る。というのも市民社会の組織原理は国家の原理だったからである。―市民社会の全存在は政治的であった。その存在は国家の存在であった。その立法活動、帝国に対する税承認は、それのもつ一般的政治的意義と効能のただ特殊的な発露にすぎなかった。その地位はその国家であった」ということである(一三〇)。リーデルは、「へーゲルにあっては市民社会の《唯物論》(=エゴイスムス)の裏面であるもの、に対するマルクスの批判の鋭さが説明される。へーゲルは市民社会と国家の同一化に失敗して《必要国家、悟性国家》の自由国家への止揚、《私的地位》としての市民社会の国家の政治的地位への止揚は実現していない。」(一三一)と捉える。そして、マルクスの認識する近代市民社会は《階級社会》であり、または―『ドイツ・イデオロギー』における、初期社会主義の日刊紙から借用した表現―《ブルジョワ社会》として示されるのであった。これらの理解に基づいたマルクスらの社会主義による市民社会概念について、リーデルは次のように説明する。

市民社会はもはやただ国家に対しているだけではなく、労働者階級の解放で始まろうとする国家のない、未来の《社会主義的》社会や《共産主義的》社会に対立している。ここではある意味で、《人間的》社会に賛成し、へーゲル的な《市民》社会に反対する青年へーゲル派的意志表示が繰り返されているが、もちろん、マルクスは《実践的》(後には《史的》)唯物論へ移行することによって、彼自身の未来主義を政治経済学批判という方法論的補助手段を用いて歴史的に具体化することができたという違いはある。「古い唯物論の立場は〈市民的〉社会であり、新しい唯物論の立場は人間的社会あるいは社会化された人間性である。」《市民》社会を克服し、これを人類の前史へ追いやるべき《社会主義的》社会あるいは《共産主義的》社会のモデルとして用いられているのは、ひとりひとりの自由な発展が全てのひとの自由な発展の条件である協同のモデルである。これは市民的自由主義的な、契約の並列関係モデルとは正反対の着想である。(一三二)

このようなイデオロギー的政治的かつ歴史哲学的に規定された概念使用から、マルクスによるその概念の批判的学問的使い方は区別される。この使い方に従うと、問題となるのは、一七・一八世紀における中世の政治的精神的支配権力からヨーロッパ都市市民層を解放することによって形成され、いまや統一的国家市民層が様々な階級へ解体した後では、生産手段の私的所有に依拠する社会的組織形態・交易形態を意味している、時代を画する概念なのである。(一三三)

 

 これらの説明は、マルクス前後の時代性と哲学的問題を捉える上で、計り知れない魅力と示唆を孕んでいるといえよう。更に、リーデルは、「これまでの全ての歴史的段階に存在した生産諸力によって条件づけられ、またこれらを条件づけている交易形態は市民社会である。―この社会はある段階の全商業生活と産業的生活を包括し、そのかぎりで国家と民族を越えているが、他方外に対しては再び自己を民族として妥当させ、また内に向かっては国家として編制しなければならない」(一三四)という引用によって、商業生活を基底にした市民社会の様態について論じている。

すなわち、マルクスは以後、このような概念定義を時期的に限定し、その適用を市民層に支配された一八―一九世紀の近代的な社会だけに制限する経過へと進むのであった。この概念を歴史的に位置づけるのに決定的な意味をもったのは、とりわけ、へーゲルとヘーゲル学派において強く残っていた、「富と所有一般に関する漠然とした説に取って代わって、国民経済学から得られた資本概念の把握と結びついた生産手段所有の機能を解明したことである。市民社会の問題は、国家による媒介にあるのではなく、市民社会の《解剖学》であり、マルクスの意見ではこれは政治経済学に求められる」(一三五)という見解をリーデルは提示しているのである。また、「政治を《物質的生活諸関係》へ方法的に還元することによって初めて、市民社会概念はマルクスの思考のなかで鍵となる機能を得るのであり、かくしてその概念はいまや逆に、現代社会の形態を《捨象》し、それに属する術語(生産手段、生産諸力など)も《過去の社会構成体》の開示のために利用されうるようになった」(一三六)として、生産手段や生産諸力といった労働に関する観点が市民社会の概念化に包含されたことを指摘している。

 続いて、リーデルはこれらの傾向に着目した上で、マルクスの言説として「市民社会は最も発展した、最も多様性に富んだ歴史的生産組織である。その関係を表現する範疇、その仕組みの理解は、それゆえ同時に、没落していった全ての社会諸形態の仕組みと生産諸関係の洞察を可能にする。というのも、これらの残骸と諸要素から市民社会が形成され、その部分的にいまだに克服されていない残滓が市民社会のなかに残存し続け、ただの輪郭にすぎなかったものが明確な意味内容へと発展していった等のことがあるからだ。人間の解剖学は、サルの解剖学へのひとつの鍵である」(一三七)と引用し、市民社会概念の傾向とその変化についての解釈を提示しているのである。特に、人類史の関与についての言及はまさしくマルクスの醍醐味ともいうべき特色を表すものであろう。

 リーデルはそのようなマルクスの試みを「マルクスの経済的政治的《市民社会の解剖学》」と称している。その評価と並び称されているのが、近代的《社会概念》を総論的に考察したローレンツ・フォン・シュタインの『一七八九年から今日に至る社会運動史』である。それはすなわち、「社会概念はマルクスの場合と同じく労働と資本所有の関係に基礎づけられているが、ここではヨーロッパ歴史的過去を現在化し、また現代をその社会的構造のうちに露出させる装置になっている。ヨーロッパの社会と歴史の連続性とこれに属する概念の連続性は、シュタインによって歴史的転換期として経験された近代的社会運動のうちでは、革命前ヨーロッパの《封建社会》、革命期の《公民社会》、および一八三〇年以降の《産業社会》という三組の現象に分かれる。第二と第三の社会タイプの間に《国民経済的社会》が位置するのであるが、これは、古い市民的(「封建的」)社会のもつ法的区別の止揚からでてきて発展し、法の前に自由で平等な市民の統一を、所有と非所有の区別によって再び引き裂いてしまう。この社会は、《公民》社会を、―シュタインにとって現代の決定的な社会構成体である、《産業的》社会へと変形する」という極めて修練された内容を含んでいることが垣間見られる(一三八)。つまり、シュタインは《社会概念》に含まれる〈市民社会〉という術語を重視していないことが、ここで明らかになる。いわば、ここから、「シュタインが保持しよう努めるのは、人格と所有権という〈市民社会〉の原理であり、個人の自由であって、この自由が所有者からなる支配的階級による資本所有へと変質することは国家の手によって阻止されるべきなのである」ということ示唆されるのである(一三九)

 つまり、ここに含まれる、市民社会から《政治的国家》へというヘーゲルが求め、若いマルクスが捉えなかった止揚に代わって、シュタインは、ただ国家と社会の間の均衡が必要であるとしているのであった。シュタインは、《政治的》国家ではなく、《社会的》国家、「社会的民主主義」の必要性を追求していたという点は、その後の時代背景を分析する上で必須の見解ともいえる。

 リーデルは「一九世紀後半のドイツに特徴的な、教養の伝統と古い自由主義と保守的な国家思想の絡み合いのなかで、市民社会という概念は最終的に、その価値が総括的に引き上げられ、また政治的に現実化された」と表現している(一四〇)。そして、市民社会概念の術語の利用を把握するのに最も注意を要するドイツ語の系譜ならびにドイツ近代以降の術語使用についてリーデルは次のように説明している。

ヴィルヘルム二世時代の市民社会は、社会民主主義ないしは一八五〇年以前のフランスの社会理論家の論争的イデオロギー的意味での《ブルジョワ社会》とは理解されえなかったし、またこのような理解を欲したわけでもないが、しかしこの市民社会は以前の非イデオロギー的概念に―たとえ初期自由主義の形態にすぎないにしても―立ち戻ることもまた不可能であった。このかぎりにおいて、伝統的政治学の学術用語から採られた術語を「階級秩序」へ解釈しなおすことは、一八七一年の国家の枠内でのドイツ社会の歴史的状況および言語上の関連体系の変遷を簡潔に表現している。そして、ビスマルク国家の《階級秩序》という意味で、この概念は一九一四年に至る時期において国家自由主義的ドイツ市民層の大部分によって受け入れられ、使用されたのである。(一四一)

これに対して、ドイツ社会民主主義における体系的枠組みと用語使用の概念史的パースペクティブの狭隘化が対応するのであって、この代弁者たちは、―マルクスとエンゲルスによる術語上の差異化とは異なって―市民社会を大まかに資本主義社会と同一視している。ビスマルク帝国とその階級対立の基盤上で、ラッサールのいう「労働者身分は市民社会を構成するいくつかの諸身分のひとつにすぎない」という命題はその効力を失った。(一四二)

一方では、ラッサールがフリードリッヒ・アルベルト・ランゲおよび六〇年七〇年代の《社会政策者》とともに、「国家」における市民社会の止揚、すなわち将来の《社会国家》あるいは《国民国家》における止揚を信じていたが、他方では、ルドルフ・フォン・グナイストが時代の社会危機を、二元論に代わる「国家と社会の相互関係」を内容となすべき《法治国家》を通じて克服することを望んでいた。こうした両派の言語的構想は、ヴィルヘルム二世時代にあっては、階級秩序としての市民社会の社会的現実に照応してますますあい隔たっていった。《法治国家》の構想を《社会国家》によって媒介することは六〇年代にあっては可能であるようにおもわれ、また近代的市民階級と労働者階級の歴史的解放の論理上にあったように見えたが、実現はしなかった。市民社会の国家はこの間―ドイツ社会民主主義の理論家やレーニンが正しく認識したように《市民国家》になり、この市民的国家は第一次大戦、第二次大戦の激動とこれに続く社会革命の後になって、再びヨーロッパの解放運動の形成過程に入り込むことになる。(一四三)

 

 ここに示される系譜は哲学、政治経済学を主たるテーマとした論点から素描されるものである。リーデルは一方、社会学者、マックス・ヴェーバーが、社会科学の体系的構築をするさいや社会歴史的事実を解明するに際して、〈市民社会〉という術語の使用を全面的に差し控えるという帰結を引き出したとされている点に着眼するに併せて、(一四四)「〈市民社会〉はヴェーバーによってある種の決着を見たのであり、今日現存する《市民》社会と《社会主義》社会とのその「前史」からの事実上の遮断が(とりわけファシズムとスターリニズムという)政治的難問へと行き着いたからこそ、歴史的言語的相違を考慮した概念史の回顧的論考が必要なのであり、これなくしては過去と未来の間の緊張した場である現代の社会的状況に関する診断は不完全で、多くの観点からして不十分なものにとどまらざるをえない」(一四五)と考察しているのである。

 いわば、西洋における市民社会の概念史という稜線は、マルクスとマルクス主義による市民社会批判おいて一時的な終結を見る。リーデルは、「市民社会批判は、契約の図式に従って相互に同格とされ、法秩序の主体と定義なされている自立した諸個人という、自由主義的社会構想のもつ欠陥を鋭く摘出した。しかしその批判は、欠陥とともに同時に、個人の自由権を保証し、物質的社会的生活諸関係を区別し評価するための規範体系を保持するという、市民的自由主義的構想の長所もまた、放棄してしまった」(一四六)というように、マルクス主義の市民社会に対しての立場と特徴を論じ、マルクス主義的市民社会批判の限界を指摘するのであった。

