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2013年1月

2013年1月27日 (日)

新たな始まり

フォルムの変奏が始まります。

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熊谷市緑化センター


2013年1月22日 (火)

春を待つ

Cimg3597_2                                        「3月9日」






Cimg3599                                        「忘れ得ぬ人」

                     


                         新たな旅路へ。新たなフォルムへ。




2013年1月20日 (日)

調律 ― グノーシス・共同体・市民社会

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 私はコンサートホールの出口にて、一本のペンを手にした。そして、私はそれを用いて、本論文の構想や方法についてノートに素描し始めた。

当日、行われていたコンサートは、ブラームスの交響曲第一番が主な演目であった。ベートーヴェンの足音を聞きながら完成までに長い年月を積み重ねた記念碑的作品、ブラームスの交響曲第一番。その第四楽章には、ベートーヴェンの交響曲第九番、第四楽章における「歓喜の歌」に類似した主題が登場する。ブラームス第一番の最たる醍醐味というべきその箇所は、演奏するオーケストラのメンバー、その演奏に聴き入る観客、そのコンサートホールにいる大半の人間に、興奮を与えるのであった。オーケストラは、第四楽章の終盤に向かって、演奏に熱が入り、指揮者は情熱的にタクトを振った。ヴァイオリンは気高く叫び、チェロは毅然と響かせた。観客には、目を潤ませる人もいれば、目を瞑り、過ぎ去りし日々への回顧に浸るような人もいた。第四楽章が高らかなクライマックスを迎える数分間、コンサートホールにいる全ての人々は最後の全休止に向けて、歩みを共にしていたのである。その瞬間、私は、このコンサートホールという場所に、一つの「共同体」的なものが存在していることに気付いたのであった。私は、全く知らない人、全く話したことのない人との共同体を形成しているような意識を持ったのである。全休止し、賞賛の叫びや盛大な拍手が起きた時も、その感覚は維持されていた。しかしながら、数分後、熱狂的なその共同体は散逸してしまった。曲に没頭していた演奏者と聴衆によって構成されていた共同体は、帰路に就く足音と共に、解かれていった。私もその足音に促されるように、出口へ向かった。すると、そこに偶然居合わせていた数名の旧友に呼び止められ、再会の証として、ドイツ語で「苦悩から歓喜へ」と書かれたペンをプレゼントしてくれたのである。そこで交わされた簡単な会話やお礼の言葉。私はそこに再び小さい共同体が構成されていることを感じたのである。そこに存在する共同体の感覚というべき状況は、私を、共同体とは何かという思索へと向かわせたのである。

かつて、私は初期キリスト教の時代に生まれた「グノーシス」について着眼点を置き、学部の卒業論文においてその序論的内容を記したのであった。そしてその後、本格的に論考を進めようとした。それは、キリスト教成立期に源流を持つグノーシスが、その後も脈々とした系譜を辿って今日に至っているということを論証する構想であった。しかし、このグノーシスは、大きな関心を抱かせる主題ではあるものの、歴史の裏面に流路を持つ思想であるがため、グノーシスの第一級資料である「ナグ・ハマディ文書」の解明などを端緒として、現時点において進みつつある学問領域としての体系化を今少し待機する必要性を感じるに及んだ。また、グノーシスという概念について、系譜の先端である現代における一状況として捉える場合、多くの偏向を孕む可能性があることが期されたのであった。いわば、グノーシスを救済思想と捉える場合もあれば、他方、堕落思想と解釈するなどの側面も窺えるのであった。例えば、グノーシスの研究において、ドイツ観念論をグノーシス主義的であると捉えることがあるが、哲学研究の中から、カントからヘーゲルの研究においてグノーシス主義からの影響を認める見解は少ない。逆に、このような学問的状況から、研究するべき対象は広範にあることは明らかであるが、グノーシスという概念や術語の問題、グノーシス的とは何かという問いに対しての返答に困難性を含んでいるのは確かであった。 

この自身の状況を経て、グノーシス研究への着眼から共同体への問いへという関心の変遷は、関連研究や文献の通読を経て、更に高まるのであった。しかし、それは同時に、これらの領域が、先述のグノーシスの概念や術語に関する困難性を超越する問題や課題を含んでいることを認識させるのであった。

グノーシス研究の場合、スコラ哲学が捉えるグノーシスと近代前夜のドイツ神秘主義が認識するグノーシスとは異なるものの、客観的な共通項を見出すことは可能であった。グノーシスにおける研究手法とはすなわち、グノーシスの内面に向かってグノーシスとは何かと論じるものであり、その意味からすると、概念や術語の不明確な状況は否めないものも、グノーシス研究は概念的なものを収斂させる方向性を持しているとも考えられよう。対して、共同体論の方法は、この逆の方向を志向しているように思われる。つまり、様々な共同体の類型への着目を前提として、外面的な方向に向かって共同体とは何かということを問うているのである。これによってグノーシスとは何かという問いに比べて、極めて多くの回答が提出されることが必至なのであった。

 また、これら以上に大きな論点であるのが、訳語による概念の差異ということである。日本語の「共同体」は、「Community」である場合もあれば、「Gemeinschaft」である場合もある。すなわち、「共同体」と「Community」を同一と捉えることは可能なのかということである。これに関連して、「Gesellschaft」は、「社会」として、「Society」として解釈するのは可能なのかという疑問も生まれる。この点はまさしく、共同体論という名称が果たして相応しいかどうかという点に立ち止まらせるものでもあった。

 この訳語の問題、概念の複雑性に基づく問題、これらは容易に解決できないであろう。例えば、先程の「Gesellschaft」との関連において、術語的差異についての問いを生じさせる余地もある。そのため、共同体は何かという命題を提示することは、この術語「共同体」を使用した上でという枠の中での議論になり、主観性に立脚する思考によってなされるに他ならないともいえる。

 そしてこれらのアポリアの中にあり、共同体を歴史的関心に基づいて概観した際、学究的な分野として「市民社会」についての濃厚で充実した視座や考察が多様に存在していることに気付かされたのである。その一つとして、社会という枠に市民という存在が組み込まれた市民社会という概念がいかに生成されたのかという問いが、研究史における重要主題であることを私に再認識させたのである。よって、共同体への着目から、この「市民社会」へと向かうことになった。これは視線の向きを変えると、術語や概念の困難性が、この市民社会への更なる関心を高めたという一つの表れでもあった。その際、極めて有用な教示を与えた著書こそ、緻密な概念史の解明へと果敢に挑んだマンフレート・リーデル『市民社会の概念史』であった。本書からの要点の抽出から、本論の基礎部が形成されていったのである。そして、それは共同体への問いを再考する道程を準備したのである。

私が取り掛かった本考察は、概念の問題あるいはその「可能性」を踏まえつつ、市民社会論および共同体論と対話し、論点をまとめることに着眼点を置いている。加えて、それは歴史上における、市民社会および共同体の概念的モデルを示し、その歴史的な意義について読解し、精査するものである。主として、哲学史の根本にある原著や一次資料と向き合うこと以上に、前掲のリーデルの著書、ジョン・エーレンベルク『市民社会論』、ジェラード・デランティ『コミュニティ』に示される市民社会論・共同体論との対話を通して、市民社会のロゴスと、共同体のトポスを見出そうと試みたのである。このギリシア語のロゴス(Logos)とトポス(Topos)。「概念意味論理思想、言語」などの複数の意味を有するロゴス。「場所」という意味を有するトポス。何故、この二語を用いたのか。それこそが本論を見渡す上での重要な鍵となるのであろう。

多くの論点の提示と書誌的な案内を通して、その鍵の在り処に向けての道標を提供したいと考えている。まさしく副題に置いた、オペラやオラトリオの中で物語の紹介を行うレチタティーヴォ(recitativo)のごとく。

ここに、美しい音楽が流れ、レチタティーヴォの声楽が響き、市民社会のロゴスと共同体のトポスを目指す旅が始まる。

市民社会概念の思想史―M・リーデル『市民社会の概念史』読解  

第一章  市民社会概念の思想史―M・リーデル『市民社会の概念史』読解  

第一節 市民社会概念の歴史的系譜  

第二節 二分法的解釈の意義―GemeinschaftGesellschaft 

 本章の主たるテーマは、市民社会の概念の変遷を考察することである。ここでは、市民社会概念への着目を主とした内容としながら、その中で共同体とは何かという問いを包含する幅広い視線を準備する必要がある。それは、市民社会の概念史を基本線として歩みを始めるが、その多くに共同体概念についての議論が止むことなく生じていることも明白だからである。

社会史という通史的理解における、市民社会および共同体に着目する方法や論点は多くあり、容易に収拾を付けることは難しい。よって、「概念の歴史」という主題に沿って論考を行いたい。けれでも、この方法も曖昧性を持ち合わせる観点であるといえる。そこで本章において、市民社会概念の歴史に関しての一級研究書であるマンフレート・リーデル『市民社会の概念史』(原書Geschichtliche Grundbegriffe, hrsg. Von Brunner/ Conze/ Koselleck, Bde. Klett-Cotta Stuttgart 1975-82(一)に示される要所を通読し、概略を取りまとめることで、「市民社会」の概念についての論究を行う。

 『市民社会の概念史』の著者マンフレート・リーデルは、一九三六年に旧東ドイツ・ザクセン州のエッツォルツハインに生まれ、一九五四年から一九五七年までライプツィヒ大学において、エルンスト・ブロッホ、ヘルマン・アウグスト・コルフ、ハンス・マイヤーの指導を受けながら、哲学とドイツ文学を学んだ。しかし、社会主義国家に絶望したリーデルは、その後一九五七年に当時の西ドイツへ移住し、ハイデルベルク大学のカール・レーヴィット、ハンスーゲオルク・ガダマーのもとで研鐙を積み、一九六〇年に学位論文「へーゲル思想における理論と実践」を提出して、一九六八年に大学教授資格を取得した。一九六九年から二年間、ハイデルベルク大学、ザールブリュッケン大学などで私講師を務めた後、一九七一年にエアランゲン・ニュルンベルク大学教授に就任した。その後、ハレ・ヴイッテンベルク大学教授として、哲学を講じた(二)

 リーデルの主な研究テーマはヘーゲル研究であるが、その対象領域は哲学、倫理学、法学、歴史学、社会学と多岐にわたっている。解釈学的批判主義という独自の方法論を駆使し、「市民社会における理論と実践」を主要論点として考察した功績は著名である。一方、リーデルは一九九〇年に、イタリア・ニーチェ賞を受賞し、一九九一年よりマルティン・ハイデガー協会の会長職を務めた。リーデルの著書は多数発刊され、世界十数か国の言語に翻訳されている。邦訳書は、『へーゲル法哲学―その成立と構造』(清水正徳・山本道雄訳、福村出版、一九七六年)、『規範と価値判断倫理学の根本問題』(宮内陽子訳、御茶の水書房、一九八三年)、『解釈学と実践哲学』(河上倫逸、青木隆嘉、M・フーブリヒト編訳、以文社、一九八四年)、『へーゲルにおける市民社会と国家』(池田貞夫、平野英一訳、未来社、一九八五年)、『体系と歴史―へーゲル哲学の歴史的位置』(高柳良治訳、御茶の水書房、一九八六年)が挙げられる(三)

 リーデル『市民社会の概念史』は、特定のシリーズに投稿された論考の集成であるにもかかわらず、「市民社会」を語る上では看過できない術語の変遷を中心とした概念史を仔細に論証している。『市民社会の概念史』の構成は、第一章においては「市民社会」を説明し、古代ギリシア時代から中世を経て近代の哲学領域に至るまでの市民社会概念の系譜を論理的に描写している。第二章においては「市民、公民、市民階層」を主題とし、同じく古代ギリシア時代からの市民や公民の概念的把握を行っている。第三章においては、「ゲゼルシャフト、ゲマインシャフト」が取り上げられ、伝統的なゲゼルシャフト理論の解説と、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトという二分法の解釈に対する諸議論が述べられている。第四章においては、「システムと構造」という項目の下、伝統的なシステム論の把握と科学的なシステム学を中心とした議論が行われ、システムと構造に関する歴史的な経緯が述べられている。「市民社会」という本章のテーマに基づいて、本章は特に『市民社会の概念史』の第一章と第三章を参照することになる。

第一節 市民社会概念の歴史的系譜

 リーデルの論考は、次の術語解説から開始される。「ヨーロッパ政治哲学上の術語としての〈市民社会 bürgerliche Gesellschaft〉は、アリストテレス以来伝承され、およそ一八世紀中葉に至るまで通用した、古い言語伝統においては、《市民団体》ないし《市民共同体》といったことを意味する。これらの語においては、市民が自由で平等に共存し(通常は市民自身によって担われる)、政治的支配形式(共和政や貴族政あるいは君主政も含む)に自ら服する社会ないしゲマインシャフトが理解されている。〈市民社会〉は、その歴史的由来によれば、〔政治的共同体を意味する〕ギリシア語のポリティケ・コイノーニアの、ラテン語のソキエタス・キウィリス societas civilisの逐語訳であり、たしかに発音上の違いはあるがこれらの表現と同じ意味の術語である。」(一)そしてこの解釈に対して、「一九世紀初頭に始まる新しい用法では、〈市民社会〉は、中世の封建社会の諸々の政治的支配形式から近代市民階層が解放されることによって生まれた、市民たる私人からなる社会を意味し、彼ら市民たる私人は、自由と平等の原理によって人格としても所有者としても相互に独立し、―初期の市民的自由主義の理論的雛型によれば―人間による人間に対するいかなる支配にも服さないものとされる」(二)というように指摘を加えている。