 すなわち、市民社会の概念史という試みについてリーデルは「市民社会の歴史が古代にまで及び、近代の都市市民層の解放でもって初めて開始されるのではないように、この術語は、たんに歴史的に与えられた社会状態を記述するだけの概念を表わすのではなく、そうした社会状態で実現されるべき諸規範(例えば《権利》や《自由》といった)をも規定する概念を表わす。もちろん規範的な機能は、概念史上比較的遅い時期になって(カント以降)初めて明確となったのであり、その後、基本的権利が《市民的》立憲国家において実現されるに及んで、再び近代的経済社会や産業社会の事実的行為連関の背後に消え去ってしまう」(一四七)と述べて総括する。まさしく、これは著作名と同じく、市民社会の概念史の「質性」ともいうべき内容を表現しているといえるのであろう。

第二節 二分法的解釈の意義―GemeinschaftGesellschaft

 リーデルは先ず、次のような紹介からゲマインシャフトとゲゼルシャフトに関する議論を開始する。「〈ゲゼルシャフト Gesellschaft〉および〈ゲマインシャフト Gemeinschaft〉という語は、社会学、社会哲学、歴史哲学の基本的術語であるが、それは対概念をなしており、〈国家〉―〈ゲゼルシャフト〉という対概念とともに、とりわけドイツの一九世紀および二〇世紀初頭の社会革命的な状況下において、政治的言語のうえでも政治的理念のうえでも中心的な政治的役割を果たした。〈ゲゼルシャフト〉は、語源学的には古高ドイツ語の〈sal〉(《部屋》)、〈selida〉(《住居》)、〈gisellio〉、中高ドイツ語の〈geselle〉(《部屋あるいは家を共にする仲間》)、それから派生した中高ドイツ語の〈gesellec〉(《ふさがれた、結合された》)および〈gesellen〉(《結合する、合一する》)と親縁性を有しており、一般に談話(言葉)と行為によってもたらされた人々の間の結合、すなわち話し合い共に行動する諸個人の全体を指すと同時に、その結合されている状態、すなわち欲求・労働・支配の行為連関において発生し一定の談話と行為の規範とに結びつけられている結合そのもの、つまり社会的団体を指す」(一)。加えて、〈ゲゼルシャフト〉という語には二重の意味がある。すなわち、顕現的な社会的行為総体と、諸制度・諸集団・諸団体等々において歴史的に顕現的なものとなる社会的な行為図式(例えば、家族、国家、企業、学校)を挙げている。

 対して、〈ゲマインシャフト〉という語も、それと同様に二義性を持つとして、次のように語源をめぐる詳細な系譜を説明している。

この語は、《比較的多数の(= gemeinsam)ないし全ての(= allgemein)》という言葉と基本的意味を同じくする中高ドイツ語の〈gemein〉(《共属的、共通の、一般的》)から派生した。語源学的には《義務の遂行》《職務》《(社会的団体内の)影響圏》を意味するラテン語の〈munus〉と親縁性をもつが、このことは、《共通の》《公的な》およびその派生語を意昧するラテン語の〈communis〉、《共通の》を意味するゴート語の〈gamains〉、《参与者》《団体成員》を意味するゴート語の〈gamainja〉、同じく《集合》を意味するゴート語の〈gamainths〉、《ゲマインシャフト》を意味する古高ドイツ語の〈gimeinida〉、《集められた群衆》《軍隊》《共同的占有》《関与》《参加》を意味する中高ドイツ語の〈gemeine〉、〈gemeinae〉などから理解することができる。この語は、一方では、話し合うこと(すでに古高ドイツ語では〈meinan〉という語で表現されており、《考える》《言う》《協議する―すなわち、ゲマインシャフトの《輪》のなかで拘束力を有する話し合いを行ない、助言をする―》を意味する)および共同で行為することによって生じた人々の人的結合を指す。

他方では、顕現的なものたらしめられることを要する社会的な行為図式としての結合状態(例えば、婚姻・職業・企業・宗教等々のゲマインシャフト)を指す。《ゲマインシャフト》を指す比較的古い言葉としては、〈Gemeinde〉(村、都市)と〈Gemeine〉(ルター「イスラエルの子供たちの gemeine全体」)があり、それらは第一義的に社会的な行為図式(制度としての《ゲマインシャフト》)との関連を保持している。―それらは、本来的に〈ゲマイン〉の一般的な基本的意味にかなっており、しかも第一に状態を指す言葉である。なお『悪しき共同 Gemeineのうちにいるより一人のほうが良い』という格言を参照せよ。それらの語は、このような機能を持つものとしては、〈ゲマインシャフト〉という言葉によって駆逐され、特殊に政治的な意味における集合体を指す言葉として保存されているにすぎない。

〈ゲマインシャフト〉という語は、〈Gemeinde〉(ときに〈ゲマインシャフト〉とも表わされる)という語と伝統的に結びついている場合には、物件に対する共通の関係を基礎にした諸人格の団体的関係を意味する。この関係を表わすものとして、一八世紀までは、〈Gemeinheit〉という語が〈ゲマインシャフト〉の代わりによく用いられた。この語は、ある場合には〈Gemeinde〉(シラー「Gemeinheitのこれら諸特権」)と同一なものとして、またある場合にはそれ以外の人間の目的団体を指す言葉として用いられている。この語は、法律用語から派生したものであり、ラテン語の〈universitas〉の訳語である。ローマ法においては、〔平等なものとして〕向かい合う人格間の自由な契約関係としてのソキエタスのほかに、諸人格から分離された目的財産としての universitasbonorum)も知られていたが、それと同様に古ドイツ法においては、物(《共有地》)の占有関係をとおして諸人格をとりわけ密接に結びつける分割不可能な共有財産である〈ゲマインハイト〉という概念が発展した。そのほかに、〈ゲマインシャフト〉は、一般に他の全ての、とりわけ物件にも目的にもかかわらない《共同生活の諸形式》をも意味する。(二)

 ここに見るリーデルが行ったゲマインシャフトの言語史的な系統の整理は、特に非ドイツ語使用の者にとって多くの着眼点を伴う有用性を含んでいる。ゲマインシャフトの意味を問う際、その根源にある言語の様相を問うことは、他言語への余波や系譜を見通すことより先んじて行う必要があるからである。そして、その萌芽がいかにして、展開し、学術的に使用されたのかという論点を支柱に据える本論からしても、まずドイツ中世の言語状況の把握は、次世代への影響を知り得る上での基礎資料となることは明らかである。この方法の中から、その言語変遷の一端を汲むキリスト教神学への着目に至る。

  すなわち、その後のキリスト教神学と教会とにおける宗教上の用語としては、古来《聖者のゲマインシャフト》や、語を比喩的に人類の範囲を超えでたところにまで拡大して、人間と神とのゲマインシャフトという語法を見ることができる。哲学、倫理学、社会理論における用語としても、共同生活の比較的あるいは極めて密接な集団あるいは団体へ逆に適用されることなり、〈ゲマインシャフト〉という用語法は、純粋に個人的な意味の側面が目立つことになる。例えば、恋人関係、夫婦関係、友愛関係や、教師と学生、師匠と弟子の間の関係、年齢・職業・身分上の共属性や宗教・祭式・生活上のゲマインシャフトへ適用を制限されるのであった(三)

その後、《最高の価値感情を含意する〈ゲマインシャフト〉という強い感情をこめられた語の意味》が発展したのである。この意味があるので〈ゲマインシャフト〉は、術語的には〈ゲゼルシャフト〉とは区別されるべき感覚を持することになるが、言語批判的にそして歴史的、発生的に考察すれば、このような価値意味は、〈ゲゼルシャフト〉という語にも同じ程度に含まれているといえるのであった(四)

 

これらの詳細な術語理解において、その末尾の説明にあるゲゼルシャフトの語的な位置付けは、極めて重要な点であり、まさしく、リーデルとの対話における主題の一つであるともいえよう。なお、リーデルはグリムの解釈を用いて、「グリムによれば、中世盛期から一八世紀に至るまで、〈ゲゼルシャフト〉は、《ゲゼレン》の関係を指した。つまり君主や諸侯の、家や戦争や旅の従者のことを意味し、更に仲間団体、盟約、同朋関係、職能団体、(聖俗の)オルデン、種族と一族の団体、政治的(都市の)ゲマインデと教団、友愛的な集合状態と結合状態、仲間化と社交性のことを意味した」(五)としている。すなわち、最初は身分的に閉鎖的であるが、やがて教養市民に開かれていくがいずれにしろ、《良き》ゲゼルシャフトという意味で用いられたのである。ここで重要なのはリーデルが指摘する通りに、「多様な社会的団体と結合とを指示する仕方は動揺しており、言葉のうえでは個別的に極めて分化しているが、〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉は、この時代においてはずっと同義的である。それらは、共に同一の概念を表わしており、そのさいの表示方法として、場合によっては、発音の形態がまとめられて〈Gesell-und-Gemeinschaft〉という一語に合体されて示されることがあるほどである」ということである(六)

リーデルは、伝統的なゲゼルシャフト理論を歴史的に把握する場合、その始点はアリストテレスに位置付けられるとした。つまり、〈ゲゼルシャフト〉についての旧来の全ての規定は、アリストテレスが倫理学と政治学とを包括する実践哲学の枠組みのなかで展開したコイノーニアの概念と結びついているということである(七)。また、アリストテレスは、初めからゲゼルシャフトの概念形成を問題にしているわけではなく、「友愛」の基本的在り方を問題にしているとして、後に、アリストテレスは初めて狭義の《社会的なもの Soziale》を主題として語ることになるが、友愛という主題は、放棄されていないのであり、その主題は、法と友愛の結合に顧慮を払う観点から、家や都市の諸制度と結合した様々な《ゲゼルシャフト》や《ゲマインシャフト》(コイノーニアイ)に仕向けられたものであったとの解釈が見出されるのであった(八)。リーデルはこのコイノーニアの主題について次のように解説している。

  アリストテレスにおいては、コイノーニアという表現は、全ての社会的結合と連関とに等しくかかわっているのであって、そのさい次の点は、つまり傾性や習性によって肯定される自然的―家族的連関が問題なのか、それとも選択意志にもとづく合意によって形成可能な結合、ある外的な目的のために意欲され、法的に保障される結合が問題なのか、要するに近代社会哲学(H・メイン、スペンサー、テンニース)の意味での《身分関係》ないし《契約関係》とのいずれにかかわるのかという点は、どうでもよいことなのである。アリストテレスは、法の概念が人間の織りなす《ゲゼルシャフト》ないし《ゲマインシャフト》の形成にとって基礎的なものだと見なしているが、コイノーニアは(ローマ法のソキエタス societasと比肩しうるような)法形象ではなく、〈支配〉の補完概念である。更にこのコイノーニアという語は、友愛―友愛は友愛関係という翻訳概念とその現代的(私的情緒的)理解によって示唆されるような私人の《共感》にもとづく関係だけを意味しないにしても―と同義ではない。一方では友愛とコイノーニアとの間に、他方ではコイノーニアと権利との間に、言語的に共属関係がある。アリストテレスは、コイノーニアすなわち《ゲゼルシャフト》あるいは《ゲマインシャフト》という言葉で、基礎的な意味で社会化された在り方 Vergesellschaftetseineを理解している。(九)