 つまり、ギリシア語=ラテン語の伝統をひく古い用法では、〈市民〉社会ということで、常に《政治》社会が理解され、その結果、この場合の語義は支配団体としての市民共同体(ポリス・キウィタス)とその公的=政治的組織つまり《共同組織〔=国家〕》(ゲマインヴェーゼン・コイノン、レス・プブリカ)をも含意するのであり、これを定式化すると、市民社会は政治的支配形式つまり《国家》と同意味ないし同義語であり、両術語とも同一の概念を表わしているということになるということである。対して、新しい用法では、〈市民社会〉と〈国家〉とはまさしく相対立するものとされ、そこでは〔市民社会という〕術語の用法は支配・組織形式の欠如ないし否定によって定義されるのである(三)

 リーデルは「〈市民社会〉はいまや市民たる私的所有権者からなる社会、つまり人間による人間に対する政治的支配にかえて、(人格および所有権の自由という原理により)物に対する経済的支配だけがなお承認されるような社会という、脱国家的脱政治的な領域だけを指している」(四)と述べ、政治的な意味での市民社会という観点を先ず提示しているのである。続いて、その術語用法の変遷について、リーデルは次のような論述を加える。

そこから政治哲学にとって、〈市民社会〉という術語のもつ同音異義の問題が生まれる。つまりその用法は多種多様であり、近代世界の社会的関連のなかでますます多義的となってきたのである。同音ないし同一名称が様々に適用され、その意味がもはや時代や状況にかかわらず不変のものとしては通用できない事態が一八世紀から一九世紀への移行期に随所で露呈し始める。(五)

 この説明に続き、リーデルはカール・マルクス『ドイツ・イデオロギー』の序文を引用する。「市民社会という語がでてきたのは一八世紀であって、所有関係がすでに古代的および中世的な共同組織からぬけだしていたときだった。市民社会そのものはブルジョワジーとともに初めて発展する。しかしながら直接に生産と交通とから発展する社会組織は、全ての時代に国家およびその他の観念論的な上部構造の土台を形づくっているが、やはりいつでもこの同じ名称で表わされてきた。」(六) すなわち、マルクスやエンゲルスにおいては、市民社会は自由な所有権者からなる人的結合体という自由主義的モデルによっては考えられてはいないということである。リーデルの指摘によると、マルクスはこの点で初期社会主義の自由主義批判を継承しつつ―物〔=財〕に対する人格の支配が目指されたことと結びついて、政治的、社会的な結果、例えば、物〔=財〕ではなく労働力だけをもつ人間に対する所有権者の支配を指し示しているということであり、この支配によって「市民社会の言語的連関体系はもう一度更新される」としている(七)

 つまり、市民社会は、あらゆる支配を免れ、自由で平等と認められただ市場法則のみに服する人格と所有権者からなる結合体を意味するのでなく、有産階級に従属する無産の《プロレタリア》階級と区別された、《市民》の有産階級つまり、資本と労働の対立に基礎をおく一九世紀の《ブルジョア社会》という意味での市民社会を指す、ということである(八)。これらの点の問題性に対して、リーデルは「概略だけを示した背景からしても、〈市民社会〉という術語と、とくに現代に至るまでのドイツ語の概念伝統のなかでのその適用とに付随する未解決の問題が多々あることは理解されよう。イギリスやフランスのような西ヨーロッパ諸国においては、明らかにこの語の歴史は、ドイツは別として、変化に富んではいない」(九)と述べ、具体的に、「これらの国々では(観念論哲学以前の)古くからの源泉に由来する自由主義による〔社会〕解放運動が政治的に成功をおさめ、理論においても実践においても市民社会と国家とは伝統的に同一視され、それが姿をかえながら繰り返されたからである」とし、「英語の〈シヴィル・ソサイエティ civil society〉やフランス語の〈ソシエテ・シヴィル société civile〉は依然として政治社会と同義語であったのに対して、自由主義の伝統のうすいドイツでは市民社会と国家との対立が一九世紀初頭以来のこの語と概念の歴史を一貫して規定してきた。」(一〇)と示している。これは他の側面でも見られ、例えば、英語のCommunityが様々な意味を総括した一語として使用されている事例を我々に想起させてくれる。

 リーデルが次に行った市民社会という術語についての言語連関系の区分は、市民社会の概念を研究する上で、一つの要綱的な規定となる素地を多分に含んでいるといえよう。

〈市民社会〉という語を、それと関連する同義語や同音異義語との歴史的文献学的緊張の場に置きつつ、その歴史を全体的に概観すると、明らかに次のようないくつかの言語連関系が相互に区別される。(一)ギリシア=ラテン語的連関系。これは古典期ギリシア政治学から、ローマ法と聖書キリスト教を経て、スコラ哲学盛期におけるアリストテレスの再受容と近世初頭の自然法論に及ぶ。(二)市民的=自由主義的連関系。これは一八世紀から一九世紀にかけて自然法論より発展した。(三)社会主義的=革命主義的な連関系。これは自然法論に刺激を受けたが、その後その《自由主義的》で《伝統主義的》な観念世界を見捨てた。(四)市民社会成立以後の市民社会の連関系。これらの連関系には、それぞれに様々な形で構築され構造化された用語法と特殊な理論形式が対応しており、これらは個々の相互に共通する点もあるが、およそ次のように分類される(一一)

第一の系の用語法は古典期ギリシア政治学(アリストテレス)によって、第二の系の用語法は近代自然法論(ホッブス、カント)と合理的で歴史哲学的に基礎づけられた初期の社会理論(社会学)とによって、また最後に第四の言語系の用語法は、ヨーロッパの階級闘争や市民闘争の政治的に〈保守〉派ないしは〈革命〉派の防疫的戦略によって、それぞれ特徴づけられる。これらの用語法と理論はしばしば相互に混淆しているので、それぞれの局面や系を相互に正確に区分することはできない。こうして第一言語系に関係づけられる市民社会のポリスモデルは、なお第二の連関平面、つまり近代自然法論の契約モデルにおいても作用しており、後に第三の局面になって初めてその受け継がれてきた雛型は最終的に解消される。ここにいたって初めて概念のイデオロギー化の問題、つまりその複義性ないし多義性の問題が生まれる。このようなイデオロギー化は正確にはその概念を政治的=自然法論的伝統によって使用するという規準が失われ、そして近代の社会革命運動がその概念を社会の政治的なグループ別けの規準としてのみ使用する可能性を認めた時点に始まる。そうした規準の功能のいかんによっては社会的=歴史的世界にかかわる基本術語についての一般的な了解は、もはや認められないばかりでなく、言語=革命戦略的な理由によって無用とされる(一二)

 ここに多く引用した市民社会に関する区分と解説は、市民社会の概念史の要点を色濃く示唆したものであるといえる。つまり、用語法に基づく歴史的な区分という側面と、各学問体系に従った区分という側面を、並行して理解することが求められている。しかしながら、この区分の基底部は簡潔に説明できない多くの問題が存在している。それはまさにイデオロギーや志向に関する問題である。それぞれの市民社会への認識と用語法が合致したものであるかどうかという判別はできない。また、政治的な市民社会を踏まえて、この用語を使用しようという判断は決して安易なことではなく、一概には説明できない。ただし、区分の順序のように歴史的に古きから新しきへという過程に則して、市民社会の概念の変遷を捉えることは、歴史の進展と概念の変遷という二項の関係性を把握するために有効であろう。その最初期が古典期ギリシア哲学である。

 リーデルは、古典期ギリシア哲学における市民社会の概念について説明することから、市民社会に概念の実質的な史的考察を開始する。すなわち、「〈市民社会〉という語が政治哲学に採用されたのはアリストテレスにさかのぼる。ポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕というアリストテレスの造語に近似したいくつかの表現法はプラトンにみられるが、アリストテレス以前にこの表現が術語として確立されていたことは検証できない。しかしアリストテレスが、日常語において時にポリスを表わすものとしてすでに存在していた表現を採用しそして政治哲学上の専門的用語として学問的に《規準化》したと思われる。」(一三)と述べ、アリストテレスはこの語を彼の『政治学』の冒頭に着目し、「人々の間には様々な共同体〔社会〕の形態があり、そのうちのひとつが真に独立したもので、残りの〔共同体の〕ことごとくを支配している―これがいわゆる《市民》社会すなわち《政治》社会としてのポリスである」(一四)として、アリストテレス『政治学』冒頭から「それこそがポリスと呼ばれているもの、すなわちポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕なのである。」という一節を引用している(一五)。更に、政治哲学とその一八世紀に至るまでのヨーロッパに広範に存続した言語意識にとって、このアリストテレスの解釈は決定的な意味を担ったとしている。

 つまり、アリストテレスは、ギリシアの日常語である〈ポリス〉や〈コイノーニア〉のような語を、ポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕という術語に要約し、これをポリスの歴史的実例に即して説明することによって、ギリシア都市共同体から分離し、ローマ共和国や、近世ヨーロッパの都市や国家世界へと転用された普遍性のある市民社会概念を前もって示したということである(一六)。更に、リーデルは「ポリスの《本質》とは何かを範例的に―《善き》すなわち徳のある幸福な生活という目的のために相互に結合する市民の社会と―説明することによって、アリストテレスの市民社会〔概念〕は、普遍性の点で他にもはや凌駕されることも他の術語によって置き換えることもできない政治学上の概念形成の雛型として通用する」という評価を行っている(一七)。そして、アリストテレスにおける市民社会の概念化に関して、次のような三用法が本質的であるとして、より具体的な解釈を示している。

第一は《家》(オイコス)と《都市》(ポリス)、すなわち、《家》共同体〔社会〕と《市民》社会との区別である。ポリスは、アリストテレスの理解によれば多くの《家》々の連合体であり、《家》々と諸《氏族》、すなわちギリシア自由人の同族結合と家族結合とから組織される。しかしながらかかる組織には、本来的に政治的なものと家政的なものの領域との対立が固着しており、これがポリスとオイコスを相互に分化させる。(一八)

この対立は、アリストテレスが奴隷、居留民、〈市民社会〉という術語を規準化するさいに用いる第二の区別、つまり自由人(《市民》)と非自由人(〈非市民〉、外人など)という身分によるポリス住民の分類から、説明される。市民社会の発生、つまり《前市民的》共同形式からポリスへの移行は、個人の保持と個人の生活上の欲求や必要の充足がすでに確保されていることを前提にしている。かかる個人的欲求の充足は、近代的観念とは異なり、アリストテレスにとっては市民社会ではなく《家》共同体の義務である。家共同体の学としての家政学と政治学―市民社会とその政治的な体制の学としての―とが相互にかかわるのは、市民が同時に家の主人であるかぎりにおいてである。この二重の機能のうちオイコスは、全ての市民に共通のもの、つまりポリスないしポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕という公的なもの(コイノン)から排除された《私的なもの》(イディオン)の領域として、現われる。市民は、《国家》と同視される市民社会の成員として、《家》という私的領域に属するのではなく、逆に、《私的なもの》を支配しつつ、家の主人として労働と経済的生産の領域から解放されているからこそ、市民でありうるのである。(一九)

そこから更にアリストテレスはその概念の専ら政治的な意味を規準化する第三の区別をも見出す。アリストテレスにとって国家経済の《学》なるものはなお存在しなかった。というのも全ての《家政的》な知識は、生活を維持していくうえで必要なものとされるだけで、全体として《偶然的》であり《無価値》だからである。生活に必要な手段を《支配する》ためには、《家政的》な支配だけで十分であり、それには何ら特殊な知識を要しないのである―《政治的》(市民的)な支配への関与はこれとは逆で、市民たるものはこの支配というものを常に《理解》していなければならないとされる。《家政的》な支配が非自由人(奴隷)、未熟自由人(子供)、権利制限的自由人(妻、女子)に拡張され、実力にのみ依拠するのに対して、市民的な支配は自由人による自由人に対する支配であり、この支配は被支配者の合意のみならず、アリストテレスによって市民社会の秩序とされる法をも前提にしている。(二〇)

このリーデルの示した、アリストテレスの概念化に関する三区分は、あくまで政治共同体の内実の説明を客観的に行ったという意味がある。重ねてリーデルの説明を確認するなら、「アリストテレスの術語はその哲学的原理的意味とギリシア都市国家の時代と歴史に拘束された自己理解を越えた規準的意味を獲得する。ポリスとは、ポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕、つまり、実力や圧制にではなく、法の原理にもとづく自由で平等の人士の社会としての、〈政治社会〉のことである。このようにアリストテレスが彼の時代の政治学的な用語を規準化することによって、この術語自体、人間の社会形式と支配形式を規準化する機能を得るのである。つまり、この術語は政治社会を他の全ての社会から区別するのに役立つ。換言するとポリスという形をとって初めて歴史に登場した《社会》、つまり自由な人士としての人間を原理とし、平等の人士としての市民を支配の主体とする《社会》を規定するのに役立つのである」。(二一)アリストテレスは、『政治学』における二個の基本原理として、人間は本性上「政治的動物」であり、ポリティケ・コイノーニア(政治的共同体)としてのポリスは人間社会の発展の目的であり、「規範」であるという理解に結び付けるのである。

 しかしながら、リーデルはこの基本原理に対して批判を加えている。それはつまり、「この点にアリストテレスの概念形成の限界がある」ということであり、「アリストテレスは人間の本性を常にすでに歴史的に解釈しているので、この人間の《本性》と、ポリスという市民社会における人間の社会=歴史的な存在との関係は、説明されないままにとどまっている。まったく不確定的な意味で《本性的》である二つの関係形式、つまり、社会形式と支配形式が(事実上)存在する。すなわち主人・奴隷関係と市民相互間の関係つまり市民社会自体が存在する。こうして結局のところポリスの起源をその二重の本性概念によって規定しようとするアリストテレスの試みもまた挫折している。」という批判である(二二)

 要するに、ポリスの組織は人間社会の現実化として、社会と支配との正と不正の規準であり、ポリスの目的に対応する社会は《正しい》ものとして現象するという前提に立つ場合、自由かつ同等の人士の間の《法》によって形成される市民社会自体に《正しくない》支配関係の基礎を置いていることは、いささか矛盾を孕んでいるのであった。また同時に、リーデルは、アリストテレスはこれらについて問題にしないことに併せて、支配と従属との関係の規準について問うていないと分析している(二三)