 つまり、このドイツ語への転用に見る用語概念は、合意、約束、契約を基底とした人間の結合の様々な形式と家団体・氏族団体などの共同生活といった《自生的な》基本形式とを、共に含んでいるのであった。なお、更に細部を見通すと、「血縁関係と同志関係にもとづく諸形式は、とくに社会的連関を指し示すものとして術語的に固有の重要性を持っているが、この諸形式のほかに、アリストテレスは、多数のコイノーニアを区別しており、これらのコイノーニアはポリス内部での市民間の交通のなかで発生し、彼らに共通の宗教的軍事的経済的な諸目的や狭義における社交的諸目的によって統括されている」、ということである(一〇)

 すなわち、これらは「軍人、海外貿易商人、種族団体としてのピューレー Phyleとデーモス Demos、奉仕団体、そして会食仲間の間での諸結合」を見出すことができたのである。アリストテレスは、それらのコイノーニアを、彼にとってポリスとその支配形式を示すコイノーニアの構成部分、《市民社会》の構成部分とした。ここにおける、コイノーニアは、市民社会の《概念的》類比物として解釈されるのであり、すなわち「種々のコイノーニアは全て国という共同体の一部分である」ということである(一一)

リーデルは、アリストテレスが概念的に見た市民社会とコイノーニアとの関連について、次のように説明している。つまり、「アリストテレスは、したがって近代的ゲゼルシャフト理論の方法的道程を歩んでいるわけではない。彼は、コイノーニアという類概念を《社会学的》述語の主語として用いているのではなく、逆にこの類に属する特殊概念―《市民社会》あるいは《政治社会》―を、彼の理論と概念形成との出発点や目標点にしているのである。〈ゲゼルシャフト〉ないし〈ゲマインシャフト〉は、常にそれの補完概念(〈法〉、〈友愛〉、〈支配〉)に結びつけられているが、それらも同様に、けっして《全体》として理解されたわけではなく、常にただ部分的なものとして、ポリスという基底的制度と関係づけて、理解されているにすぎない」(一二)として、アリストテレスによるポリスの形成に関する「政治的」な議論とコイノーニアに関する思考が密接な関係ではなかった点を指摘しているのである。

 しかしながら、アリストテレスのコイノーニア論は、西洋の社会哲学にとって、大きな意義を有し、広く影響を与えたといえる。アリストテレスのコイノーニア論における言語的概念の特徴は、まさに国家とゲゼルシャフトの区別も、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの区別を行っていないことが特筆すべき点である。

 以降の自然法によってもたらされたゲゼルシャフト理論における概念形成は、ポリスとコイノーニアとが言語的・政治的にも同一であったという状況を超越するのであった。。リーデルが示すところによると、ここにおいては、人間社会(societas humana)は類概念であり、人間そのものは、もはやアリストテレスの政治的動物ではなく、より一般化され、ゾーオン・コイノーニコン、つまり社会的動物であるという分析がもたらされる(一三)。リーデルは自然法におけるゲゼルシャフト理論の転換について、「このような変遷はすでに古典後期に起こっていたが、自然法の古典期である一七世紀に、ストア的(グロティウス)アプローチとエピキュロス的(ホッブス)アプローチとが徹底化されるなかで、継承発展されていく。しかし、ヨーロッパ社会哲学の二つの理論形式において展開されているゲゼルシャフトの概念が、構造上不変なままであったことを看過することはできない。古典的―ギリシア的思考は、ポリスの社会的連関を宇宙論的に解釈するにはいたらなかったが、古典後期の哲学では、宇宙そのものが、全ての理性的存在者を包括するポリスという一つのコイノーニアにまで高められるにいたった」と考察している(一四)。そして、古典後期における状況に関して、リーデルは次のように説明を加える。

ストアのコスモーポリスは、神々と人間とに共通の法則、ロゴスとして全自然をあまねく支配している法則によって統治されるものであった。この《自然法則》に対応するコイノーニアはもはや、限界を画された政治的ゲマインデ団体という共同性とそこに所属する市民身分とに二重にかかわらせられることによって制限されはしない。それは制度的-政治的なものとは考えられない世界市民の理念へと拡大されるのである。初期キリスト教の表現においては、コイノーニアという言葉が、信者たちと神およびキリストとのゲマインシャフトをあらわすものとして繰り返し用いられている。(一五)

新約におけるコイノーニア概念は、共通の財への関与、共通の(礼拝)行為を通じての参加、信仰において結合された人々の間での全ての良き物としての財の分かち合いを指すが、この概念は、神への参与ということを強調していくパウロ―ヨハネ的なそれを除けば、ヘレニズムの用語法に対応したものである。ヘレニズムの用語法においても、コイノーニアは、しばしば人間と神との間のゲマインシャフトの表現として用いられていた。(一六)

 上記のように新たな概念の把握や用語法がなされたように、アリストテレス的コイノーニア論は、様々な変遷を経ることになる。つまり、「人間をポリス的動物とする周知のアリストテレスの命題は、古典的―ギリシア的社会哲学によって補完される。すでにキケロにおいて(「しかし人間社会は複数の身分からなる」)、次にアウグスティヌス(「国ないし都市のあとに世界が続く。そこに人間社会の第三段階が立てられる。実際、人間社会は家族に始まって都市にいたり、更に発展して世界に至るのである」)において、人類全体へ、《人類社会 societas generis humani》あるいは簡単に《人間社会 societas humana》と表現されるものへと拡大されていく」という水脈を我々は目にするのである(一七)

 古典後期と初期キリスト教における術語的変遷は、一三世紀にスコラ哲学の翻訳と註釈活動によってなされたアリストテレスの社会哲学の受容によるものであったとされ、ギリシア語のコイノーニアのラテン語への翻訳は、すでに古典後期において、多義的で複雑な経過を辿ってきたとされる。その経過について、リーデルは次のように説明している。

キケロにあっては、〈ソキエタス societas〉は〈コムニタス communitas〉と、〈コンソキアツィオ consociatio〉は〈コニウンクツィオ coniunctio〉と、〈コムニカツィオ communicatio〉は〈コイトゥス coetus〉と並存している。アリストテレスのコイノーニア論がスコラ哲学に受容されることによって、ギリシア語に適切に対応するラテン語上の同義語を見いだすという困難な作業もまた継続されることとなる。さしあたって重要なことは、中世に初めて行なわれたアリストテレスの『倫理学』と『政治学』の翻訳では、コイノーニアという語に、〈コムーニオ communio〉〈コムニタス〉そして〈コムニカツィオ〉という言葉があてられたことである(W・ⅴ・メルベケ)。このことから、トマス・アクィナス、A・マグヌスによるアリストテレスの註釈において、後にはW・オッカムとM・ⅴ・パドゥアにおいて、これらの表現が優越的地位を占めていることが説明される。(一八)

〈ソキエタス〉という語がかなり頻繁にみられるのは、人文主義者(L・ブルニィ)によるアリストテレスの翻訳以降のことであるが、この〈ソキエタス〉という語は、初めから〈コムニタス〉〈コムニカツィオ〉等々の言葉と同義なのである。(一九)

更にリーデルは、アクィナスによるゲゼルシャフト概念の最初のスコラ定義を重視している。すなわち、リーデルは、アクィナスが『神の礼拝と修道生活を攻撃するものに対して』において、「ソキエタスとは何らかの完全性へと向かうための人々の集まりであり―、それゆえ哲学者が倫理学の第八巻で種々のコムニカツィオを区別したが、それは、種々の務めに従うある種の諸々のソキエタスにほかならず、それらのうちにおいて人々は互いに交流しあうのである。」と示した言説を引用している(二〇)

近世初期のゲゼルシャフト概念

 アリストテレスを起点とする社会哲学の概念形成においては、〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉とが交雑した術語が用いられる状況が続いていた。「一七―一八世紀に至るまでは、〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉の概念と友愛関係の概念との間に一定の関係が見られるが、そのことから知られるのは、コイノーニアとそのラテン語の等価語(〈ソキエタス〉という基本語も含めて)とは、単純に近代社会諸科学の言語理解における〈ゲゼルシャフト〉と等置することができない」(二一)との状況が見られたのである。リーデルはここに含まれる〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉の各概念の一致と差異についてより詳細に解説しており、両語の用法を解釈するための探索作業が幅広く行われた証をそこに見ることができる。これは次の通りに示される。

  〔ゲゼルシャフトとゲマインシャフトという〕これら二つの表現は、適用範囲と意味とに関して、《ゲマインシャフト》、《共同性》、《関与》(受動的)、《参加》(積極的)、《結合》、《同盟》から《仲間関係 Genossenschaft》《友愛関係》《同胞関係 Bruderschaft》《団体 Körperschaft》に及ぶ広がりを有している。セネカ以降周知の公式であるソキエタス=アミキティア amicitia(小団体のとりわけ親密な《ゲマインシャフトの形式》としての親交 familiaritasもこれに含まれる)は、ラテン的なゲゼルシャフト文化において新たに出現したものではなく、ギリシア的なコイノーニア論やフィリア論にさかのぼる、これに続いて、モンテーニュ(《友愛社会 société d’amitié》)とボダン(婚姻と人間社会の主要な基礎は、友愛の基礎のうちにある)にみられるフランス語の用法が現われる。更に一七世紀と一八世紀初頭の仏---辞書は、この連関をこう示している。「Gesellschaft Gemeinschaft société compagnie Societas Socialité Gemeinsamkeit Freundlichkeit Socialitas Société Gemeinschaft Societas(二二)

  類似の語系列は、レートラインの『ヨーロッパ語彙』のうちに見いだされる。「Société Gemeinschaft Gesellschaftまた同じく営業のために形成された Societät あるいは、 Zusammentretungまた同じく Verbindung Freundschaft Gesellschaft Gemeinschaft Compagnia consorzio commnitá societá société companie(二三)

  したがって、社会哲学の基本概念である〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉が持つ意味の広さと多義性とは、ギリシア―ラテンの言語伝統に由来する社会的連関の表示方法に特有のものなのである。そればかりか、ギリシア・ラテン的表示方法は、この点では〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉〔というドイツ語〕をしばしば凌駕している。一七世紀の初めに、J・A・ヴェルデンハーゲンは、『一般政治学』において、〈ゲゼルシャフト〉がいかなる語と同義性を有するのかという問題に対する答えとして、一連の同義的言葉を長々と列挙しているが、それは consociatio consortium frateruitas sodalitas coniunctio communio participatio communitas commercium comitatusから pactio foedas liga ordoに及んでいる。更に同時代の教会法の用語において、とりわけ教会法大全において、これと比肩しうるものが認められる。そこでは、特殊教会的なゲマインシャフト諸概念( conventus coetus concilium congregatio)が、〈ソキエタス〉(「ソキエタスということで一における多が語られる」)という言葉で定義されている。〈ゲマインシャフト〉は、厳密に対応する語を持ってはいないが、調度の成員の和と連帯ないしは、―信仰の告白者の和と連帯とをも意味しうる。(二四)

 ここに見るリーデルの発掘は、市民社会論を術語概念として捉えるアプローチの表明であることを毅然と唱えるものである。そして、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの狭間にて生じる概念の混交に一石を投じるべく、用法を吟味し、提示したものであるといえる。

加えて、リーデルはヤーコプ・トマジウスにおける〈ソキエタス〉の定義、「ソキエタスは、人々の結合ないしは秩序にもとづく人々の状態である」を紹介している(二五)。すなわち、この定義は、二つの契機を表現しているとされる。第一は、人的結合そのもの、つまりそれぞれの特定の《身分》への関連であり、第二は、身分《秩序》への関連である。ここから、概念の分節とそれの旧ヨーロッパ世界の身分的―支配的《ゲゼルシャフト》への適用可能性とが生ずる、というものである(二六)。他方、「人間が相互に社会化されている場合、人々は、中世的なあるいは宗教改革によって革新をこうむった聖職身分、世俗的―政治的身分と家政的な身分という三身分論によってそれぞれに配属することもあれば、グルントヘルシャフトの、村や都市のゲマインデの身分に置かれたりするという状況があった」としつつ、「商業と交換、労働と職業と結びついたゲゼルシャフト化 Veresellschaftungのなかでは、相互に商取引を行なう諸個人は、一つの身分を形成している」のであり、すなわちそれらには手工業者、商人、肉屋、パン屋、親方、徒弟等々が該当するというリーデルの指摘へと繋がるのであった(二七)

 〈ゲマインシャフト〉と同義であるこの旧来のゲゼルシャフト概念の内的構造についてのより正確な思考について、人間の相互間の基本的な社会的連関についてのライプニッツの分類によって与えられているとリーデルは指摘する(二八)。すなわち、ライプニッツは結合している諸個人の平等と不平等、ならびに共通の諸目的が特定されているか否かを重視しており、「全てのゲゼルシャフトは、平等か不平等かである。ある人が他の人と同等の力を持つ場合には平等であり、ある人が他の人を支配する場合には不平等である。全てのゲゼルシャフトは、〔目的において〕制限されていないか制限されているかである。制限されていないゲゼルシャフトは、全生活と共通善にかかわる。制限されているゲゼルシャフトは、ある意図、例えば商業活動、航海、軍務、旅にかかわる。」という説明を行っているのである(二九)

更に、ライプニッツは「〔目的において〕制限されていない平等なゲゼルシャフトは、真の友人間に成立する。―制限されていない不平等なゲゼルシャフトは、治者と臣下の間に成立する。―全てこれらのゲゼルシャフトは、単純か複合的かのいずれかであり、少数の人間間にも多数の人間間にも成立する。―〔目的において〕制限されていない全てのゲゼルシャフトは、なるほど福祉を目指すが、常にそれを達成しうるわけではない。それゆえ、多数の人間が集まって、より大きく力のあるゲマインシャフトを作らざるをえなかったのである。こうして、家、門閥、村、修道院、教団、都市、地方、そして最後に全人類が、神の命令のもとにいわば一つのゲマイネを作るのである」(三〇)と述べており、リーデルはこれらの引用に見る解釈に対して、「〈ゲマインシャフト〉と〈ゲゼルシャフト〉とが、目的において特定されている組織(修道院、教団、村等々)に対しても、また全人類に対しても適用されているが、この場合〈ゲマイネ〉という語に対応するのは、ラテン語の res publica(共和国)、 civitas Dei(神の国)である」(三一)と指摘し、より具体的な論点を抽出している。そして、「ライプニッツにとっても、〈ゲゼルシャフト〉は、まだ《公共的なもの das Öffentliche》(publicum)・公共的に行なわれる共同の生活・言語・行為といったことを意味している。それゆえ、《ゲゼルシャフト》に対立するものは、国家でも個々の人間でもなく、《孤独》、すなわち模範的ではあるが、しかし簡単にまねのできない仕方で、ゲゼルシャフトから身を離している《唯一者》の孤独な生活(vita solitaria)である。簡素な生活とは、しばしば文学的―修辞的に取り上げられる範例である」(三二)とライプニッツのゲゼルシャフト論の本質部について考察を加えている。

 また、古典古代の範型ともいうべき水脈と関連する、近代初頭における《ゲゼルシャフト》と《孤独》についての諸考察が、道徳哲学的起源を有し、個々人を《ゲゼルシャフト》の領域からその外へと設定し捉え得るものとして(三三)、リーデルは、これらの見解を述べる中で、「《ゲゼルシャフト生活》(vita socialis)に関する旧来の学説の論題に属するが、反対の方向に展開されているわけである。《ゲゼルシャフト》は、人間が理性(ratio)と言説(oratio)をもつことによって構成されている。更に、ゲゼルシャフトは、その維持のために支配(imperium)を必要とする」と説明し(三四)、言説の変化を指摘しているのである。すなわち、支配は労苦と負担とに結びつくが、人間は孤独よりもゲゼルシャフトのほうを選ぶということである(三五)。そしてリーデルは一七世紀にJ・H・アルステッドの説明を引用している。

それは、「社会生活について―孤立した生活のほうが社会生活より良いのだろうか。―社会的生活を選ぶべきなのである。人間は社会的動物である。人間には、ソキエタスを建てて強固なものとするべき道具が与えられている。理性と言説がそれである。厄介なことのない生活の仕方などない。全てのソキエタスには何らかの支配がある。男たちのソキエタスには女たちへの支配が、主人たちのソキエタスには奴隷への支配、父たちのソキエタスには子供たちへの支配、魂のソキエタスには身体への支配、人間のソキエタスには獣たちへの支配、(そして)人間のソキエタスの、他の人間への支配がある」というものであり、社会学の分野においても大きな意義や論点を要する「社会学的人間」の視座を提供するのであった(三六)。まさにこの説明においても、支配に関連する関心が示されているのである。総じて、ここにまとめるリーデルの見解と引用は、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトに関する旧来の認識への再検討がなされており、そこには支配への動機に関する議論ともいうべき新たな要素を含んでいる。

自然法とゲゼルシャフト

 ゲゼルシャフトの概念解釈の新展開は、ホッブスとスピノザの例が最も顕著であった。それにより、〈ゲゼルシャフト〉や〈ゲマインシャフト〉は目的概念や実体概念として解釈され得ないものとして提示されるに至ったのである。人間が集い、相互的なゲゼルシャフトを構成するにあたり、ホッブスは、その状況を自然必然的に生じることではなく、偶然にすぎないと分析したのである。ホッブスの解釈によって、《自然的な》ゲマインシャフトないしゲゼルシャフトの段階的構造も消失したのであった(三七)

リーデルは、ホッブス以降を見据えて、「支配的―家政的基盤を喪失した《家族》を例外として、他の全ての社会形式(同僚団体 Kollegium、職能団体、ツンフト、ゲマインデ、商事会社等々)は、ゲゼルシャフト契約によって構成された国家的結合(キウィタス、レース・プーブリカ)内部の第二次的形成体にすぎないとされる。それらの社会形式が、ホッブスによって、アリストテレスのコイノーニアを機能的に解釈することを可能にするシステムという新しい名称を与えられていることは、おそらく偶然ではないであろう。―政治的概念としての市民社会 bürgerliche Gesellschaftに代わって、ますます普遍的で統一的なゲゼルシャフト概念が登場してくるが、この場合この概念は他の点では、すなわち《契約》にもとづいているという点では、語の近代的意味における〈国家〉と同一である」としてゲゼルシャフト概念の変遷を問い、その帰着に国家の存在を見出している(三八)

 「伝統的―自然法的概念用語」から「近世的―理性法的概念用語」への移行は、J・ロックによってなされたとされている。ロックによる思考について、リーデルは「ロックは、一方では全てのゲゼルシャフト形成を契約に立脚させ、完全性という古典的‐アリストテレス的目的理念を(生命と所有の)安全という機能概念に置き換える。そのことによってロックはゲゼルシャフトの伝統的シェーマの大幅な解釈変えを行なっているのだが、他方では、市民社会 bürgerliche Gesellschaft political or civil society を含めて、この伝統的シェーマに固執してもいる。」(三九)と説明し、続いて、ロックが「最初の社会は、夫と妻との間に存在し、これが両親と子供たちの間の社会の端緒となり、やがてこれに、主人と召使いとの間の社会が加わるに至る。そして、それらの社会は全てが合して一つの家族を形成しえたし、通常、実際にそうなった。そこでは、家族の主人なり女主人なりが、家族に固有なある種の支配を行なったが、後に見るように、これらの社会のそれぞれの異なる目的、絆、限界を考えると、これらの社会のどれも、あるいはそれらを全て合わせても、一種の政治社会となるにはいたらない」(四〇)と述べたことを引用している。つまり、ロックはゲゼルシャフト概念の変換に併せて「伝統的シェーマ」についての検討を行っているのであった。 

また、これらの経緯を考慮すると、《ゲゼルシャフト》理論の形成は道徳哲学的考察によって行われたのであり、《純粋社会学》による営為ではないという側面に着目することができよう。自然法的ゲゼルシャフト理論に関して、リーデルは「現代的意味での《社会学》と同一ではなく、自然法的ゲゼルシャフト理論の体系的位置は、実践哲学すなわち倫理学と政治学とを包括する哲学の一部である。実践哲学がアリストテレスの影響下にあるかぎりでは、自然法はこの二つの学問と結びつけられている。自然法が実践哲学のグループから離脱を始めている段階ですら、自然法的ゲゼルシャフト概念は、倫理学的―政治学的基盤を保持し続けている。ゲゼルシャフト理論は、道徳哲学の一部門なのであり、この部門それ自体最も広い意味における政治哲学として捉えられる」(四一)と分析しており、自然法的ゲゼルシャフト理論の政治学への転用を指摘している。このことはまさにゲゼルシャフトの解釈に向けての倫理学的なアプローチの可能性を含むものである。

 リーデルは、フランスの『百科全書』おいて、《Société》という語が《道徳》の項目に含まれていることを指摘して、この概念の道徳哲学的意味のほかに、これとは相対的に独立した意味として、法律学用語としての〈ソキエタス〉という特殊に法的な意味があるとしている(四二)。そして、「〈ゲゼルシャフト〉は、この場合には通例、二人ないしはそれ以上の人々が自らの、経済的あるいはその他の、目的の相互的促進のためにする契約(consensus, pactum)によって基礎づけられる結合をいうが、この結合は、〈同僚団体〉(=ソキエタスのように、時間的に特定されたものとして構成されるのではなく、永続的なものとして構成される結合)と〈コムーニオ〉(=契約的でない物的ゲマインシャフト)から区別される」(四三)と考察しているが、その法的な意味での確固とした区分による概念化はあくまで便宜的であることが分かる。加えて、リーデルは「近代におけるゲゼルシャフト概念の発展の一定段階にとっては、さしあたり純粋に私法的債務法的なこの社会関係が、ヨーロッパの後期啓蒙主義と革命の時代の社会史的変化を記録するモデルとして役立つことが明らかとなるであろう。そのような転用可能性は、伝統的ゲゼルシャフト理論の学問分野としての政治学と家政学の解消から、とりわけ近代の国家経済学と国民経済学の誕生から生じた」(四四)ということを強調している。これは、近代における新たな展開を見た経済学諸派への関連を示唆するものである。