ラテン語的概念

 続いて、リーデルが着目するのは「ラテン語的概念伝統」である。市民社会の理論におけるアリストテレスの欠陥は、アリストテレスの理論が大きな影響を与えたヨーロッパの政治哲学の用語の変遷と系譜に向けて難点を付加した点であるとされている。アリストテレスが論じた、貴族が支配する、限定された自由権にもとづく生活形式という概念は、(帝政期以前の)古いローマのキウィタスのみならず中世ヨーロッパの貴族世界や都市世界、更には近世初期の身分制社会を再認識するための試案となった(二四)、だが、この実相について、リーデルは「ヘレニズム時代の新しい大帝国が成立し、ギリシアの都市国家が衰退するとともにアリストテレス的概念が存続するための根拠は、初めて失われたように思われる。伝承の史料を概観するかぎりでは、アリストテレス的概念は実際のところペリパトス学派においてのみ受け継がれ、更に教義編集として伝達されたにすぎない」というように説明している(二五)。そして「一方でストアの世界主義的なエートス、他方でエピキュロス派や懐疑派の哲学の隠遁的なエートス、そして最後にキリスト教の勃興、これらが古代末期においてアリストテレスによって規準化された適用可能性を越える概念の発展をもたらす」(二六)という点を指摘し、その具体的な概念史に触手を伸ばそうとしている。

 特に、アリストテレスとの違いという点で、リーデルが重視したのは、「正しくない」支配関係の排除に向けた働きかけであった。すなわち、それは、「古典期ギリシア哲学が宇宙の秩序をポリスに投影するのに対して、ヘレニズム思想は宇宙自体を、神と人間に共通で《自然》からなる法ないし法則(共通法則あるいは自然法則)によって規制される《ひとつの》ポリスへと高める」ということであり、リーデルは「ストアのこの《自然法》は、《本性上》ポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕としてポリスに統合される自由で同等な人士たちの《法》から区別される。自然概念はアリストテレスにおいては主人の奴隷に対する支配を市民社会の支配秩序とともに正当化するものであったのに対して、ストアにおいてはいまや逆に主人と奴隷、市民と外人、ギリシア人と蛮人との区別を排棄するのに役立つのである」という解釈を与えている(二七)

更にリーデルは、説明を加え、「ストア派は人間を政治的動物としてでなく、《社会的》動物と呼び、エピキュロス派は共同組織(コイノン)にかかわる法を、諸個人間の詳しく特定化されていない相互的《社会》の前提として解釈した。このことはローマ法の用語のなかで受け継がれ、ローマ法はこの用語法をさまざまな形で受容した。古典期ギリシアのポリス理論が市民社会の雛型によって組織されない種族、民族、大帝国をその概念から排除するのにたいし、ローマ人にあっては《外人》のための法は万民法(iusgentium)上の制度を形成する。この点で、ストア的な世界皆市民の理念は、ローマ帝国に包括される諸国民と諸民族の連合〔の理念〕へと展開され、潜在的には、奴隷でなく自由人であるかぎり《全ての人間》にまで拡張される」(二八)というストア派に見られる新たな考え方を提示し、その意義を認めている。そして、「ローマ市民であると外人であるとを問わず(sive sives Romanos, sive peregrinos)。」という文言を引用して、ストア派ならびにエピキュロス派からローマ時代への水脈を説明している(二九)

 その後、これらヘレニズム思想の素地の上に、キリスト教が来訪したことによる変化が見られたことに着目し、リーデルはこのことをアリストテレスとの比較という意味で重視し、次のように指摘している。

  新約聖書の福音が政治的なものの領域にもたらした決定的な変化は、おそらく異教的な都市的世界全体にとって特徴的な市民と文化の共同態の統一性を解体した点に求められるべきであろう。アリストテレスにおいてはなおポリティケ・コイノーニア〔政治的共同体〕の概念に属する、供犠と祭儀の共同、《都市守護神》の崇拝は、たしかにすでに以前に失われているが、キリスト教の普及とキリスト教の《教会》への組織化によって初めてポリスないしキウィタスと教会とが相互に対立するようになる。アウグスティヌスが古代末に神の国 civitas Deiおよびこれと地上の国 civitas terrenaとの対立という歴史神学として総括した、人間の二重市民権の理念も、先述の内容と関連している。この理念は紀元一世紀の百年間を通じて古典的政治学とそれにもとづく言語連関系をほぼ完全に忘却させた。(三〇)

  アウグスティヌスにおいては〈市民社会〉(そのラテン語化されたかたち〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉という術語は、わずかに一箇所だけに見いだされるにすぎない。そこではキリスト教以前の古代における市民と祭祀の共同態という先に挙げた連関を主題にしている。このことと呼応して、新約聖書で用いられる古代政治学的な術語の大多数はもはやこれらに本来的にそなわっていた意味ではなく、寓意的=神秘的意味をもつようになった。そこではおそらく、すでにヘレニズム期のストア学派哲学に始まったその空洞化の過程が極めて顕著であり、この過程は初期キリスト教の教父文献において存続する。しかしながらこれに対する反対運動は、すでに四世紀から五世紀にかけて、ラクタンティウス、アンプロシウス、そしていうまでもなくアウグスティヌスに始まる。(三一)

 

 キリスト教の来訪からアウグスティヌスまでの時期は、まさにキリスト教の組織化の起点をなしているため、キリスト教の「市民社会」への関心は薄く、上記に見られるように、神の国 civitas Deiという理念は、逆に祭祀的な共同態へと連結するものであるといえる。つまり、信仰における共同体の実践に向けたキリスト教的解釈が市民社会に関する議論より先んじていたと考えられる。そして、このことへの着目は、次章のエーレンベルクの論考へと結び付くものである。

リーデルは、「古代末期に再び〈公的〔存在〕〉になった教会の地位は、キリスト教的教義伝統がそれまで以上に強力に伝承の政治的観念世界とその言語的な基本形象とに結びつくという結果を生んだ。そのことが初期キリスト教における政治的な概念の脱世俗化と宗教的な新しい解釈を許容するかぎりにおいて、教会の指導者たちは、コイノーニア〔共同体〕論の古代的基礎を更新したのであって、このことから我々は、新約聖書の福音も古典=政治学的伝統をひく《市民社会》の理解を究極において打破することができなかったと判断できる」(三二)として、それらの難点を指摘している。

ラテン語への翻訳

 〈市民社会〉概念のヨーロッパ的な教養言語は、キケロ以来ポリティケ・コイノーニア〈市民社会〉のラテン語形の表現が存在するものの、このラテン語形が広くゲルマン・ロマンス語系民族の言語世界と概念世界に普及するのは、一三世紀から一四世紀にかけての、アリストテレスの『政治学』と『ニコマコス倫理学』の翻訳と、これに続くスコラ学派によるこれらの著作の註釈によるものが大きいとされている(三三)。リーデルはその市民社会の語形を仔細に取り上げている。この概念と術語・用語の双方を踏まえた諸解釈とその系譜を明確に記した論考は存在しないと思われる。まさにリーデルは綿密なまでの発掘作業を行ったのであった。その発掘によって得られた多くの知識と情報を次に引用し示したい。

キケロにあっては〔ポリティケ・コイノーニアという〕その語は〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉とも〈コムニタス・キウィリス communitas civilis〉とも訳された。ギリシア語からラテン語への翻訳という事実に目を向けると、コイノーニアが〈ソキエタス societas〉とも〈コムニタス communitas〉、〈コムニカティオ communicatio〉、〈コイトゥス communio〉とも訳しうることが注目される。中世において、アリストテレスの『政治学』を初めて翻訳したヴィルヘルム・フォン・メルベケは、一貫して〈コムニタス・キウィリス communitas civilis〉ないし〈コムニカティオ・キウィリス communicatio civilis〉〔という訳語〕を用いている。」(三四)

 

アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスの註釈は、ヴィルヘルム・フォン・メルベケのラテン語版をもとにしているので、彼らの註釈においてこれらの概念が好んで用いられていることは当然のことであろう。トマスはこれらの概念と並んで、〈ソキエタス・ポリティカ societas politica〉、〈ソキエタス・プブリカ societas publica〉のほかに、時には〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉という表現を用いている。これらの表現は最初キケロによってギリシア語の訳語として採用されたものであるが、一五世紀から一六世紀の人文主義者たちの翻訳により普及したと思われる。ここで先導の役を果たしたのは、レオナルド・ブルニィによるアリストテレス『政治学』のよく読まれたラテン語版(一四三八年)であり、ブルニィはメルベケの表現を「不合理で」かつ粗雑であると考えている。(三五)

 

一七世紀になると、〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉、〈シヴィル・ソサイエティ civil society〉、〈ソシエテ・シヴィル société civile〉、〈ソチエタ・チヴィレ società civile〉という語がアリストテレス主義者のみならず反アリストテレス主義者の間でも同様に広まり、その結果新しい訳語がそれとともに併存している訳語を〈古い〉ものとして次第に排除していく。(三六)

 

このような訳語の問題に関する一方で〈キウィリス civilis〉と〈ポリティクス politicus〉、他方で〈ソキエタス societas〉と〈コムニタス communitas〉という同義語が二重に用いられていることが我々にとって重要である。これに続いてポリスとポリティケ・コイノーニアとを同一視するアリストテレスの同一性の定式が第三の概念契機として書き継がれる。こうして一四世紀初頭ヤコプ・フォン・ヴィテルボは〈コムニタテス communitatescommunitas〕〉すなわち〈ソキエタテス societatessocietas〕〉の秩序は、人間の本性の傾性そのものによって展開される―。(三七)

 

〈キウィリス civilis〉と〈ポリティクス politicus〉との同義関係はこの〔コムニタスとソキエタスとの〕同一視に対応しており、この同義関係があの同一性の定式を示していることはすでにアルベルトゥス・マグヌスにある。アリストテレス『政治学』註解において、「人間にとって自然であるところのもののうち、キウィタス civitasとはコムニカティオ・キウィリス communicatio civilisすなわちコムニカティオ・ポリティカ communicatio politicaである」といわれている。(三八)

  

〈キウィリス civilis〉と〈ポリティクス politicus〉の同義性は、ギリシア語術語のラテン語への受容にさかのぼる。キケロは初めて「適切にも市民に関するcivilis―ギリシア語では政治に関するpolitikosと呼ばれる哲学上の論点」について語った。〈キウィリス civilis〉はローマ人にとっても、〈市民 civis〉つまりローマ国家 civitas Romanaの成員としての市民にかかわるものであり、市民に関する哲学 philosophia civilisとはしたがってギリシア古典哲学の構成部分としての政治学である。訳語上のこのような言語的事実は、〈市民社会〉の古い概念理解に組み込まれているはずである。(三九)

近世におけるこの概念の歴史を一瞥するならば、一八世紀末葉に明瞭になる《国家》(キウィタス、レス・プブリカ)と《社会》(ソキエタス、ソキエタス・キウィリス、ポプルス)の近代的な峻別だけでなく、少しのちに要請された《利益社会 ゲゼルシャフト societas》と《共同社会 ゲマインシャフト communitas》ないし《協同社会 ゲノッセンシャフト》との区別もその当時の概念理解には知られていなかったといえる。(四〇)

 これら引用した部分に含む多くの要点を踏まえると、今日的な用語の源泉は何かという問いへの解答を与えてくれる。用語の源流はアリストテレス『政治学』に見出されるが、〈ソキエタス・キウィリス societas civilis〉、〈シヴィル・ソサイエティ civil society〉、〈ソシエテ・シヴィル société civile〉、〈ソチエタ・チヴィレ società civile〉に示される「市民社会」の用語が各言語に共通して示された傾向は重視すべきことであろう。そしてこの傾向による統一化によって、政治学分野における市民社会の概念化が進展した系譜が自明なものになるのである。

 リーデルは上述の概念史の様相に加えて、一三世紀から一四世紀にかけてのスコラ哲学において行なわれたアリストテレスの術語の受容という状況について解説を行っている。すなわち、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスとは、アリストテレスによって形成された概念を、一方で聖書キリスト教教義と、他方で中世の都市生活の法的=政治的要素とを連結させたという分析であった(四一)。 

つまり、「人間の法がそれへと秩序づけられている共同体と神の法が秩序づけられている共同体とでは、それらのあり方が異なる。けだし人間の法は人々の和互の結びつきである政治的共同体communitas civilisへと秩序づけられている。―しかるに、神の法がそれへと秩序づけられているのは、現世の生においてであろうと、来世の生においてであろうと、神との関係における人々の共同体である」。(四二)という引用を行い、リーデルは《世俗的に》理解された政治的共同体(コムニタス・キウィリス communitas civilis)と、全ての人的規約を超越する超世俗的な神における共同体(コムニタス・ディウィナ communitas divina)との二極に着目し、トマスにあってはこれが更に現世と来世における形態が区別されるという説明を行っている。加えて、「古典的な市民共同体は、キリスト教を通じてその歴史的な状況との連関を失ったにもかかわらず、トマスにおいては神の信仰に生きる人々の国(神の国 civitas Dei、神のもとの国家 res publica sub Deo)への体系的な結節点として再現する」として、また、「たしかに(可視的教会 ecelesia visibilisと不可視的教会 e. invisibilisとして)その超越性はアリストテレスの市民共同体より高いところにあるが、しかしその歴史的内在性を破壊することはなかった」として捉えているのである(四三)