 つまり、政治共同体と市民社会の用語の関連について着目すると、「社会哲学が《ゲゼルシャフト》を家団体へ還元し、《政治共同体=市民社会 bürgerliche Gesellschaft》の《一部》として捉えるかぎり、固有の学科としての《ゲゼルシャフトの学》は存在しえない」(四五)ということが明白である。また、「国家(civitas)と政治共同体=市民社会 bürgerliche Gesellschaft societas civilis)という語は、《ゲゼルシャフト》あるいは《ゲマインシャフト》の全存在を代表しており、それの理論たる政治学は、それに関して可能となる《実践的》学問をすでにそれ自身のうちに含んでいる」(四六)のである。すなわち、近代初頭において議論された人類の《ゲゼルシャフト》(人類社会)は、倫理学的な意義ある内容を持ちながらも、仮説的なものとして提起される自然法の主題を継続していることに限られている様相が窺える。

古典文学に含まれる〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉

 リーデルが行った「概念」の発掘作業は一八世紀から一九世紀にかけてのドイツ文学において使用された用語にも及んでいる。ドイツ文学における傾向について、リーデルは次のように解説している。

一方では〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉という二つの言葉の間にある従来からの緊密な結合が解かれ、他方では、新たに導入された術語的区別をとおしての〈国家〉への組み入れが強調される。しかしながら、ドイツ語の用法においては、政治的深層構造が欠如している―国家は重要性をもたない極小君主国か、意味のない抽象かのいずれかである―ので、この語は時代状況にかかわる文学上の用語においては、著しく生彩を欠き、確たる輪郭を欠いている。多くの場合その語は、比較的緩やかなあるいは外面的な共通性を指している。つまりある一定の目的の達成のために創設される《ゲゼルシャフト》か、あるいは一般に社交的交際における出会い(ないし交わり合う人間)かのいずれかを指している。後者が、文学にとってますます重要性を獲得するにいたり、またこのような交際が人間形成にとって一定の価値をもつことがしばしば強調されるが、それでもこの交際に対する批判は、そこにおいて《ゲマインシャフト》の観点が後退しているような新たな意味領野を開く(四七)

ここには、若干の曖昧さが含まれており、まさしく、「確たる輪郭を欠いている」一様が窺える。また、リーデルは具体的に着目し、『アーガトン物語』や『アプデーラの人々』で知られるヴィーラントの「政治的ゲゼルシャフトの目的と本質的権利についての研究」を取り上げ、そこで、〈国家〉という語は、団体の統一性、完結性を強調しているのに対して、〈ゲゼルシャフト〉という語は、そこに参加する人々の多様性、したがって個人の権利を強調している、と論じている(四八)

 続いて、これらの背景について、「〈国家〉と〈教会〉とのかかわりのなかでは、輪郭は相対的により鮮明となる。ここではこれまで〈ゲマインデ〉と〈ゲマインシャフト〉とを無理なくうちに包括する〈ゲゼルシャフト〉という概念が、意味の広さと多様さにおいて、〔〈国家〉と〈教会〉とに〕共通の上位概念と見なされてきた」(四九)と説明している。しかしながら、「啓蒙主義が進展していくにつれてキリスト教の信仰形式が状況依存性をもっていることが反省され、その信仰形式の歴史的可変性が洞察されていったが、このプロセスにおいてこのような言語上の素朴さが破られる」と捉え、そこに垣間見られる啓蒙主義からの分水嶺に一定の意義を認めるのである(五〇)

 これらの転機において、汎神論的世界観を唱えた作家、哲学者のヘルダーは社会哲学的概念形成における《区別》に際して、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの間の区別を看過しないように要求していることを踏まえ(五一)、リーデルは、ヘルダーの「聖霊のゲマインシャフトは、別のものである。聖霊は国家に依存しておらず、国家によって保護されているわけでも雇われているわけでもない。聖霊は、共同支配を欲せず、単独で支配する。それは聖霊だからである」(五二)という言及を行った後、「キリスト教は教会を統治するのに国家の支配に制度的に関与していたが、ヘルダーは、国家との関係におけるキリスト教を〈ゲゼルシャフト〉と呼び、キリスト教に生命を与える《聖霊》との関係において、キリスト教を〈ゲマインシャフト〉と呼んでいる」と指摘している(五三)。ただし、これに併せて、ヘルダーの区別は、古い聖書的キリスト教会的コイノーニアの公式と《キリスト教徒団 Christengemeinde》の旧来の言い方を再検討するものであったが、一般的な同意を得られなかたのであった(五四)

 同時代の文学の術語問題について、リーデルは、術語上の区別はなされはじめてはいたが、それは徐々に受け容れられ採用されたにすぎず、文学の用語を一瞥すれば、明らかであると分析している(五五)。また、『群盗』、『オルレアンの少女』や『ヴィルヘルム=テル』、歴史書『三十年戦争史』などを著したシラーは、国家としての「政治的ゲゼルシャフト」を、《国家喪失》の状態にありながら政治的団体を形成する余地を残している人間の共同生活の状態から区別しているとし(五六)、「野獣の自由」を「人間の自由」によって克服するという、「《政治的ゲゼルシャフト》は、シラーが《詩的》歴史哲学という彼固有の形式において美化している市民社会 bürgerliche Gesellschaftという理性的理想でもあり、理性的存在者としての人間によって構成されるものである」(五七)として、着目するのであった。すなわち、リーデルは、その人間の実体を「自然的衝動の束縛から解放され、強制的義務に代えて洗練された道徳を定立し、自発的に受容された制限内部で各人に安全と所有および自由な自己発展を保障し、かくて諸個人の目的をゲゼルシャフト全体の維持と促進という一つの目的へと統合させる」存在であると理解する(五八)。そして、シラーが「理性の自由な交換こそが、ゲゼルシャフトを人間社会(人間ゲゼルシャフト)たらしめる唯一のものだ」と言明した点を提示している(五九)。しかしながら、ここにおける人間ゲゼルシャフトという表現について更に探究する余地は、我々認識を共にするところであろう。

 そのような用語と向き合う中、リーデルは、ゲーテが、道徳的価値理念とその実現という観点のもとで、人間ゲゼルシャフトを《規範的に》考察することができたことを挙げている(六〇)。ゲーテの考察について、リーデルは「《政治的》ゲゼルシャフトにとって相互行為の規範は不可欠の条件であり、それなしには政治的ゲゼルシャフトは存立しえないが、個々人によって洞察され引き受けられるべき道徳的根本規範のもとに人間の共同生活を置く《人倫的》ゲゼルシャフトにおいてはなおのことそうであって、その侵害が部分的にすぎない(例えば《家族》制度の侵害)ものであるとしても、ゲゼルシャフトの全体はそれを《非道徳的》と判定するであろうというのである。かくして、ゲーテはその『親和力』において声を強めて叫ばせている」(六一)と言及している。

対して、シラーについては、その構成員が互いに支配なくして意志を疎通しあうことができる道徳的全体という価値理念や、「ゲゼルシャフトの理想」の達成に向けて、人間の美的教育の必要性を説いていると位置づけている(六二)。すなわち、「シラーは、国家とゲゼルシャフトとは、物理的体制、道徳的体制、美的体制において、互いに対応し合い制約し合っているとして、その美的体制のみが、ゲゼルシャフトの規範概念(この場合これは再び〈ゲマインシャフト〉と一致する)を表わすのであると表明している」点が明らかなのである(六三)。また、それは「支配と強制、闘争と抗争が廃棄されることによって、個人とゲゼルシャフトの間に宥和が生じる。個人は全体のうちに見いだされ、全体は個人において維持され確証される。その結果、共同生活の《規範》が《真の》ゲゼルシャフトとして完全に実現され、したがって他の(たんなる可能な)ゲゼルシャフトから区別される」という思考内容が示されるのであった(六四)

そして、リーデルは、再びシラーの言述を引用している。それは、「力学的な国家〔物理的体制〕は、自然を自然によって制御することによってのみ、ゲゼルシャフトを可能にすることができる。倫理的国家〔道徳的体制〕は、個別的意志を普遍的意志に従わせることによってのみ、ゲゼルシャフトを(道徳的に)必然的なものにすることができる。美的国家〔美的体制〕だけが、ゲゼルシャフトを現実的なものになしうる。なぜなら、美的国家は個人の本性をとおして全体の意志を遂行するからである。たとえ欲望によって人間がゲゼルシャフトに入るべく強いられ、理性によって社交的諸原則が人間に植えつけられるにしても、人間に社交的性格を授けることができるのは美だけである。」というものであり(六五)、シラーが、美的国家という理想主義を多分に含む概念を打ち立てていることを見ることができる。

伝統的ゲゼルシャフト理論の批判  

 カントが、二つの術語(ゲゼルシャフトとゲマインシャフト)を同義のものとして使用している点は大変興味深い部分である。また、「他の人間とのゲマインシャフト」や「ゲゼルシャフトへの衝動」といった表現や捉え方がなされており、これらは、手段としてのみならず目的として、自己目的(自然本性)として理解されるべき示唆を含むものである。その例として、美的対象への着目や関心という最高の目的は、他者とともにゲマインシャフトリッヒに(ゲゼルシャフトリッヒに)感受することが示されるのである。しかし、リーデルによると、「カントは、法哲学・国家哲学・歴史哲学の文脈では、多くの場合〈ゲゼルシャフト〉という言葉のほうを用いている」ということであり、ゲゼルシャフトかゲマインシャフトかという点からして、そのカントに対する解釈は多様な方面へと帰するようにと思われる。リーデルはカントの術語使用と概念の認識について次のように説明している。

カントの場合にも、術語の基になっているのは、「多数の人間が一つのゲゼルシャフトへと結合される」契約(pactum social)という図式である。それゆえ、全ての人が(事実的に)持つ何らかの共通目的のために多数の人々を結合するその仕方に応じて、多数の《ゲゼルシャフト》が存在しうる。実現という点ではなく構造という点から見てこれと区別される結合は、その結合自体が目的とされ、その目的を「各人も持つべきである」とされる結合である。それは、カントに従えば、(市民的)法治国家において政治的にのみ実現されうる《ゲゼルシャフト》(人々の間の力学的ゲマインシャフトという意味での)の理想的規範である。この規範は、《支配のない》ゲゼルシャフトを要請するわけではない。反対に、その実現の可能性は万人を結びつけ万人を拘束する支配権力を前提とする。(六七)

しかし、カントは、伝統的―自然法的ゲゼルシャフト理論とはちがって、ルソーの『社会契約論』(カントはこれを〈ゲゼルシャフト契約〉と呼ばず、〈市民の盟約〉と呼ぶ)に刺激されつつ、支配(服従)の原理をゲゼルシャフトの原理(結社)と一致させることができた。だがそのためには、―常に経験の制約下にある―契約を想定するだけでは不十分であり、「各人の自由が他者の自由と共存しうるようにさせる諸法則に従う、最大の人間的自由を持つ体制」という実践的―理性的理念を必要とした。(六八)