上述に加え、アリストテレスの市民共同体は、下に向かっては《家》共同体から区別され、上に向かってはアウグスティヌスの『神の国』に対応して《神の》共同体から区別されるとしている。すなわち、トマス・アクィナスはアリストテレス政治学の格言的註解において、アリストテレスのコイノーニアの形態を、《様々な共同体》diversas communicationesとして扱っているが、そこでは《自然的》共同体や《家》共同体が政治的共同体 communicatio politicaに先行し、それ自体は教会に体現される《神の》共同体によって超越されるということである(四四)。そして、リーデルは「実際、ある共同体は自然的なものであり、ある人々が自然的な由来で共同し、また、この共同体においては父と子と他の血縁者の友誼が形成される。ところである共同体は経済的なものであり、これによると人々が家内的な義務について相互に共同する。またある共同体は政治的なものであり、これによると人々は自分たちが同国民であるために共同する。第四の共同体は神的なものであり、これによると全ての人々が教会という唯一の団体において、あるいは顕現的にあるいは潜在的に共同する。」(四五)という指摘をここに付加している。続いて、リーデルは、「アリストテレス的概念の規準を越え、トマスがこの連関で先取りしているもうひとつの区別」を「すなわち永続的なことと一時的なこと(in perpetuum et temporale)という契機による人間の社会的生活の区別」であるとして、「トマスは《永続的社会 societas perpetua》として、市民社会を人間の生涯の全時間に(ad totum tempus vitae hominis)関係づける。これは彼にとっては《都市》での《居住》(mansio civitatis)」であるとして明確に位置づけることでトマスへの評価を提示しているのである(四六)

 つまり、都市における倫理的=政治的な生活形態は、目的論的=自然的に、人間存在の完成に属するとみなされるのではなく、市民的存在の有限性や神的存在に対するその無縁性を包含しているという理解である(四七)。アリストテレスにおける『政治学』のポリス理念はアウグスティヌスにおける神の国と地上の国の対置によって相対化され、その意味での《市民社会》は、時間とは無関係な古代都市のあり方をキリスト教的中世的都市住民という時間的存在に限定したところで現出せられていると捉えられる。その理解に基づいて、リーデルは「《公的社会すなわち永続的社会 societas publica sive perpetua》は、政治社会 societas politicaの概念で捉えられている。」と考察している(四八)

 また、近世自然法論に関連して、市民社会のスコラ学派的概念は、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスによって再構成された形で、一八世紀に至るまで通用し続けたとされている(四九)。このスコラ学派的概念が長期的に通用したことに関して、リーデルは「アリストテレス=スコラ哲学の用法は、歴史哲学ないし社会理論によってその術語を相対化することをしないのである。この点で、政治哲学はアリストテレスにおいて基礎づけられた形で、なお数百年にわたって、自然と人間の歴史が原理的に不変と考えられる市民社会の地平において統一をなす社会的=歴史的世界の理論であり続ける」として当時の状況を再認識しているのであった(五〇)

宗教改革

 歴史的経過を踏まえる上で、リーデルは続いて宗教改革に着目する。その前提として、「宗教改革者たちはスコラ的アリストテレス主義に対する批判を行なっているにもかかわらず、社会構造とその術語の不変性という特質は、彼らによっても問われていない。むしろその特質はアリストテレス主義と容易に一致される若干の基本的観念によっていっそう助長された。このことはとくにルターとメランヒトンの三身分に関する教説と、社会、法、支配との関連におけるその規準化的機能にあてはまる」(五一)と述べ、「〈法〉は、ルターの場合、極めて一般的に《世俗的統治》、〈政府〉、ラントと都市における支配を意味し、《官憲》という政治的身分 status politicusにある人間の、臣民に対する統治として理解される。一般に人間の起源は、《家》、家政、つまり《家〔支配〕権》によって整序された親、子、使用人間の支配関係にある。そしてこのふたつの《世俗的》統治に対して、《精神的》統治、つまり教会ないしエクレシアが上位を占める」というように、ルターの政治に関しての解釈をそこに提示している(五二)。続いて、キリスト教において重要視される教会についてのルターの解釈を取り上げ、ルターの捉える教会とは、家から〈人々〉を、都市すなわち〈政府〉から庇護を得るものであると示している。そして、リーデルは、「したがって詩篇一二七で地上のただふたつの肉体的〔=世俗的〕統治は町と家であるとして次のように言われている。《主が家を建てられるのでなければ》ないし《主が町を守られるのでなければ》。第一は世帯であり、そこから人々がやって来る。第二は町の統治であり、これはラントであり、民衆、諸侯、主人である。それは一切のもの、子供、財産、貨幣、動物などを与えてくれる。次いで、第三のものは神ご自身の家と町である。それは教会であり、家からは人々を得、町からは庇護を得なければならない。」という詩篇に含まれる寓意性の提示を行っている(五三)。これは史的な資料を見通す上で、極めて有用であるように思われる。

 併せて、ルターが、全ての世俗的秩序、つまり、家的秩序、政治的秩序、教会的秩序の《初め》を創世記の記事から捉え、それらは神によって直接に定められたと定義したことに言及している。すなわち、ルターの三身分論には、「アリストテレス的なコイノーニア〔共同体〕論のみならずスコラ的な人間完成perfectio思想も欠如しており、その結果、ルターによってこの講義で使われている市民社会概念は、たしかに市民としての人間のありかたを意図しているが、人間存在の《自然的な》完全性に属するものとしてではなく、神の意志によって定められ造られたものである」(五四)というような特質を見出すことができるのである。加えて、ルターが行った「全ての支配において神の秩序と意志とが配慮されるべきことは先に述べた。我々はこの同じ教説によって、単一の理由から神がこの世にそうした仮面や役割すなわち市民社会の地位や秩序のあることを欲せられたということをふさわしいところで説明され、勧められる。」との言及を用い、この神の秩序の問題を我々に提起させているともいえる(五五)

 なお、リーデルは、これらのルターの解釈に関して「初期の著作において最も明確に定式化された、霊の国と世俗の国という宗教改革的な二王国論がその背景にある。それゆえ学問的用語法から受容された市民社会の概念には、政治的な隠喩という性格があり、この隠喩によって、ルターは、道徳哲学的ないしは自然法的にではなく、肉体的=身体的すなわち歴史神学的に把握された人間の《世俗的》存在を書き直す」と指摘している(五六)

 メランヒトンの市民社会概念は、道徳哲学的基礎と伝統的=政治学的な価値を回復することを基礎にしているとされており、メランヒトンのアリストテレス『政治学』註解において行った政治学と倫理学との伝統的な峻別からも窺うことができる。すなわち、それは「倫理学が《私的な》慣習を論じているのに対して(sicut Ethica de natura ducit)、政治学の対象は、市民社会、社会成員の諸義務、この社会の自然的な発生原因である( ita politica disputant de societate civili, et officiis ad societatem pertinentibus, et causas societatis ex natura ducit)。」という区別として見出せるものである(五七)。加えて、メランヒトンは『ニコマコス倫理学』註解において、独自の《道徳哲学》Philosophia moralisについて論じている。

 これへの着目と解釈として、リーデルは「アリストテレスやキケロへの様々な回帰が組み込まれ、社会概念の自然法的な基礎づけへの着手が認められる「有力な原因〔作動因〕は社会を営もうとする人間本性(自然)の傾向ないしは判断であるが、こうした傾向は神学的な傾向(「神は社会があることを欲したまう」 vult Deus esse consociationem)とは真っ向から対立する」ものであると指摘する(五八)。つまり、「自然法(lex naturae)と人間理性(ratio)にもとづく、アリストテレス=スコラ哲学的な論証に対して、メランヒトンは『神学上の立場 Locis theologicis』において神が市民社会の真の原因者であることを説明する」という傾向を捉えたのである(五九)、それは、メランヒトンが「たとえこの見解が真実であるとしても、市民社会 societas civilisないし帝国imperium〔すなわち国家〕の原因について未だ十分に説明していない。というのは、たんに人間の熟慮や実行力だけではけっしてすぐれた法律や市民社会が維持されえないからである。それゆえ我々は、神の命令によってこの秩序が設立され認可されたものであり、また実際神によって支えられているのを知るのである。」との指摘が、まさに典型的な言及として示されているということである(六〇)

 リーデルは加えて、次のメランヒトンの解釈を提示している。「モーゼの律法の全てがこの〔神の〕命令についての明確な証しであり、たとえそれがひとつの民族に提示されたものであるとしても、この政治的生活についての神の意志の証しである。他方道徳律 Lex moralisは、適切に理解されると、それ自体まさしく市民社会 societas civilisの秩序ordoである。」(六一)すなわちここで捉えるべきは、メランヒトンや古いプロテスタント的倫理学においては、モーゼの十戒の第二表が政治的生活内部での掟や生活形式と関係づけられるのに対し、第一表は教会という精神的領域に関連するという点である。リーデルは続いて、宗教改革の流れを参照した上で、次のように述べている。「カルヴァン、ツヴィングリ、ブツェルにも同様に、霊的《秩序》と世俗的《秩序》(教会的秩序 ordo ecclesiasticus ―市民的すなわち政治的秩序 ordo civilis sive politicus)という峻別が認められるが、メランヒトンは一六世紀の人文主義的教養をそなえていたので、他の宗教改革者に比して古代の哲学的道徳理論つまり倫理学と政治学により大きな比重を置こうとするかぎりにおいて、彼らの峻別を越えている。」(六二)。 

そして、神学的基礎はメランヒトンにおいては政治的秩序の道徳哲学的正当化を含むものであり、この正当化は倫理的な政治的序列と世俗的地位を基礎づけるものとして捉えられたということである。これによって、市民社会概念は初めてこの地位を獲得したということが明確になるのである(六三)

近世の哲学と政治学

 市民社会という術語におけるアリストテレス的な概念の特質は、近世の政治学や哲学の諸傾向においても識別することができる。フランシス・ベーコンは「新オルガノン」を示し、アリストテレスの論理学と政治学の再構築を試みた上で、それらを未知の取引(de conversatione)と業務(de negotis)の教説に基づいた補足を行っている。しかしながら、その主題は「市民社会」であり、人々はこれらの教説において扱われている《善》を市民社会に負うのであると理解できよう(六四)。リーデルはベーコンの「善とは人々が市民社会 societas civilisから自らのために獲得しようとするものである」といった市民社会概念の前提要件に含まれる政治学についての理解を次のように示している。

  狭義の政治学を補足しうるであろうとされる諸学問のなかに、ベーコンはこれらの教説のほかに更に「国境拡張論(de proferendis finibus imperii)」と一般的正義論すなわち法の源泉論(de iustitia universali sive de fontibus iuris」を挙げる。前者の学科の導入は、マキアヴェッリと彼の一派以来《国家理性》(ragione di stato)という題目と結びついた特殊近代的な政治学概念―政治的権力獲得の技術、絶対主義的国家の《力》の保持、上昇、拡張―と関係している。この政治学概念に、ベーコンは《力》ではなく《法〔律〕》を規準とする正義諭を対置する。(六五)

ベーコンにあっては「市民社会societas civilisでは法律 lexか力visかいずれかが有効である」、といわれる。力と法律との支配ということによって市民社会を定義しようとする古典的な概念の理論とこの命題は真っ向から対立する。法律が市民社会の理論と統一をなすのは、市民社会自体が《自然的(スコラ的な見解では、神的)》な掟ないし法によって正当化され、この掟ないし法を維持するために支配者と民衆は彼らの行動において責任を負うとされるかぎりにおいてである。(六六)

 これらに見るベーコンの解釈から見えるのは、市民社会を定義付けるものとしての法と力を重視しているものであり、旧来の考えから脱却させるという意識が含まれているということであった。ただし、市民社会の法学的解釈にあたり、法哲学の実質的な探究が繰り広げられていなかったこともあり、法学と市民社会に関しての議論が不明確であったということは一つの難点であるといえる。

 ベーコンに含まれる政治学領域から視線という意味で、同様の立場であるのがマキアヴェッリ、ボダン、ホッブスであった。リーデルは、マキアヴェッリ、ボダンの政治学を通した市民社会への関心を次のように捉えている。すなわち、それは、「マキアヴェッリが〈市民社会〉という術語にかえて、あまり明確に定義されているといえない〈市民的生活〉(vivere civile, politico)という表現を用いたのに対して、ボダンは先の術語に固執する。ボダンは、市民社会(civitas, societas civilis)が最高権力(至上権 summa potestas、大権 maiestasあるいは主権 puissance souveraine)という徴標によって初めて政治的組織形式(res publica, république)を維持するという前提から出発する」(六七)としている。

そして、「このカテゴリーが近世政治哲学へ導入されることによって、市民社会と政治的支配権力の関係が根本的に変更される。支配する者と支配される者の《市民》としての同等性の理念に依拠するあの市民社会に代わって、《主権》から生じる《統治》の有効性がその概念理解の中心を占めるようになる。《統治》はいまやしだいに《国家》の領域に独立し始める。《主権》という術語によって、職業身分団体、法人、自治体が法学的にも政治学的にも排除され、《国家》はもはや市民社会ではなく、《統治》社会を形成し、この社会は先の狭義における《市民》社会から術語的に区別される」というようにリーデルは概説し、更に、家族は自然共同体であり、職業身分組合は市民共同体であり、《国家》は、主権によって統治された共同体であるという利点を含むということを加えている(六八)

 ボダンにとっては、《市民》社会と《統治》社会の区別が《国家》と《社会》の区別において維持されていない。この点について、ボダンは伝統的政治哲学の用語を重視しているのである。リーデルは、「ボダンはその後も彼の政治学上の代表著作のラテン語版において相変わらず《共同組織》として理解される《国家》について、国家 res publicaは職業身分組合や団体がなくても自立しうるが、家族なしには自立できない市民社会 societas civilisである」と引用を用いながらの分析を行っている(六九)