 つまり、カントの社会モデルは、法哲学・国家哲学と歴史哲学・人間学という二側面の中にも、用語の近代的(自由主義的)意味における《市民社会 bürgerliche Gesellschaft》の行為図式を、「共同的にまた相互的に」行為する力学的全体の意味における《市民社会》の行為図式を、換言であることが分かる(六九)。リーデルは、カントの「私がここで、敵対 Antagonismusという言葉で理解しているのは、人間の非社交的社交性 ungesellige Gesellichkeit、つまりゲゼルシャフトを恒常的に分裂の脅威にさらす汎通的抵抗と結びつきながらも、そのゲゼルシャフトに入ろうとする人々の性向である。」(七〇)との言説を引用し、「カントの定理が通俗哲学的なゲゼルシャフト思想と、とりわけ歴史哲学的な着想を有するイギリス‐スコットランド道徳哲学(スミス、ヒューム、ファーガソン、ミラー)のゲゼルシャフト思想と、平行関係を有していることは、明白である」(七一)と分析している。

 ドイツ観念論の後者フィヒテは、カントと同じく〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉とを同義的に使用することが多いものの、「社会哲学的概念形成の連関において言語批判的考察を行なった最初の人」という評価が与えられる(七二)。フィヒテは、一七九二年に「概念の混乱」を指摘しており、「今日に至るまで―支配し、言語の内面にまで織り込まれていて、これに終始符を打つための言葉を見いだすことが困難なまでになっている。煩わしい誤解の源泉は〈ゲゼルシャフト〉という語にある」と論じているのであった(七三)

 なお、フィヒテの批判は伝統的ゲゼルシャフト概念の自然法的変容に向けられているのであり、伝統的ゲゼルシャフト概念は、一般に契約関係にある人間と同義的である場合と「特殊な市民契約関係」にある人間や国家と同義的に用いられている場合が交雑している状況を捉えた上で、リーデルは「何らかの契約関係なしに、いわんや市民契約の関係なしに併存し、また相互の間で生きている人間の性質はどういうものなのか」という重要な論点が隠されている点を指摘している(七四)。加えて、リーデルは、「カントは、いかなる経験においても《与えられて》いない規範的ゲゼルシャフト概念を、経験の可能性の条件(法の外的法則に従った汎通的調和)としてのみ理解しようとしたが、これに対して、フィヒテはゲゼルシャフト概念を実践理性の領域から無批判に現実的経験の領域へと転用する」(七五)というようにカントとフィヒテとの明白な比較をしている。つまり、フィヒテは理性的存在者相互の関係をゲゼルシャフトと呼ぶのであり、そのゲゼルシャフトの概念は、我々の外に理性的存在者が現実に存在するという前提なしには不可能であるということである(七六)。 

リーデルは、次のフィヒテの解釈を引用して、フィヒテによるゲゼルシャフトの概念化を説明している。「私はゲゼルシャフトという語について二つの主要な意味を区別したい。一つは、多数人相互の物理的関係を表現し、空間上の相互関係以外のものを示さない。もう一つは、道徳的関係を表現し、相互的権利義務の関係を示すものである」(七七)

 つまり、フィヒテが物理的関係ということで理解しているのは、契約によって結合されたのではない自由な存在者のあらゆる《集合》、「自然的な」集合のことであるとされる(七八)。この論点の周辺に着目し、その意味内容はリーデルによって次のようにまとめられるのであった。つまり、フィヒテにとり、《ゲゼルシャフト》とは、諸個人の総計であって、その非自立性と依存性の表現ではない。ただし、もう一方について、フィヒテは「人間はもちろん、―我々の第二の意味におけるゲゼルシャフト関係つまり契約関係に立つことなしに併存し、相互の間で生きることができる。その場合でも、人々は相互的な権利義務を持たないわけではない。このことを十分明確に規定する人間のゲマインシャフト的法則が、自由の法則なのである。それは、汝の自由を妨げないかぎり誰の自由も妨げてはならない、という根本原則である」と解釈したことがそこに見えるのである(七九)

 よって、リーデルは、フィヒテをドイツ語圏においてこの区別から「ゲゼルシャフトと国家の区別」を初めて導き出した一人であると評価する(八〇)。この区別に関連して、フィヒテの国家とゲゼルシャフト解釈について次のように示している。

  〔国家の〕ゲゼルシャフトとの区別が、歴史的に具体化されているわけである。しかし他方ではその区別は、フィヒテにとって、あらゆる種類の国家に対する敵対を意味している。というのも、国家自身はただ「ゲゼルシャフトの力にもとづいて存在している」にすぎないからである。だからフィヒテは、『学者の使命についての講義』(一七九四年)のなかで《区別》について語るだけではなく、国家を《ゲゼルシャフト》へと《解消》することを要請するのである。そこでいわれているゲゼルシャフトとは、《理性的存在者相互の関係》であって、国家と呼ばれる「特殊経験的に制約された種類のゲゼルシャフト」と混同されてはならない。(八一)

そして、併せて、「国家のなかでの生活は、人間の絶対的諸目的に属するのではなく―、完全なゲゼルシャフトの建設のための一定の諸条件のもとでのみ生ずる手段にすぎない」(八二)というフィヒテからの引用を提示している。ここからも分かるように、フィヒテはゲゼルシャフトを国家より理想的に捉えている。これは「市民契約」の問題と関連しており、同時代に起きたフランス革命によって市民契約を新たな機構へ変更せざるを得なくなったフランス国民の存在が、フィヒテの思考に影響を与えたといえ、当時の時代潮流の典型がそこに含まれることに気付かされるのである。

へーゲル周辺と批判的ゲゼルシャフト理論

 リーデルは、「へーゲルとへーゲル学派における社会哲学は、《ゲゼルシャフトに関する理論》とは原則的に異なった演繹の体系的枠組みを形成している」(八三)と明言する。すなわちそれは、「伝統的な《ゲゼルシャフト法》を更に前進させることではなく、新たな始まり―労働と交換に基礎を置く自立的な行為連関としての、法形式と国家形式から区別される《ゲゼルシャフト》の発見」ということである(八四)。ヘーゲルにとって《ゲゼルシャフト》とは、定義上、語ることと行為することの一切に先立ち欲望と労働とによって相互に結合されている諸々の私人から成立するものであるとされる(八五)。リーデルは、この欲望や労働に関連して、ヘーゲルの思想的背景について次のように説明している。

《労働》は行為の特殊な様態であり、《欲望》は、《私人》としての人間の自然的基礎をなす。両者は、国民経済学という学問とともに、いまや初めてゲゼルシャフト理論の視界へとはいってくる。この領域でのヘーゲルの哲学的功績は、とりわけ国民経済学の《私的な》連関枠組みを公的に媒介されたものとして、その自然の基礎をゲゼルシャフトの定数として理解した点に存する。彼の社会哲学の理論的パラダイムは、契約、つまり語ることと行為することとにおいて際立った特徴を示す理性的な法人格の合意ではなくして、《欲望の体系》なのである。すなわち、欲望と労働および欲望充足の手段から生じ、自ら作動することによって恒常的に再生産される《私人》間の関係の網状組織なのである。(八六)

この説明は、ヘーゲルが欲望の体系に基づいた人間像と、人間が構成する社会像を構想したということを端的に示している(八七)

 すなわち、ヘーゲルにおいては私的目的と公的目的の《弁証法的に》理解された相互関係は、《個人的》行為を包括する《ゲゼルシャフト的連関》の基礎であることが明確になるのである(八八)

当時のゲゼルシャフトに関する議論の根底においては、「旧来の諸々の対立、一方ではゲゼルシャフトと孤独の対立、他方では経済的―私的なゲゼルシャフトと市民的―公的なゲゼルシャフトの対立は消滅し、《社会的なもの Soziale》が個人の労働と欲望の充足の私的再生産の領域として現われる」(八九)という考え方が広まっていたのである。

近代国民経済学の経済モデルの基礎にある、私的なものと公的なもの、《私的悪徳―公益》といった新たな弁証法は、《個別的目的》と《共通目的》の結合にもとづいているのであった。この場合の〈ゲゼルシャフト〉という言葉は、「自分のために行為することによって他者のためにも行為し、他者のために行為することによって自分のためにも行為する二人以上の人々の契約のこと」を意味しているのであった(九〇)。リーデルは、この事態が西ヨーロッパの先進産業国(オランダ、イギリス、フランス)において広く生じていたことを挙げ、「この図式が全体としてのゲゼルシャフトへ転用できるためには、生産と商品取引が家長支配と領主制の限界を越えて国家の問題(=国家―経済)となる、ということだけが前提されるのでは十分ではない。それはまた、生産と商品取引がどの程度国家的な規制から解放されているかということ、すなわち私的であると同時に公的であるような関心事として機能しうるということに依存している」(九一)と説明している。

 西ヨーロッパの先進諸国では、〈ゲゼルシャフト〉という言葉は、権利能力と契約能力を有する諸個人の目的連関として理解されたとして、リーデルは「それら諸個人は、彼らの私的《利害》へと還元され、国家に対立し相互にも対立しあっていた。ここでは、ゲゼルシャフトという言葉は、強制のない通商貿易において自らの利害を表明する市民層の解放のスローガンである」(九二)と分析している。

続いて、イギリス道徳哲学における議論を例示している。「D・ヒュームによれば、すでに諸個人を相互に結びつけまた国家に結びつけるものは、もはや契約そのものではなく、利害とゲゼルシャフトの《必然性》とであり、この《必然性》は、法的には把握しえないにもかかわらず実効的な拘束力を創出するのである」(九三)として、ヒュームによる「我々を政府に結びつける一般的義務は、利害と社会の必然性とであり、この義務は極めて強いものである」(九四)という引用を参照し、国家における義務の位置付けを提示するのであった。

次いでリーデルは、若きへーゲルが研究対象とし、ヨーロッパの後期啓蒙主義の思想を支配していた功用主義・功利論に着目する。効用主義の著作は、「身分的、支配的紐帯から脱した、市民的私人の交易の原理を宣言しており、この交易が、《個人的利害 intérêt personelle 》(ディドロ、エルヴェシウス、ホルバッハ)ないし《自己利益 selfinterest》(フランクリン、ベンサム)をとおして全てのゲゼルシャフト的関係を規制するのである」という傾向が含まれていたことを確認し、(九五)この理解に関連する国民経済学に関心を持ったA・スミスはそのゲゼルシャフト概念の古典的解明者であると位置付けている(九六)。なお、スミスの言説として、「彼(個人)が念頭においているものは、実に彼自身の利益であって、社会の利益であるわけではない。しかし、彼は、自ら自身に有益なことを学ぶことによって、自然的にあるいはむしろ必然的に社会のために最も有益である仕事を選ぶことになる。―彼自身の利益を追及することによって、彼は、しばしば彼が実際に社会の利益を促進するつもりである場合よりももっと効果的に社会の利益を促進するのである」(九七)という、スミスの引用と共に、議論の素地となった国民経済学について、リーデルは次のように述べている。「古典的―市民的な国民経済学は、ゲゼルシャフトを、国家から独立しており、経済的行為に内在的な《市場》の諸法則によって規制される固有の目的主体として理解する。なるほど、ゲゼルシャフトは、相互に競合する諸利害の平衡を保障するべき《自然的秩序》の客観的進行に拘束されてはいる。しかし、この自然的秩序は、ゲゼルシャフト的な無秩序の現象、つまり日常的活動、交換をともなう主体的行為の偶然性を前提としている」(九八)。やはり、これらは国家という政治的な側面だけではなく市場による経済活動を重視し、その活動領域におけるゲゼルシャフトの構想として先進産業国という状況を踏まえた上でなされたという特質を含んでいるのであった。