 対して、リーデルはホッブスの行った「市民共同体」についての解釈について論じている。つまり、「ホッブスは、《国家》に集中される《主権的》支配権力がなお、市民社会の領域において、直接的に政治的関係に立つという多かれ少なかれ伝統的な前提と挟を分かった。そのさいホッブスもまた、初めは新しい主権理論の射程について未だより正確な観念を持ち合わせていなかった。それゆえに、ホッブスが彼の政治学に関する最初の著作『法の原理 Elements of Law』(一六四〇年)において、国家〔=市民共同体〕すなわち市民社会〔=政治的共同体〕societas civilisとする伝統的な解釈を、彼の先駆者から受け継いでいる。そこでは〈市民社会〉は、その当時の日常語と教養語に周知の術語として使われている。その古典的政治哲学からの出自は、なおいかなる問題をも形成することなく、ホッブスによって愛好された契約的構成と難なく同定されうる」と示している(七〇)

そして、「このように形成されたこの結合体 unionは、我々が今日政治体 Body Politicあるいは市民社会 civil societyと呼ぶものである。そしてギリシア人たちはこれをポリスすなわち都市国家と呼ぶが、ポリスとは共通の権力によって、彼らの共通の平和、防衛および利益のためにひとつの人格として統合された多数の人々であると定義されてよい」(七一)という指摘のように、ホッブスは国家共同体の主体としての《人間の集団》という点に着目しているのである。加えて、リーデルは次のような考察を続ける。

契約的構成のモデルは『市民論 De cive』(一六四二年)では、ホッブスが合意の理念自体を擬制的に把握することによって徹底的に覆される。国家 civitasはひとつの共通の強制権力によって、ひとつの人格へと統合される《人間の集団》ではなく、その人格が最高権力(summum imperium, summa potestas)の保持者としてその統合そのものを代表する。「ところで、かく形成された統合体 unioは、国家 civitasすなわち市民社会〔=政治的共同体〕 societas civilisとも、市民的〔=政治的〕人格 persona civilisとさえも呼ばれる。」(七二)

市民社会 societas civilisは、それがそれ自身において何らの統一性をもたないがゆえに、市民的〔政治的〕persona civilisなのである。個別意志に関する自然法自体のために、契約的構成という前提によれば、全員の意思は、市民社会によって体現された意思の統一性から区別される。それゆえ、ここでこの統一性を強制する最高の権力が必要とならざるをえない。この権力は国家 civitasの統一性を表わす擬制的な人格に現実性を付与するが、この現実性はそれまでは、ボダンによってやはり前提されている、自由な家長たちによる支配的=コーポラティヴな統合という意味での市民社会 societas civilisを保証していたものである。ホッブスが『リヴァイアサン』において、結局のところ市民社会 societas civilisの概念を国家 civitasの定義からのみ導いているのは、こうした出発点の帰結でしかない。(七三)

 他方、ボダンによってはなお本質的に支配者主権として捉えられた主権は、いまや《国家》主権へ、また《市民的〔=政治的〕人格》は《国家的人格》へと展開しているということである。すなわち、「国家〔=市民共同体〕 civitasとは何らかの市民でもなければ、全市民の集まりでもない」というホッブスの言説がそこに含まれるのである。リーデルによると、最高権力なくして国家は空虚な言葉にすぎないのは勿論であるが、最高権力の保持者に対して、市民は原理的に臣民として、これに対立するという構図がそこに見られるのである(七四)。つまり、「ホッブスにとって、市民とか自分自身の主人である人(自権者 sui iuris)とかの観念は、《市民》社会においてひとつの頂点に達する諸《社会》の自然的発展段階と同様に、もはや何らの意味をも持ち合わせない」(七五)ということである。

更にリーデルの説明を加えると、ホッブスによれば、名誉 honorと功用 utilitasを得るために、人間は集まり互恵的な社会を享受する(societate mutuagaudent)のであり、人間はまず功用を求め、第二にその結果としての名誉を求めるということである。なお、この箇所に引用される商事会社の例は全ての団体に妥当するとされ、各人が尊重するものは仲間ではなく、自己の業務に力点が置かれるということである。換言するならば、それは「自然によって自己保存のための本源的加第一次的な権利が与えられる個人は、もはや個人を意のままにし、個人の行為の手段や行為そのものを、所定の目的に従って処理した全体の一部分ではなく、全体から解放されている。そのかぎりで、ホッブスの自然法は市民的解放の原理、個人の優越性を定式化している。個人は自身の自然的な目的を追求することを通じて初めて《社会》を形成するものとされる」(七六)ということであり、社会の形成過程についての思考の余地を広げていることが分かる。

自然法論からの提起

 自然法論の中心には、国家〔=市民共同体〕 civitasと市民社会〔=政治的共同体〕societas civilisとの伝統的=政治学的な同一性の定式がある中で、主権論が解体する構図が見られる。この解体過程における限界は、ホッブスによって示されたのである。ホッブスは一七世紀における学派哲学の伝統に対する批判家であるが、すなわち国家 civitasを、何らかの社会や共同関係という観点を越え、大きく継続的な諸社会から、また自然的状態 status naturalisにおいても可能な一切の社会的状態から完全に区別することが、ホッブスの場合も欠如していることは注目に値するのであろう(七七)

 リーデルはこれらの基礎的な状況を踏まえて、「古典的政治学とは対照的に個々人という存在から出発する自然法論は、アリストテレスの伝統をひく市民社会 societas civilisを、固有の問題にする。一七世紀の自然法論の諸体系では個別者、個人が社会的全体に先立つ。ここでは市民社会は本源的な(《自然的》な)存在ではなく、派生的存在である。先なるものではなく、後のものであり、個々の個人において始まる過程の結果である。近世自然法論の核心である、人間の自然状態の教説は、古典的概念理論の自然的地平との断絶を示す」(七八)としている。

加えて、リーデルはホッブスが、「市民社会 societas civilis 外部での人間の身分について」という題目を使用したことに関連し、「古典的政治学上の類概念を、それに固有の無歴史性から引き出す決定的な基本命題、つまり事物と人間の自然は市民社会 societas civilisへの統合を可能にする原理ではないという基本命題を定式化している」と指摘し、「古典的な政治学の伝統のもとでは統一をなしている人間の自然と歴史とは、いまや相互に分解する。市民的〔=政治的〕 status civilisは、本能か理性的衡量(正しき理性 recta ratio)かのいずれによってもたらされるにせよ、自然の《状態》がこれを放棄することを必要とする条件を生じさせるかぎりにおいて、自然の諸条件のもとにあるにすぎない」(七九)というホッブス解釈を提示している。続いてロックに関してリーデルは「ロックにおいては、―自然の規定は人間によって我が物とされることにあるのだから、市民社会 civil societyの根拠は、労働に侵されない事物の自然ではなく、所有権である」と分析し(八〇)、ホッブスを土台とした「自然法」についての議論の経緯を示した後、自然法論が提示する市民社会概念の多様な類型について次のように紹介している。

正統哲学の自然法論においては、個人の自然的目的(衝動、欲求など)を全体の人倫的目的と一致させる自然法(lex naturalis)の目的論によって、国家〔=市民共同体〕 civitasと市民社会 societas civilisとの同一性が正当化されているが、個人の存在から始めることはこの同一性を解体させることになる、しかしながら伝統とのこの断絶は必ずしも市民社会 societas civilis概念の枠組みからの離反を意味しない。自然法的諸原理において自然法論を差異化することは、市民社会と政治的体制との関係を規定する結論部においては維持されていない。というのも、自然法論は一七世紀の正統哲学とともに古典的政治学の〔国家と市民社会の〕同一性の定式に固執しているからである。〈市民社会〉の意味は伝統政治学上のものであり〈国家〉との同一性にあるとされる。〈キウィタス〉 civitas、〈ソキエタス〉 societasないし〈ソキエタス・キウィリス〉societas civilis、〈ポプルス〉populus、〈レス・プブリカ〉 res pubulicaといった言葉は、その表現上相互に言い換えが可能である。(八一)

後期スコラ哲学者フランシスコ・スアレスにあっては次のようにいわれる。「人間の共同体 communitasすなわち社会 societasはふたつに区別されるべきである。ひとつは家内的すなわち家族共同体と呼ばれるものであり、もう一つは市民的 civilisすなわち市民 populusの共同体もしくは国家 civitasの連合体と呼ばれるものである。」このような表現は一六世紀から一七世紀にかけて繰り返し見られ、しかも正統哲学の内においても外においても見られる。このような例として、メランヒトン(「市民社会すなわち帝国 societascivilis seu imperium)、コウァルウィアス(「国家すなわち市民社会 civitas id est civilis societas」)、H・コーンリング(「国家すなわち市民社会 civitas sive civilis societas」)、フランシス・ベーコン(「国家すなわち社会 civitas sive societas」)、フーゴー・グロティウス(「国家または市民すなわち連合 civitas ac populus sive coetus」)、スピノザ(「国家すなわち社会 civitas sive societas」)を挙げることができる。(八二)

メランヒトンはそのアリストテレス『政治学』の註釈において次のようにいう。「国家 civitasとは法によって組織された市民社会 societas civilisであり、相互の利益とりわけその保全を目的とする。市民とはその社会にあって統治権あるいは裁判権に服しうる者のことである。」スピノザも同様に次のように定義する。「ところで社会 societasは法律と自己保存の能力とによって確保されたとき、国家 civitasと呼ばれ、そしてその法によって保護される者は市民と呼ばれる。」最後にこのような関連で、更にロックの『市民政府論 Second Treatise of Civil Government』(一六八九年)とカントの『法論の形而上学的基礎づけ Metaphysische Anfangsgründe der Rechtslehre』(一七九七年)が挙げられよう。ロックはその著の第七章を《政治社会すなわち市民社会について》 Of Political or Civil Societyと題しており、カントはその法論の第四五節において《国家》と《市民社会》との関係を《国家すなわち市民社会》civitas sive societas civilisという同一性の定式によって説明している。(八三)

 すなわちリーデルは、カントまでの市民社会の概念形式において、個別意思と一般意思の間の差異化が十分には具体化しなかったことによって、自然法論はこの定式の前提と根拠との説明が不明確であるとしており、(八四)他方、「自然法的契約説が差異の表現であるというのは、契約がばらばらの個人に適合した組織形式であるからであり、差異の克服への手段であるというのは、契約によって社会が再び政治的にすなわち《市民社会》として構成されるからである」という説明を加えるが(八五)、自然法と契約の問題に関しても、市民社会への確固とした概念を提起することはできなかったことを示している。

 しかしながら、自然法論的な《市民社会 societas civilis》の概念は、一七世紀末から一八世紀にかけて、ドイツ語圏において〈市民共同体〉または〈市民社会〉という語で翻訳されるようになり、このうち〈市民社会〉という語が一般的に支配的となったとされている。すなわち、リーデルによると、「一八世紀における〔市民社会概念の〕流布は、ラテン語からの逐語訳に由来するのであって、イギリス(シヴィル・ソサイエティ civil society)やフランス(ソシエテ・シヴィル société civile)という啓蒙主義の影響のもとに、ドイツ語圏に浸透したわけではない。一七世紀では、これに先立つラテン語的な表現形式は、〈ツィヴィル・ソツィエテート Civil societät〉や〈ツィヴィル・ゲマインデ Civil Gemeinde〉であり、これらのほかには、〈ビュルガーリヒェ・ソツィエテート Bürgerliche Societät〉が見られるが、そこにはドイツ語翻訳におけるある不確定性が認められる。そのことは〈市民社会〉という語の導入にもあてはまる。この語は正統哲学派の概念の翻訳語として、当時の語法には親しまれていなかったように思われる。いずれにせよプーフェンドルフの『自然法および万民法について De iure naturae et gentium』のドイツ語訳者の註記はこのことを示唆している」(八六)という影響関係を捉えることができるのである。更に、この内容を更に明確にすると次のように示される。これは政治的な意義について論考する際に多くの示唆に富むものである。

  プーフェンドルフの訳者の註記は、〔市民社会〕概念の古い意味になおかなり正確に対応している。市民社会は、古典的政治学においても近世自然法論においても、人的団体、すなわちラントないしある都市の自由で責任ある人士(家長すなわち市民)の政治共同体である。ここではなお組織(合理的な支配=行政機構とこれに付随する官僚制をともなう)としての《国家》と臣民団体としての《社会》との区別は行なわれていない。その区別が前掲の箇所において現われているかぎりにおいては、その区別は〔市民社会〕概念によっていわば受け入れられている。すなわち官憲(人的に把握された支配組織)と臣民とは、その概念において《一緒に結合されている》。市民社会と政治的機構形式とは、なお相互に同化されている。すなわちそれらの《結合された》成員が《一緒になって》王国あるいは共和国を形成する。その際、ここで〈市民社会〉と訳される〈キウィタス civitas〉は、《国家》を、たんに《都市》すらをも意味せず、全ての《政治的》団体、すなわちラントの様々な支配組織―あるいは王国、あるいは男爵領、あるいは伯爵領、あるいは諸侯領( sive sit dynastica, sive baronia, sive comitatus, sive principatus)―に適用されうるものである(八七)

 

プーフェンドルフの自然法論から導かれる一つの水脈は、ライプニッツへと繋がり、彼による市民社会の規範化は「自然的共同体」naturerliche gemeinschaftであるという見解を導かせる。リーデルに指摘によると、「自然的共同体の成員は時にはひとつの都市で共同生活を営んでいることもあり、時にはラントに拡散していることもある。市民社会概念の理解は、都市とラントとの区別によるのでもなく、その支配領域の広狭によるのでもない。ライプニッツは市民社会に関連し、ラントは様々な都市の共同体であり、王国ないしは巨大な支配領域は様々なラントの共同体であるとしている。そして、「一九世紀の法哲学や国家哲学が《封建社会》の典型的な現象形式として強調することになる、貴族によって統治されるラントの支配層とそれを支える人的な従属者の層は、この市民社会概念のなかに含まれている。すなわち、市民社会 societas civilisが、一七世紀から一八世紀にかけての政治理論において繰り返し好意的に受け入れられている封建的身分社会の本来的呼称であること」(八八)が説明され、都市共同体は支配的に把握されるこうした社会の一構成部分を構成するに過ぎないというものである。

 加えて、リーデルは一七世紀から一八世紀にかけての政治理論において市民社会と政治社会(societas civilis sive politica)が長らく区別されなかった理由について次のように説明している。それは、〈政治社会 politische Societät〉の概念が、市民社会 Bürgerliche SocietätないしGesellschaftを指示することによって説明されるという傾向があったということである。つまり、この問題に関して、〈市民的 Bürgerlich〉という形容詞は、社会の政治的分肢、市民的に特権的な、支配に関与する人(格)と身分だけに関連するものであり、〈市民的 civilis〉と〈政治的 politicus〉の同義性は、たんに言語的に根拠づけられるだけでなく、そこには古い市民社会の同質的な支配層が表現されているということが示されるのである。この支配層は、直接的な従属関係(隷従制、隷農制、農奴制)あるいは間接的な従属関係(雇傭、賃金制)に依拠し、これらと明らかに対照するという構図が見出されるのであった。

そして、その結節点は《国家》でも《社会》でもなく、両者から区別される自律的な法則に従う経済領域(《利益社会》)でもなく、一方で市民と《市民的》身分(「市民身分すなわち政治身分」 status civilis sive politicus)であり、他方家への支配とそれに由来する人的自立性ないし独立性への請求権であるといえ、また、この社会の言語的連関系に関しては、古い《共同組織 res publica》が本来的に適切な表現であるとした上で、市民社会はこの表現によって常に包括されているという点が、リーデルの解釈としてそこに見受けられるのである。すなわちリーデルは、「国家はこの点において最も広く受け取られると政治社会すなわち市民社会である( Res publica latissime sumitur hoc in loco politica sive societate civili.)」というように述べ(八九)、国家への関心において市民的という観点と政治的という観点が同一の思考として存在していたことを我々に教示するのであった。

イギリス・フランス経済理論

 リーデルは、前項に続く時代的な潮流としてのイギリス・フランス経済理論という主題に取り掛かる序論として興味深い指摘を行っている。「西ヨーロッパ思想では、ここで原則的に不変な行動原理と捉えられ、また市民社会と同列に置かれているこのかかわり合いの領域は、商業とマニュファクチャーという物質的領域に、教養的関心ではなく、取引上の占有と所有の利害関心で結びついている市民的私人の諸関連網に繰り込まれている。このかかわり合いの領域は、いまやスコットランド道徳哲学、ファーガソン、ヒューム、スミス、およびギルバート・スチュアート、ジョン・ミラーにおいて、またフランス重農主義者(ケネー、ミラボー、テュルゴー)においても登場する市民社会の概念形式のうちに反映されている。イギリス中流階級が一七世紀の政治革命以降手に入れた経済的産業的興隆、技能としきたりの《洗練》、法律と制度の《改良》は、ここでは与えられたものとして一般に前提されている。」(九〇)更に加えて、「市民社会の静的な自然法理論は、進化的自然史的形式を獲得することになるが、スコットランド道徳哲学はこの形式において近代市民社会のもつ経済的政治的政治要素の漸次的自由化を歴史哲学的に正当化したのである。その歴史《市民社会の歴史》(ファーガソン)の対象は人間社会の文明化における自然的進歩である。この歴史は、従来の自然法カテゴリーではもはや叙述しえない構造変革、一七世紀以来古いヨーロッパ社会の(経済的、軍事的、法的、技術的)外的諸条件を捉えた構造変革を、すなわち政治的法的また経済的意味における自由主義的市民的社会へのこの社会の進化を分析している。」(九一)

ここには経済学とその周縁を含んだ諸学問の思考の前提が示されており、それぞれの視点が直接的には市民社会には向けられてはいないものの、市民社会の歴史に対してのアプローチの方法を見出すことができる。

 リーデルは、デービット・ヒュームが示した「享楽は、自然の開かれた自由な手によって我々に与えられているが、技術、労働、産業によって、我々はおびただしい量の享楽を得ることができるからである。それゆえ、全ての市民社会においては所有という観念が必要となる」(九二)と言う箇所を引用し、「社会的生活にとっての所有の必要性はまもなく論争の的になるが、市民社会の出現は所有という事実を前提とするという命題は、その後もずっと反論しえないことであった」と説明している。また、リーデルは、ルソー『人間不平等起源論』における「土地の一画を囲い込み、これは私のものだ、と告げ、それを信じるに十分なほど単純な人たちを見いだした最初の者が、市民社会の真の創設者であった。」という引用も加えている(九三)。なお、伝統的政治的哲学の基礎を覆すこれらの思想は、一八世紀の後半にドイツ通俗哲学において更に示されることになった。

 ドイツ通俗哲学は、自然と人間の歴史とは、もはや市民社会の秩序によってその間に境界線が引かれるとは考えられないという観点に立つ。つまり、「自然自らが歴史を持つことがこの間に認識されるようになったからである。重農主義理論と連携して、進化論的傾向のある道徳哲学は、〔市民社会の〕概念を、自然法的契約説の先例に構成上内在しているところの特有な非歴史的静力学から解放する。このことは、概念史的にまた語彙の歴史からすると、イギリス人の場合〈市民社会 civil society〉が〈文明化社会 civilized society〉に、フランス人の場合、〈市民社会 société civilisée〉に書き換えられたことに表われている。この書き変えは、一八世紀の道徳哲学的、経済学的諸説がもはや、市民社会の市民状態(status civilis der societas civilis)を、その核心となる部分、つまり政治体制についての教説とともに対象としているのではなく、〈社会〉の〈文明化〉された状態を対象としていることを明確にしている」というリーデルの分析を生じさせるのである(九四)

 ドイツ啓蒙主義のヴィーラントは『ドイツ・メルクール』への寄稿論文のなかで《市民社会の状態》を「ポリツィーレンされた社会の状態」と同一視する論点を提供した。自然状態から市民状態への移行は、ヴィーラントによれば飛躍ではなく、むしろ《社交性》の漸次的な展開に依拠する、「同一状態のたんなる進展」として捉えられているのである。

リーデルは、ヴィーラントの理解を次のように示す。「社交性は人間の教養にかかわる事柄である、教養はしかし欲求と資質の増大と洗練に結びついている。そしてこれらはまた、相互作用をとおして持続的につくりだされ、前進的に分化してゆくためには、高尚な、あるいは少なくとも向上せんとする社会の存在を前提とする。社会は人間の社交性の産物であり、逆に社交性は社会の産物である。この二つは万有引力の中心、すなわち人間を共有しているが、人間は社交性を、社会のなかでまた社会に触れて形成してゆくのである。」(九五)ここに見る社交性という思考法の提供は、人間による社会の構成という意味を含む、新たな試みであったといえよう。

続いてリーデルは、モーゼス・メンデルスゾーンの「教養、文化、啓蒙は―社交的生活の変様であり、また社交的生活を改善しようとする人間の勤勉と努力の結果である」という言説を用いて、「〈文化〉は市民としての人間の教養〔形成〕を、また〈啓蒙〉は人間としての人間の教養〔形成〕を意味する。市民としての人間の教養〔形成〕はしかしその市民社会への人間の形成ではなく、〈社交性〉、〈文化〉、〈洗練〉において明瞭に現われるある社会的生活形式への人間の形成である」と考察している(九六)

ドイツ観念論とフランス革命・自由主義的理性とカント

 「問題の脈絡をますます見失い空虚な区別立てに迷い込んでいる啓蒙主義哲学とは反対に、カントの市民社会理論は、その当初から従来の学派概念との対決を基礎に発展してきた」(九七)というリーデルに指摘は適切であると考えられる。そして、カントが新しい自然法理論の言語を受容することから思考を開始することについて、次のような言説によって説明を行う。

カントは、―概念の法論への導入に際して、自然状態と、《市民的》状態によるそれの克服の必然性という方法上の擬制が援用されている。市民状態は、相互に孤立し法的に保護されていない諸個人を、法秩序のもとに統一し、たんなる人間の群れにたいしある種の政治的体制を与える。国民ひとりひとりが相互関係にある状態は市民社会( status civilis といい、国民ひとりひとりの全体はその構成員に対する関係において国家(civitas)という、国家は、法的状態のうちにいる、という全ての人々の共通の利害関心によって結合されているという形態ゆえに、共同組織(ゲマインヴェーゼン、いうところのレス・プブリカ)と呼ばれている。国家がいまだに〈キウィタス〉と〈レス・プブリカ〉と特徴づけられているように、市民社会もまたソキエタス・キウィリスとして現われる(九八)

このような各論を前提にした上で、市民社会に関しての論考が行われているのである。また、先人とは異なり、カントは、スタトゥス・キウィリスの市民社会がそもそも《社会》であるのかどうか、と問うているのであった。《仲間》(ゲゼレ)の《仲間関係》や《並列関係》は、《従属関係》の政治的な理論や実践においては君主(統治者)もしくは一般意志のもとに後退せざるをえなかったからである。そして、「市民的連合( unio civilis)」を社会と認めていない。なぜなら、命令権者(imperans)と臣下(subditus)の間には仲間関係がないからである。この連合は、社会であるというよりは、社会を形成するとカントは捉えるのである(九九)。 

 このカントの意見は、支配者と家臣の関係を新たに規定し、市民社会を自然発生的な支配社会(不平等な社会)とする従来の解釈や市民社会を後期封建期の貴族世界の歴史的状態へ投影することを不可能にするものであった。すなわち、カントは「市民社会」という術語の従来の言語使用からはずれた基準化と、この術語に関連する体系とを展開したとされる(一〇〇)。この基準化は、「〔市民社会概念を〕自然状態の諸《社会》の段階的発展から導出すること、およびその概念を《支配と隷属》関係へ無批判的に適用することを排除する。というのもこの関係は、カント自身先行者と同意見で契約関係と見なしているが、契約の必然性、自由と強制の結びつき(《支配》)の理解がそこから初めて可能となるような法原理、すなわち《人間の権利〔人権〕》に基礎づけられているからである」(一〇一)とリーデルは指摘している。リーデルは更に詳察する。

カントにおいては、自由と強制は、相互に対立する(近代的自然法)のでもなく、また市民社会によってもたらされた奴隷制との区別を根拠に正当化される(古典的政治学)のでもない。自由と強制は、「アプリオリに統一された万人の意志」(ルソーの一般意志)、すなわち実践理性による規範措定そのものから生ずる正当な(ひとりひとりの自由を可能にする)強制力という概念のもとに結び合わされている。この規範は、カントによれば、全ての社会的諸関係に正当性もしくは非正当性の基準として適用されるべきなのである。市民社会について語られうるのは、歴史的に与えられたある体制がこのような普遍的人権という規範的基準に相応しているときだけである。あるいはカントの言葉でいうと、一般意志を《実現》しているときだけなのである。法の規則によれば、ひとりひとりの意志は、一般的かつ外的規則にもとづいて自己自身と一致しなければならない。それゆえ、この意志はいわば全体のひとつの意志であらねばならない、そして共同体的意志の実現は市民社会なのである。(一〇二)

  こうして《一般意志》が市民社会の規範になることによって、この概念は、体系上従来とは異なった機能を獲得する。ここに表現されているのは、もはや社会的法の実定性ではなく、北アメリカの革命とフランス革命とで始まる自然法の実定化の過程である。市民社会は、古典的市民的自由主義の理性理念であるアプリオリに統一された意志の現象として捉えられると、政治体制の「原因」というよりその結果となる。「市民的体制は、恣意的ではなく、他者の安全のための法を根拠に、必然的である。社会はまた、この状態の原因ではなく、結果である。法という実践的な至上の根拠が、社会をつくる。(一〇三)

 

 カントは、古代からの系譜を持する市民社会の伝統的政治的支配形態(君主政、貴族政、共和政、あるいは民主政)を、「動かざる彫刻」であると捉えたのである。習慣によってのみ存在し続け、社会の(市民的であれ、非市民的であれ)法的性格にとって何ら重要でないある体制の《機械組織》に数えているということであった(一〇三)。カントは、他方ではまたこの市民社会を歴史の法主体として解釈する試みを行っており、リーデルによると、カントは『世界市民的見地からの普遍的歴史へのイデー』(一七八四年)の第五命題において、「人間が自然に解決を迫られている、人類にとって最も大切な問題は、普遍的に法を司る市民社会の達成である」と記述したのであった(一〇四)

 加えて、「万民法」との関連で、カントは《国家市民社会》(国家間にわたる市民社会)について論じている。そして、《国家市民社会》は諸《民族》の確立されるべき公的権利という理念を実現するための目的であると位置付ける。すなわち、「全ての民族の可能的統一をその交通(commercium)の普遍的法則に則って、理性理念において表わしている世界市民権との関連上で、《世界市民社会》が問題とされている」(一〇五)といえよう。更に、リーデルは、「カントの法論が〔市民社会〕概念に認めている普遍的位置は、彼の法論の基礎となっている人権の普遍性に対応している。この人権によって市民社会の自由主義的構想は、伝統的な政治哲学の限界を打ち破り、自由を、全ての人間の譲渡不可能な権利として承認し採り入れた。権利主体、《人格》であるという人間の本質が、いまや市民社会を規定するのであって、その反対に市民社会の法が《人格》を規定するのではない。こうして、《封建的》特権秩序と身分秩序、およびこの内部での《不平等な社会》と《支配》構造の法的可能性が脱落する」と捉え、人権と市民社会の関係性について論じている(一〇六)