 このような思考の過程において、ゲゼルシャフトという概念は他の諸概念(〈国家〉、〈ゲマインシャフト〉、〈市民社会〉)と同義ではなく、反対語と化したのである。このような形成体の概念的理解の問題に対するヘーゲルの立場は、両義的であるとされる。

リーデルはその理由を次のように示す。「一方ではゲゼルシャフトは法的な形成体、すなわち法、理性的な(《自由な》)意志の現存在である。他方ではこの意志は、私法的な観点においてのみ契約へと統合されるにすぎない。家族、《市民社会》および国家において実現される、自然的―歴史的制度としてのゲゼルシャフトは、契約の法律上の拘束力、諸個人からなる団体の《共通性》にもとづくわけではない」(九九)。そして、『法哲学』第一八二節の補遺における「国家が様々な人格の統一として、たんに共通性を有するにすぎない統一として表象される場合、それによってただ市民社会の規定が考えられているにすぎないのである」という記述を取り上げ、「〈ゲゼルシャフト〉は〈ゲマインシャフト〉や〈国家〉との同義性を失って、《市民社会》の一契機に、もはや理性的に規範づけることのできない《事実的》基礎としての《欲望の体系》に、引き下げられる」(一〇〇)ことを明らかにしている。すなわち、ここにおいては、ゲゼルシャフトが《欲望の体系》という意味にまで低下したということが重要であり、概念の変遷における一定の帰結であるともいえよう。

 そして、ゲゼルシャフトのこの基礎が社会哲学的な概念形成の問題となる。このことは、サン=シモンとフーリエの思想を取り上げた、E・ガンスによる萌芽を垣間見ることができる。ガンスは、ゲゼルシャフトとしての市民社会が国家にまで高められないことを認識していたとされ、同時にガンスは、普遍的な競争の諸帰結を、つまり「ゲゼルシャフトの中間階級に対するプロレタリアの闘争」を念頭においていたとされる。この闘争に対処するために、中間階級は、ゲゼルシャフト的な組織形式、換言すれば、彼らの《連合体 Assoziation》を求めざるをえないと、リーデルは考察するのであった(一〇一)。そして、リーデルはヘーゲル影響圏におけるゲゼルシャフトの概念化と議論の結果について、周辺に存在するM・ファイトの論点を組み合わせた上で、次のように提示している。

  《連合体 Assoziation》という語はフーリエ的刻印を帯びた語であり、ガンスはこれを〈社会化 Vergesellschaftung〉と翻訳しているが、職能団体(連合体)というヘーゲルの概念に関連している語でもある。四〇年代のへーゲル学徒たちは、彼らにとっての現代的な《社会的》挑戦に答えるために、新たな道を歩む。『ゲゼルシャフトと国家』という講演(一八四三年)おいて、M・ファイトは、〈ゲゼルシャフト〉という言葉によって「ヘーゲルが〈市民社会〉と呼んでいるものを理解しているのではない」と明確に述べている。ファイトによれば、なるほどゲゼルシャフトという概念は国家を前提とするが、国家よりも広い射程を持っている。―ゲゼルシャフトは、「醗酵し発芽し成育していく国家の内容をなすものであり、形式を永遠に自ら生み出す生ける物質であり、全ての人間活動を相互的に補完するものであり、人類の最高目的と進歩とのための容器である」。ここに一九世紀のパトスで語られているのは、社会運動の言葉であり、ゲゼルシャフト概念を絶対化し、それによって再びあの誤った社会ロマンティックに変転しようとする言葉である。(一〇二)

 すなわち、ヘーゲルは、フランス革命に対するロマン主義的―復古主義的反対運動の真っ只中にいたものの、ヘーゲル影響史に見る状況からすると、また、リーデルが「ゲゼルシャフト概念を絶対化し、それによって再びあの誤った社会ロマンティックに変転しようとする言葉」として述べているように、ヘーゲルの市民社会概念については、次世代への余波が見受けられつつも、ヘーゲル以降の議論の中においても不明確なままに残余した点が窺えるのである。

史的唯物論のゲゼルシャフト概念

 リーデルはこう述べる。「《ゲゼルシャフト史》の構想は、一九世紀の中葉にマルクスとエンゲルスの《ゲゼルシャフト学》において彫琢される」(一〇三)。つまり、批判的社会理論の術語に対する評価変更が《史的唯物論》、特にプロレタリアートの政治的役割の理論に立脚して再び論じられたという指摘である。よって、〈ゲゼルシャフト〉という概念は、このような経緯のなかで従来の理解が改められて、《第四身分の概念》として、認識されたという状況が垣間見られたのである(一〇四)

 そして、〈ゲマインシャフト〉という術語およびこの術語と関係を有する〈共産主義〉と〈社会主義〉という政治的な基本的術語に対する新たな評価について論を進めることになる。この議論の起点はシュタインである。リーデルは、シュタインを、啓蒙主義者の政治的社会的には影響力を持たなかった「社会主義的共産主義的な諸体系」とその先駆者たち(プラトン、モールス、カンパネラ等々)とを、一九世紀の社会主義と共産主義の社会運動から区別し、両者の術語を詳しく分化させたとして評価した上で、シュタインが、《自由な人格性》という規範的《理念》と労働の事実的な状態つまり生産諸条件との間の問題とされるべき関係を認識したことを、それは併せて、社会主義の功績に属するということを、分析したのである(一〇五)。リーデルはシュタインの「社会主義は、一定の諸法則と諸要素とによって支配される秩序としての人間のゲゼルシャフトについて語ることを初めて教えたというまさにそれゆえに、社会主義と呼ばれて正当なのである」という言述を引用して、ゲゼルシャフトの理論が社会主義の構想と連結したことを強調するのである(一〇六)。ここで、リーデルはシュタインの捉える社会主義と共産主義の差異について着目する。つまり、それは「シュタインの論じる社会主義は《自由な人格性》の理念を、現存の市民的法治国家の規範体系に直接に結びつけたとされる。これに対して共産主義は、プロレタリアートのもはや《人格的に》媒介されていない階級意識によって、現存の体制を否定するにすぎない。」(一〇七)として、そして、この階級意識は、「最高度の意義を持つ歴史的事実である。もちろん、この歴史的事実は、ゲゼルシャフトの歴史にとってのみ意味を有するにすぎないが」と付言し、階級意識の問題性への着眼を我々へ与えるのである(一〇八)

 これらの観点を踏まえると、マルクスとエンゲルスは、「この《事実》を政治に転用し近代国家史に対して重要性をもつものたらしめたのである」と捉えられ(一〇九)、フランス―イギリスの社会理論家の影響を受け、また同時代のドイツの哲学者(フォイエルバッハ)の影響を受けているとされている。また、第四身分の解放闘争を経て、〈連帯〉と呼ばれる新たな社会性 Geselligkeitの経験、初期の労働運動における社会的熱狂という精神状況が形成されることを推測していたのであった(一一〇)

 この点を認めつつ、リーデルはマルクスの次の言述を引用する。「ゲゼルシャフト、組合 Verein、更にはゲゼルシャフトが目的にしている慰安が存在すれば、人間にとっては十分である。人間の友愛 Brüderlichkeitは、中身のない言葉ではなく、人間における真理である。人類の高貴さは、労働によって硬直なものとなった形態から逆に照明し出される。」(一一一)ここにおける真理としての友愛、高貴さとしての労働という点はマルクスに着目する上で、不可欠な主題であろう。

 リーデルは、マルクスの前提に対応するのは、愛の原理に立脚するフォイエルバッハの社会的人間学であるとしている。すなわち、それは、「この人間学は、〈ゲマインシャフト〉という語のほうを強調し、ただちにこれを《共産主義的な》流行の思潮と結びつける」というものである(一一二)。つまり、フォイエルバッハは「個々の人間は単独で人間の本質を道徳的存在としての自らのうちにもっているわけでもなければ、思考する存在としての自らのうちにもっているわけでもない。人間の本質は、ただゲマインシャフトのなかに、人間の人間との統一のなかにのみ含まれているのである」との理解を前提にして、マルクスへの水脈に身を置いているということである(一一三)。この「統一」を、若きマルクスは〈共同組織〉(ゲマインヴェーゼン)という言葉で表わしているのであった。すなわち、マルクスが示すところによると、それは「人間の本質は、人間の真の共同組織であるから、人間はその本質を活動させることによって、人間の共同組織、つまりゲゼルシャフト的本質を創造し産出するのである。このゲゼルシャフト的本質は、個々の個人に対立する抽象的―普遍的な力ではなく、各個人の本質、彼固有の活動・固有の生命・固有の精神・固有の富である。」ということである(一一四)

 〈共同組織〉という概念は、「日常言語的教養言語的には、元来政治的(ラテン語のres publica)な概念であるが、マルクスによっては脱政治化されて用いられており、人間の最高の結合状態、つまり人間の《類的生活》を示す概念とされている。この概念は、意味的にこれ以上詳細に確定されておらず、また特定の語形(例えば〈ゲマインシャフト〉)に投影されていないが、マルクスはこの概念を国民経済学的なゲゼルシャフト概念に対比している」とのリーデルの解釈を生じさせる(一一五)。マルクスによると、国民経済学においては「人間の共同組織を、あるいは自己活動的な人間の組織を、一面的に交換と行為の局面の下で」捉えているだけであり、この批判に関連し更に加えて、リーデルの引用によると、「D・d・トラシーによれば、ゲマインシャフトとは、一連の相互的な交換のことである。それは、まさにこの相互的な統合運動である。スミスによれば、ゲセルシャフトとは、商業を営むゲゼルシャフトのことである。ゲゼルシャフトの各構成員は、全て商人である。ここに、国民経済学が、社会的交通の疎外された形式を、本質的で根源的な形式であって人間の規定に対応するものとして確定しているのがわかる。」と述べているのである(一一六)

 しかし、マルクスは批判的だった国民経済学のゲゼルシャフト概念を、その術語的な側面として、史的唯物論の仕上げられた言語体系の中へ受容しているとされている。この理解を経て(一一七)、更に、リーデルは、この言語体系への受容について、「《市民的》ゲゼルシャフト理論のこの継受は豊かな結果をもたらしたが、その根拠はとりわけ次の点にあった。それはマルクスが、《人間の共同組織》という抽象的で誇張された言い方を間もなく放棄し、《疎外されていない》ゲゼルシャフト状態をただたんに言葉だけで、喚起させて先取りしようとしたフォイエルバッハと《真正社会主義者》の誘惑と戦った、という点である。言語的戦略は、政治の言語、政治的行為の組織化、一定の制度と組織の内部で語ること行為することにとってかわることはできないのである」と、影響史の一側面と共に考察し、社会主義概念の萌芽における各所の肝要ともいえる論点と性格を明らかにしている(一一八)

 すなわち、マルクスのゲゼルシャフト論はゲゼルシャフトと生産・分配・消費の領域とを関連することで大きく展開しているのである。その概要について、リーデルは次のように示している。