そして、カントを引用して次のように説明している「全ての社会は同質である。なぜなら、ある全体の全ての部分は相互に連関している。意志の統一には、どの意志も全体意志の一部分であり、それゆえ、各人は自らの意志を他の意志と結合しているかぎりにおいてのみ、全体意志によって統治される、ということが要求される」、そして「人間性に逆らう全ての契約は、本性からして用をなさず無効である」。このようにしてカントは、農奴制と世襲的隷従に異議を唱えたが、これらは人間の本質、人間の法能力に最もあらわに矛盾しているのである。六〇年代、七〇年代のこれに関する熟考では、(国家における)隷従とは、君主たちの契約である支配の下での支配のことであり、国家における臣下の間の相互関係ではない」(一〇七)

 これらを踏まえて、リーデルは、「カントは《市民》を《国家におけるひとりひとりの人間》へ拡大することに沿って、市民社会概念を《公民〔=国家市民〕社会》の意味で、すなわち法の前に自由で平等な人間の総体という意味で使用するのが論理的帰結であろう。」(一〇八)としている。すなわち、カントの市民社会概念において再び現われる規範は、本質的にはカントの援用した独立性(自己充足 sibisufficientia)という術語〔概念〕によって引き起こされるのであり、これによりカントは、市民社会概念を再び伝統に沿って使用せざるをえなくなるということである。

 カントの議論とその思想背景について着目した場合、そこには近代市民社会に関しての古典的自由主義的構想が含まれているということが分かる。すなわち、このカントの自由主義的構想に向き合ったリーデルは次のように説明し、カントへの評価を提示している。

古い(《封建的》な)市民社会についての伝統的政治的構想に対しては二重の関係にある。それは一方では、アリストテレスにより規準化された市民社会《法》を採り入れるさいに、自由と支配の関係について、自由そのものを普遍的人権として市民社会に導入し、したがってヨーロッパ市民層の政治的解放をヨーロッパの歴史と哲学の連続性から正当化することによって新しい言い廻しを提供し、旧来の言語使用のもつ限界を乗り越えている。他方では、まさにこの連続性のもつ遅々として進まぬ要素に圧倒されている。というのも、政治的解放は個別的には、(自由は支配に結びつけられているので)、すなわち経済的諸条件によって抑制され続けているからである。カントによっても、また彼に続く自由主義的理論によっても熟考されなかったこの矛盾において、一九世紀の「社会問題」が燃え立つのである。それは古い自由主義が市民社会の生活への参加、《市民的人格》を否定しようとした社会層と階級に発した、ヨーロッパ社会における解放の歴史の閃光である(一〇九)

ここに示されるように、カントの思考と大きな時代潮流との狭間において生じた、市民社会論の概念的に不明瞭な側面を我々に明らかにしようとする意図が窺える。

社会と国家が対立する構想の発起

 フランス革命を発端とした一七八九年の人権宣言が市民権規定に先行させている人間の権利は、旧市民社会の支配秩序を忘却させたと、リーデルは指摘する。この権利は、自然法論からの着目の少なかった特定の社会権―まさにエンチクロペディスト(百科全書派)たちが市民社会と関連づけていた普遍社会の権利―を企図しているとして、次のような解釈を述べている。

一七八九―一七九五年の革命的過程は、本質的には、この両者を一致させようとするところにみられる。とりわけ第五条一五と一六で登場する《社会》は、再び〈政治社会(société civil ou politique ではなくて、association politique)〉として構成されるが、しかしいまやそれは、平等な市民(シトワイヤン)の至上の一般意志を基礎にしている。それは、旧《市民》社会を《国家市民〔公民〕》社会に変転させるが、これは従来の概念理解の完全な否定であるのがわかる。というのも、市民権および市民概念を原則的に社会の全ての人間へと拡大することは、このような形では歴史的にいまだかつてどこにも存在しなかったし、何にもまして、このようなことは、政治的および自然法的思考法の最も根本的な前提諸条件のいくつかとまったく相容れなかったからである。この点は、近代市民社会の解放でもって古代共和制の道徳秩序を実現するのだと考えた、フランス革命の革命家たちの意識にとっても、依然として隠されたままだった。社会権(人間性の権利)として、伝統的歴史的支配秩序を克服する人間の権利は、また同時に個人権利をももくろんでいる。〈政治社会〉は人間の自然権(droits naturels de l’homme)の堅持、すなわち自由(liberté)、所有(propriété)、および安全(sûreté)の堅持をその目的とする(一一〇)

ここに示される人権に関する解釈には、革命期の終わり以後、国家市民(政治)社会と(近代的な意味での)《市民的》社会との間で噴き出してくる矛盾が示されているのである(一一一)

 旧市民社会の《国家》からの《社会》の政治的解放について着目された当時の時勢において、この秀逸なる解釈者として、リーデルはフィヒテの名を挙げる。つまり、一八世紀の政治哲学とは異なるフィヒテは、「社会と国家の間にはっきりした境界線を引いているだけではなく、通常みられる両領域の交錯の根拠をも認識している」のであった。フィヒテの『フランス革命についての公衆の判断を正すための寄与』(一七九三年)において従来の社会概念についての論述を示し、また、《社会》という概念を行使しようと試みている。この概念はカントが自由原理の内容と射程距離について不明確なまま、法論の基にしていたソキエタス・キウィリスという契約構成とも一致しないというものであった。いわゆる、「社会と国家の相違」を、フィヒテは、一七九〇年代初頭における《市民契約》を変革することについての議論と関連させるのであり、フィヒテは、市民契約を変革する権利を―例えば人間「文化」の発展を通じて現われてくる―社会と国家の差異から生ずるものとして理解したのである。この差異を、フィヒテは抽象的自然法的な自然状態と市民的状態との差異と同等な関係であると認識しているということである(一一二)。リーデルは、フィヒテが「革命への権利」を《社会と国家の相違》から導き出すことによって、伝統的歴史的な市民社会概念(ソキエタス・キウィリス)を乗り越えたと捉えている(一一三)。ただし、フィヒテは〈市民社会〉という言葉はまれにしか使用せず、登場する場合でもその言葉は、フランス革命によって解き放たれた《国家市民〔公民〕》社会の基礎を表現しているものであった。リーデルはこの国家と市民の概念について次のように説明している。

市民契約の不変性は人間性の規定に矛盾しているから、市民はその不当性を見抜くや、この市民契約を再び廃棄することができる。フィヒテは、古い市民社会の支配権に取って代わった、フランス革命の普遍的で平等な公民〔=国家市民〕権から出発する。フィヒテは、カントがフランスの公民概念(シトワイヤン)を法論に採り入れたにもかかわらず、まだ共同体の《構成員》としての市民と、共同体の「部分」としての《被保護者》との間にもうけた二義的な区別を斥けた。このことはとりわけ、フィヒテにはカントとは反対に、市民社会権への参加資格をえたひとつの自立した法領域としての《家》々という観念が知られていなかったことと関係している。「国家」と市民の間をもはや相対的に独立した支配権力が媒介するのではなく、ひとりひとりの「公民」とその「家族」が直接的に国家のもとにある。《全き家》がたんなる《身体の代償物》へ、《大きな入れ物》へと戻って形成され、このなかで、市民は、家主であれ《賃借人》であれ、自分の《所有権》を持ち、この《所有権》は他の《私的な》所有形態と原則的に区別されないのである。《家》の私化に対応しているのが国家市民概念の抽象的公的意味内容である。フィヒテは『自然法の基礎』(一七九六年)で、社会という概念を再び契約構成のなかで出現させているが、それでもなお、フランス革命を検討することで得た《国家市民〔=公民〕》社会の理念、《全て》の人間が市民として同等の権利と義務をもつという理念を、固持している。(一一四)

 

 すなわち、カントに至るまでの自然法による契約構成にとって根本的な意味をもっていた支配と《市民社会》との関連に基礎付けられた議論から、フィヒテの場合には《人格》と《所有》の関連として提示されることになったのである。リーデルはこれらの思考方法に鑑みた上で、フィヒテの問題点を指摘する。すなわち、「フィヒテは、公民契約のもとでの人格と所有に関する自由処分とともに、労働の交易、所有の交易、商品の交易という狭義の《市民的》領域が生まれ、この領域が《社会》という(《契約》だけではなく)特定の法則に従う新しい概念を形成してゆくことを見通してはいない。ここにおいてフィヒテは、社会的自発性という彼自身が初めて発見した契機を実り豊かなものにすることなく、むしろこの全領域を再び自然法的契約概念のもとに包摂してしまう」(一一五)ということである。前の引用およびこの記述に見られる権利と義務、契約に関係する視点は、政治学ならびに経済学へと大きく寄与するものに他ならないであろう。

市民社会の構造変遷・へーゲルとへーゲル学派

 へーゲルの『法哲学綱要』によって、政治概念形成の歴史的体系的な重大な転換がなされることは自明の通りである。リーデルは、「アリストテレスからカントに至る政治学の伝統の言語用法に従うと、国家は市民社会と名づけることができるが、それはこの社会がそれ自身すでに政治的に正市民(cives)の法能力および統治する支配権力へのそれの統合において構成されているからである。それに対してヘーゲルは、国家の《政治的》領域を、社会のいまや《市民的》となった領域から区別する。そのさい〈市民的〉という形容詞はその本来の意味に反して、専ら《社会的》という意味で使用され、もはや〈政治的〉と同じ意味をもつものとしては使われない」(一一六)とヘーゲルの市民社会の概念化の特徴を挙げている。

 よって、へーゲルが術語の基準化を導入するときの基本命題は、市民的自由主義的解放の原理を、細分化した個々人という事実と、政治的制度に妨げられない経済社会の私的市民という事実とに由来して定式化しており、この経済社会を《市民》社会として当て嵌めているのである(一一七)。すなわち、「特殊な人格として自らが目的である具体的人格は、欲求の総体、自然必然性と恣意の混合の総体として、市民社会のひとつの原理である。しかし、これは、本質的には、他のこのような特殊な人格との関連における特殊な人格であり、それゆえ、各々の特殊な人格は、他の特殊な人格を通じ、また同時に、一般性という形式、このもうひとつの原理を通じて媒介されることによってのみ、自らを通用させ満足を得る」ということである(一一八)。リーデルはこれらに示した状況について「経済的《欲望の体系》、私法的《司法活動》、および《ポリツァイとコーポレーション》による国家への政治的人倫的統合を基準とした内的編制を、へーゲルは、彼の時代の日常語や専門術語(国民経済学、法学、国家学)のもつ多少の差こそあれ明瞭な形をとった表象から出発して、政治革命や産業革命を経て出現したヨーロッパの社会と民族の状況を把握しようという意図のもとに展開していった」と説明している(一一九)

 ヘーゲルは、文化文明論的観点から教養社会としての市民社会の存在を正当化するが、この社会はルソーに見る盲目的な文化拒否と、アダム・スミスの近代国民経済学や産業体制の自由主義派に見る同様に盲目的な文化擁護、この両極端の中間に位置するとされ、その第三の段階では、この術語は、自然法の歴史的政治的な実在化過程、フランス革命以降のヨーロッパ諸国家の憲章における人間と市民の基本権の承認を基準化する。そして、この観点において、市民社会は法社会である。つまり歴史的に形成され、労働と教養に媒介された状態において、《人格》と《所有》の権利に定在を与え、したがって自由に普遍的承認を与えるような社会であるという思考が、そこに見出されるのであった(一二〇)。すなわち、この社会にあっては、「人間が重んじられるのはユダヤ人、カトリック、プロテスタント、ドイツ人、イタリア人等々だからではなく、人間が人間であるからである」ということであり、最後に第四の段階では、市民社会は、「富の過剰にもかかわらず―十分に豊かではなく、貧困の過剰と下層民の発生をうまく制御できるほど市民社会固有の財産が十分ではないような」社会であると、リーデルの鮮明な語句によって、説明されるのである(一二一)

 また、「へーゲル学派の影響によって、術語のこのような規準化は、一八三〇年以降、時代の言葉として採り上げられ普及する。へーゲルはこの規準化でもって、曖昧で無意味となってしまった以前の概念を明確にし、取り換えようとする要求に応じた」のであるが、この規格化も異論の含む難題であったとされている(一二二)

 へーゲル左派は、国家の組織に続いて社会におけるより良い組織を構想することを課題とした。この課題との対面が個別的また全体的にどこにあるのかについての論争が交わされたのであった(一二三)。リーデルは、アーノルド・ルーゲが、「それは、この組合において、《自由な労働者組合》へと市民社会を高めることにあり、その原理としての労働の完全な実現により、下層民の事実がおのずと消え去り、労働者が《市民》と平等で対等となるのである」という考えを唱え、加えて、「もちろん市民社会になって初めて人間的社会なのであり、構成員、つまり市民ないしは労働者を、貧困や奴隷状態にすらさらすような非人間的社会にあっては、自由はけっして導入されえない」という市民論が展開されていることを紹介している(一二四)。すなわち、へーゲル的な意味での市民社会の《政治的》国家ではなく、《社会的》国家あるいは「人間的な国家社会」として示されることが明らかにされるのである。

これらの視点に対して、リーデルは「市民社会の段階はまたすっかり抜け落ちることもありうる。アウグスト・ツィースコフスキーによると、法哲学的社会哲学的発展においては、へーゲルのいうように、家族、市民社会、国家と続くのではなく、家族、国家、人類と続くのである。へーゲル的な媒介者の位置にいまや前三月の革命的危機にあって国家と社会の二元論が出現し、この二元論は青年へーゲル派においてはモーリッツ・ファイトが最も激しく説いているように、へーゲルの市民社会論を批判的に解体する」と指摘している(一二五)。そして、リーデルは「社会は(これでもって私はヘーゲルが〈市民社会〉と呼んだものを理解しているのではない)国家をその前提とするが、社会は、国家の醗酵し、芽生え、駆り立てる内容であり、形を永遠に自ら産みだす生き生きした絵画である」(一二六)というモーリッツ・ファイトの独特で比喩に満ちた言説を引用しているのであった。