  《ゲゼルシャフト》、つまり生産・分配・消費の領域は、マルクスとエンゲルスによれば、相互主体的な行為連関として構成される。《生産一般》、《一般的生産》なるものは存在せず、存在するのは常に特殊な(《社会的 gesellschaftlich》)関係のもとでの生産だけであるが、これと同様に《普遍的ゲゼルシャフト》なるものもまた存在しない。マルクスとエンゲルスによれば、常に生産諸力と生産諸関係の歴史的に生成した全体(《統体性》)としての特殊な《ゲゼルシャフトの形成体》だけが存在してきたのである。この場合、当初に展開された《ゲゼルシャフトの歴史》の歴史的―発生的連関においては、五つの形成体が区別されている。すなわち、原始ゲゼルシャフト、奴隷所有者のゲゼルシャフト、封建制のゲゼルシャフト、市民社会ないし資本主義的ゲゼルシャフト、そして社会主義的ゲゼルシャフトないし共産主義的ゲゼルシャフトがそれである。〈ゲゼルシャフト形成体〉という言葉は、ゲゼルシャフト概念を歴史的に可変的なものと見る史的唯物論のゲゼルシャフト学にとって基本的術語である。それが可変的であるのは、プロレタリアートの解放によって克服されるべき国家概念が可変的であるのと同様である。(一一九)

 まさしく、マルクスのゲゼルシャフト論は、プロレタリアートの解放という論点からも分かるように、旧来の社会哲学とは別の道を模索することになる。加えて、「原始ゲゼルシャフト、奴隷所有者のゲゼルシャフト、封建制のゲゼルシャフト、市民社会ないし資本主義的ゲゼルシャフト、そして社会主義的ゲゼルシャフトないし共産主義的ゲゼルシャフト」という段階論も含まれ、そこにはマルクス主義的な歴史観を垣間見ることができるのである。

 マルクスは、《国家の死滅》という過程を提示し、パリ・コミューンの政治的組織形態にその実践的な根拠を見出したとされる(一二〇)。リーデルはマルクスの《国家の死滅》という主題とゲゼルシャフト論との関連を次のように解説している。「彼は、国家は従来ゲゼルシャフトによって活力を得ており、ゲゼルシャフトの自由な運動を妨げてきた寄生体として、社会の諸力を引き裂いてきたが、パリ・コミューンはこれら全ての諸力をゲゼルシャフト的な団体に返還したと考えた。〈ゲゼルシャフト〉は、ここではすでに、史的唯物論の政治体系において、〈連合体 Assoziation〉という語に与えられる肯定的価値連関を持っており、そしてこの語は、未来に期待される完全な解放状態を、したがって国家の《終焉》を示すものとされている。」(一二一)

そして、リーデルは、マルクスが「生産者の自由で平等な連合体 Assoziationに立脚して生産〔関係〕を新たに組織化するゲゼルシャフトが形成されたならば、全国家機構は、その時点でそれにふさわしい場所へと移される。つまり、糸車と青銅製の斧と並べて古代の博物館へ」と述べた比喩を引用して、更に、「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件であるようなものとしての諸個人の連合体というマルクス―エンゲルスのゲゼルシャフトのモデルは、相互作用(作用と反作用が等しい)の規則に従って諸個人を結合する市民的―自由主義的な協調関係 Koordinationのモデルから離反してはいない。そればかりかそのモデルは、自己活動的(《自動的》)協調関係を想定することによって、市民的―自由主義的なモデルを凌駕し、これを完成するものである。人間に対する支配は不必要となり、《管理》だけが、つまり物の管理の問題だけが、残されることになるからである」と論理的に説明している(一二二)

 マルクスは、《連合体 Assoziation》に立脚する未来のゲゼルシャフトの構想を、〈ゲマインシャフト〉と表現している。この場合の、〈ゲマインシャフト〉とは、分業・支配・個別化を揚棄(=否定)した状態のことである。リーデルはこのことに着目した上で、「〔他者との〕ゲマインシャフトにおいて初めて、各個人は、その資質をあらゆる方面へと開花させる手段をもつ。したがって、ゲマインシャフトにおいて初めて、人格的自由が可能となる。ゲマインシャフトの従来の代用品、国家等々においては、人格的自由は、支配階級の境遇のなかで育てられた諸個人にとってのみ存在したにすぎないのである。」というマルクスからの引用を行っている(一二三)

 マルクスは、このゲマインシャフトの「代用品」を〈ゲゼルシャフト〉と呼称せず、未来の《現実的ゲマインシャフト》に対立させて、〈仮象的ゲマインシャフト〉(他の階級に対立するある一つの階級の結社)と呼んでいる。この未来のゲマインシャフトにおいては、諸個人は、「自らの連合体のなかでまたそれをとおして、同時に自らの自由」に到達するということである。マルクスは、五〇年代と六〇年代の諸著作においては、〈ゲマインシャフト〉という言葉を用いず、〈共同組織 ゲマインヴェーゼン〉という言葉を用いている点を踏まえて、〈ゲマインシャフト〉という語は制度や本来的に原始的・基本的で政治的なゲゼルシャフト形式という《ゲマインデ》を意味することがここから窺える。つまり、ゲマインデの《自生的な在り方》は、発展した貨幣と交換の経済により解消され、より高い段階で、つまり社会主義的ないし共産主義的ゲゼルシャフト、《自由の王国》において初めて、再建されうるというものであった。

 リーデルはこのマルクスの構想について、「ゲゼルシャフトという批判的概念は、マルクス(とその概念の原型を最初に定式化したヘーゲル)によれば、労働・分業・交換をとおして普遍的となるものである。そして、諸個人の行為をとおして絶えず再生産される欲望と欲望充足のための、手段の体系の総体である」と取りまとめている(一二四)

 マルクスによってなされた思考は、テンニース『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』によって後世への影響を一旦停止させられることになる。テンニースにおけるゲゼルシャフト概念は、「全ての根源的かつ自然的な結合から切り離された諸個人が、相互的利用と対価とを、抽象的理性的に考慮することによってのみ相互的関係に立つところの、社会的意欲と行為の総体」(一二五)を意味しており、また、「交換によって媒介された諸個人間の諸関係の全体性を包括しており、そのかぎりで依然として歴史的状況に位置づけることができる」(一二六)というものである。リーデルは、このテンニースのゲゼルシャフト解釈に対して、「この位置づけとともに、言語批判的にも発生的にも正当化されえない概念的諸区別が現われるという点に、こうした歴史的な状況への位置づけのアポリアが存在する」と注意を与えている(一二七)。すなわち、それは、これらの領域を総括するように思われている著作に対して、長き歴史を有する用語の変遷や概念の意義についての解釈が逸していることを明らかにしているのである。

 リーデルは、M・ヴェーバーとジンメル、フィーアカントとマンハイムといった、新しい社会学の思考が、このアポリアに対して、社会哲学的な概念形成体に再考を行うことによっての解決法を模索したことを記述するが、しかし、これらの試みに対して批判を加える。すなわち、それは、「国家、教会、ゲノッセンシャフト等々のような社会的諸制度を、個人に予め与えられた自立的な実体として理解し、これら諸制度を一般的なゲゼルシャフト概念に組み込むことを、M・ヴェーバーは社会学において未だ克服されていない《形而上学》の残滓と見なした。むしろ、社会学の研究は、特定種類の人間の共同行為のためのこれらのカテゴリーを、《理解可能な》行為へと遍元することに向けられなければならない。社会学の方法的構築のためのこの観点は、非常に確信に満ちたものではあるが、ヴェーバーがそこからもたらした諸帰結は、混乱を招き、更には誤り導くものであった」(一二八)という批判であり、このリーデルの指摘は、確かに概念に対する論考の不足という点からしても、適切であるように感じられる。

 なお、リーデルは、社会学的な概念形成のためのヴェーバーの提言がもはやゲゼルシャフトという基本的概念を含まないとしても偶然ではないとしている(一二九)。つまり、このゲゼルシャフトという概念は、〈ゲゼルシャフト化〉という極端に一般的(《形式的》)な術語に置き換えられるようになった。この術語は、「社会的行為の方向が、合理的に―動機づけられた利害調整や同じく合理的に動機づけられた利害の結合にもとづく場合に、常に使用されてよいのである」(一三〇)という一般的な意味を持ち、曖昧な概念でもあることが分かる。そして、これらを背景として、社会学は、合理的に動機づけられた行為へとつながるゲゼルシャフトの現実的な連関を、批判的に理解するという要請を放棄することになったということが窺えるのである(一三一)

 リーデルは近代社会学がゲゼルシャフトを主題化したことによってゲゼルシャフト概念の脱歴史化の過程がもたらされたと把握し、このことによる影響を次のように考察している。

ゲゼルシャフト概念の脱歴史化の過程は近年の社会学においてはテンニースの行なった術語上の区別やそれについてのヴェーバーとマンハイムによる(暗黙のあるいは明示的な)批判によって始まったが、それはその反面として、〈ゲマインシャフト〉という語がアクチュアルな意味を帯びてくるという《擬似歴史化》と呼ばれてしかるべき事態をともなった。問題なのは純粋社会学の歴史哲学的問題についてのより広い視角であり、純粋社会学を、学問史的にも概念政策的にも、一九世紀から二〇世紀への移行期におけるヨーロッパ的文化状況のなかに位置づけることである。〈ゲマインシャフト〉という語の導入によって、社会学の理論は、はからずも現代の産業的ゲゼルシャフトに対する反動的立場の意に添うことになる。他のヨーロッパの諸言語においては、今日まで〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉にあたる言葉が同義性を保ち続けているのに対して、ドイツにおいては、〈ゲマインシャフト〉という言葉は、第一次世界大戦後に社会主義、資本主義、および産業主義を同時に《克服》しようと試みたあの国民的―保守主義的民族主義的運動の社会イデオロギー的な主導概念となるのである。(一三二)

 つまり、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトに示されるような二分法的解釈が一般化したのは、ヨーロッパにおいてはドイツに限られるということである。また、日本においても同様である。「ゲゼルシャフト」という用語を耳にする時、先ず想起できるのは、その二分法解釈の典型例であるテンニースの著作である。いわば、テンニースのイデオロギーが確固とした認識として理解されている状況において、我々はヨーロッパの一八世紀以降に見られた多くのゲマインシャフトとゲゼルシャフト概念についての議論に着目する必要がある。しかしながら、テンニースらによる純粋社会学によって、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへという構想や、ゲゼルシャフトの状態を批判し理想的な意味を含むゲマインシャフト概念の提示、というような議論が生み出されたことも看過できない。概念史の系譜においても、同様な議論が含まれていたが、純粋社会学による「共同体」と「社会」に関しての議論と、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの議論が同一の場で論じられるようになったことで、より具体的な研究の展開が可能になったと言うこともできよう。すなわち、概念史の正統や異端を超越した議論が新たな社会学の分野でなされるようになったのである。それは勿論、新たな学問体系の構築として現れたこともあり、また、政治学の分野においても、先述のドイツにおける国民的―保守主義的民族主義的運動の社会イデオロギーとゲマインシャフトとの関連を研究するという方法が垣間見られるようになったのである。リーデル『市民社会の概念史』は、これらの歴史的経緯を詳細に分析し提示するといった極めて重要な地図としての意義を有しているといえよう。

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