社会運動と社会主義・共産主義

 リーデルが行った市民社会概念の収集作業において、社会主義・共産主義への着目は作業の工程が終わりに近づいていることを意味している。リーデルは「へーゲルによる概念形成が青年へーゲル派によって実際に解体されることはなかったし、学問的に更に発展させられることもなかった。それは、マルクスとエンゲルスによって初めてなされたのであるが、彼らの市民社会批判はまったくへーゲルによって整えられた地盤のうえに育ったのである」(一二七)と指摘している。すなわち、マルクスの著作に「市民社会」が初めて使われるのは、一八四二年の『ライン新聞』においてであり、へーゲル学派を不安にさせた問題、下層民と貧困問題に関連した部分での使用であった。ここで、マルクスは市民社会の慣習として「貧しい階級の存在」を理解しているのみであったとされる。こうして「若きマルクスの言語使用も最初は、その概念を市民階層もしくはブルジョワジーへ論争的に転用するという、初期社会主義にしばしば見受けられるやり方から遠くかけ離れている」という状況が見られるのであった(一二八)

リーデルは、このマルクスの思考について「『聖家族』(一八四四年)に至るまで、彼には市民社会の本来の政治的意義が、例えばヘーゲルに比べていっそう明確に意識されていたと言える。『ヘーゲル国法論批判』(一八四三年)ではマルクスは、社会と国家の近代的分離の対抗像として考えられ、〈市民〉社会と〈政治〉社会の失われた同一性を再構成するものとしての、中世「封建社会」の概念を展開している」(一二九)と分析し、一定の評価を与えている。すなわち、ここに見る中世の状況では、「市民社会の諸身分と政治的意義における諸身分は同一であった。なぜなら市民社会は政治社会だったからであ.る。というのも市民社会の組織原理は国家の原理だったからである。―市民社会の全存在は政治的であった。その存在は国家の存在であった。その立法活動、帝国に対する税承認は、それのもつ一般的政治的意義と効能のただ特殊的な発露にすぎなかった。その地位はその国家であった」ということである(一三〇)。リーデルは、「へーゲルにあっては市民社会の《唯物論》(=エゴイスムス)の裏面であるもの、に対するマルクスの批判の鋭さが説明される。へーゲルは市民社会と国家の同一化に失敗して《必要国家、悟性国家》の自由国家への止揚、《私的地位》としての市民社会の国家の政治的地位への止揚は実現していない。」(一三一)と捉える。そして、マルクスの認識する近代市民社会は《階級社会》であり、または―『ドイツ・イデオロギー』における、初期社会主義の日刊紙から借用した表現―《ブルジョワ社会》として示されるのであった。これらの理解に基づいたマルクスらの社会主義による市民社会概念について、リーデルは次のように説明する。

市民社会はもはやただ国家に対しているだけではなく、労働者階級の解放で始まろうとする国家のない、未来の《社会主義的》社会や《共産主義的》社会に対立している。ここではある意味で、《人間的》社会に賛成し、へーゲル的な《市民》社会に反対する青年へーゲル派的意志表示が繰り返されているが、もちろん、マルクスは《実践的》(後には《史的》)唯物論へ移行することによって、彼自身の未来主義を政治経済学批判という方法論的補助手段を用いて歴史的に具体化することができたという違いはある。「古い唯物論の立場は〈市民的〉社会であり、新しい唯物論の立場は人間的社会あるいは社会化された人間性である。」《市民》社会を克服し、これを人類の前史へ追いやるべき《社会主義的》社会あるいは《共産主義的》社会のモデルとして用いられているのは、ひとりひとりの自由な発展が全てのひとの自由な発展の条件である協同のモデルである。これは市民的自由主義的な、契約の並列関係モデルとは正反対の着想である。(一三二)

このようなイデオロギー的政治的かつ歴史哲学的に規定された概念使用から、マルクスによるその概念の批判的学問的使い方は区別される。この使い方に従うと、問題となるのは、一七・一八世紀における中世の政治的精神的支配権力からヨーロッパ都市市民層を解放することによって形成され、いまや統一的国家市民層が様々な階級へ解体した後では、生産手段の私的所有に依拠する社会的組織形態・交易形態を意味している、時代を画する概念なのである。(一三三)

 

 これらの説明は、マルクス前後の時代性と哲学的問題を捉える上で、計り知れない魅力と示唆を孕んでいるといえよう。更に、リーデルは、「これまでの全ての歴史的段階に存在した生産諸力によって条件づけられ、またこれらを条件づけている交易形態は市民社会である。―この社会はある段階の全商業生活と産業的生活を包括し、そのかぎりで国家と民族を越えているが、他方外に対しては再び自己を民族として妥当させ、また内に向かっては国家として編制しなければならない」(一三四)という引用によって、商業生活を基底にした市民社会の様態について論じている。

すなわち、マルクスは以後、このような概念定義を時期的に限定し、その適用を市民層に支配された一八―一九世紀の近代的な社会だけに制限する経過へと進むのであった。この概念を歴史的に位置づけるのに決定的な意味をもったのは、とりわけ、へーゲルとヘーゲル学派において強く残っていた、「富と所有一般に関する漠然とした説に取って代わって、国民経済学から得られた資本概念の把握と結びついた生産手段所有の機能を解明したことである。市民社会の問題は、国家による媒介にあるのではなく、市民社会の《解剖学》であり、マルクスの意見ではこれは政治経済学に求められる」(一三五)という見解をリーデルは提示しているのである。また、「政治を《物質的生活諸関係》へ方法的に還元することによって初めて、市民社会概念はマルクスの思考のなかで鍵となる機能を得るのであり、かくしてその概念はいまや逆に、現代社会の形態を《捨象》し、それに属する術語(生産手段、生産諸力など)も《過去の社会構成体》の開示のために利用されうるようになった」(一三六)として、生産手段や生産諸力といった労働に関する観点が市民社会の概念化に包含されたことを指摘している。

 続いて、リーデルはこれらの傾向に着目した上で、マルクスの言説として「市民社会は最も発展した、最も多様性に富んだ歴史的生産組織である。その関係を表現する範疇、その仕組みの理解は、それゆえ同時に、没落していった全ての社会諸形態の仕組みと生産諸関係の洞察を可能にする。というのも、これらの残骸と諸要素から市民社会が形成され、その部分的にいまだに克服されていない残滓が市民社会のなかに残存し続け、ただの輪郭にすぎなかったものが明確な意味内容へと発展していった等のことがあるからだ。人間の解剖学は、サルの解剖学へのひとつの鍵である」(一三七)と引用し、市民社会概念の傾向とその変化についての解釈を提示しているのである。特に、人類史の関与についての言及はまさしくマルクスの醍醐味ともいうべき特色を表すものであろう。

 リーデルはそのようなマルクスの試みを「マルクスの経済的政治的《市民社会の解剖学》」と称している。その評価と並び称されているのが、近代的《社会概念》を総論的に考察したローレンツ・フォン・シュタインの『一七八九年から今日に至る社会運動史』である。それはすなわち、「社会概念はマルクスの場合と同じく労働と資本所有の関係に基礎づけられているが、ここではヨーロッパ歴史的過去を現在化し、また現代をその社会的構造のうちに露出させる装置になっている。ヨーロッパの社会と歴史の連続性とこれに属する概念の連続性は、シュタインによって歴史的転換期として経験された近代的社会運動のうちでは、革命前ヨーロッパの《封建社会》、革命期の《公民社会》、および一八三〇年以降の《産業社会》という三組の現象に分かれる。第二と第三の社会タイプの間に《国民経済的社会》が位置するのであるが、これは、古い市民的(「封建的」)社会のもつ法的区別の止揚からでてきて発展し、法の前に自由で平等な市民の統一を、所有と非所有の区別によって再び引き裂いてしまう。この社会は、《公民》社会を、―シュタインにとって現代の決定的な社会構成体である、《産業的》社会へと変形する」という極めて修練された内容を含んでいることが垣間見られる(一三八)。つまり、シュタインは《社会概念》に含まれる〈市民社会〉という術語を重視していないことが、ここで明らかになる。いわば、ここから、「シュタインが保持しよう努めるのは、人格と所有権という〈市民社会〉の原理であり、個人の自由であって、この自由が所有者からなる支配的階級による資本所有へと変質することは国家の手によって阻止されるべきなのである」ということ示唆されるのである(一三九)

 つまり、ここに含まれる、市民社会から《政治的国家》へというヘーゲルが求め、若いマルクスが捉えなかった止揚に代わって、シュタインは、ただ国家と社会の間の均衡が必要であるとしているのであった。シュタインは、《政治的》国家ではなく、《社会的》国家、「社会的民主主義」の必要性を追求していたという点は、その後の時代背景を分析する上で必須の見解ともいえる。

 リーデルは「一九世紀後半のドイツに特徴的な、教養の伝統と古い自由主義と保守的な国家思想の絡み合いのなかで、市民社会という概念は最終的に、その価値が総括的に引き上げられ、また政治的に現実化された」と表現している(一四〇)。そして、市民社会概念の術語の利用を把握するのに最も注意を要するドイツ語の系譜ならびにドイツ近代以降の術語使用についてリーデルは次のように説明している。

ヴィルヘルム二世時代の市民社会は、社会民主主義ないしは一八五〇年以前のフランスの社会理論家の論争的イデオロギー的意味での《ブルジョワ社会》とは理解されえなかったし、またこのような理解を欲したわけでもないが、しかしこの市民社会は以前の非イデオロギー的概念に―たとえ初期自由主義の形態にすぎないにしても―立ち戻ることもまた不可能であった。このかぎりにおいて、伝統的政治学の学術用語から採られた術語を「階級秩序」へ解釈しなおすことは、一八七一年の国家の枠内でのドイツ社会の歴史的状況および言語上の関連体系の変遷を簡潔に表現している。そして、ビスマルク国家の《階級秩序》という意味で、この概念は一九一四年に至る時期において国家自由主義的ドイツ市民層の大部分によって受け入れられ、使用されたのである。(一四一)

これに対して、ドイツ社会民主主義における体系的枠組みと用語使用の概念史的パースペクティブの狭隘化が対応するのであって、この代弁者たちは、―マルクスとエンゲルスによる術語上の差異化とは異なって―市民社会を大まかに資本主義社会と同一視している。ビスマルク帝国とその階級対立の基盤上で、ラッサールのいう「労働者身分は市民社会を構成するいくつかの諸身分のひとつにすぎない」という命題はその効力を失った。(一四二)

一方では、ラッサールがフリードリッヒ・アルベルト・ランゲおよび六〇年七〇年代の《社会政策者》とともに、「国家」における市民社会の止揚、すなわち将来の《社会国家》あるいは《国民国家》における止揚を信じていたが、他方では、ルドルフ・フォン・グナイストが時代の社会危機を、二元論に代わる「国家と社会の相互関係」を内容となすべき《法治国家》を通じて克服することを望んでいた。こうした両派の言語的構想は、ヴィルヘルム二世時代にあっては、階級秩序としての市民社会の社会的現実に照応してますますあい隔たっていった。《法治国家》の構想を《社会国家》によって媒介することは六〇年代にあっては可能であるようにおもわれ、また近代的市民階級と労働者階級の歴史的解放の論理上にあったように見えたが、実現はしなかった。市民社会の国家はこの間―ドイツ社会民主主義の理論家やレーニンが正しく認識したように《市民国家》になり、この市民的国家は第一次大戦、第二次大戦の激動とこれに続く社会革命の後になって、再びヨーロッパの解放運動の形成過程に入り込むことになる。(一四三)

 

 ここに示される系譜は哲学、政治経済学を主たるテーマとした論点から素描されるものである。リーデルは一方、社会学者、マックス・ヴェーバーが、社会科学の体系的構築をするさいや社会歴史的事実を解明するに際して、〈市民社会〉という術語の使用を全面的に差し控えるという帰結を引き出したとされている点に着眼するに併せて、(一四四)「〈市民社会〉はヴェーバーによってある種の決着を見たのであり、今日現存する《市民》社会と《社会主義》社会とのその「前史」からの事実上の遮断が(とりわけファシズムとスターリニズムという)政治的難問へと行き着いたからこそ、歴史的言語的相違を考慮した概念史の回顧的論考が必要なのであり、これなくしては過去と未来の間の緊張した場である現代の社会的状況に関する診断は不完全で、多くの観点からして不十分なものにとどまらざるをえない」(一四五)と考察しているのである。

 いわば、西洋における市民社会の概念史という稜線は、マルクスとマルクス主義による市民社会批判おいて一時的な終結を見る。リーデルは、「市民社会批判は、契約の図式に従って相互に同格とされ、法秩序の主体と定義なされている自立した諸個人という、自由主義的社会構想のもつ欠陥を鋭く摘出した。しかしその批判は、欠陥とともに同時に、個人の自由権を保証し、物質的社会的生活諸関係を区別し評価するための規範体系を保持するという、市民的自由主義的構想の長所もまた、放棄してしまった」(一四六)というように、マルクス主義の市民社会に対しての立場と特徴を論じ、マルクス主義的市民社会批判の限界を指摘するのであった。

 すなわち、市民社会の概念史という試みについてリーデルは「市民社会の歴史が古代にまで及び、近代の都市市民層の解放でもって初めて開始されるのではないように、この術語は、たんに歴史的に与えられた社会状態を記述するだけの概念を表わすのではなく、そうした社会状態で実現されるべき諸規範(例えば《権利》や《自由》といった)をも規定する概念を表わす。もちろん規範的な機能は、概念史上比較的遅い時期になって(カント以降)初めて明確となったのであり、その後、基本的権利が《市民的》立憲国家において実現されるに及んで、再び近代的経済社会や産業社会の事実的行為連関の背後に消え去ってしまう」(一四七)と述べて総括する。まさしく、これは著作名と同じく、市民社会の概念史の「質性」ともいうべき内容を表現しているといえるのであろう。

第二節 二分法的解釈の意義―GemeinschaftGesellschaft

 リーデルは先ず、次のような紹介からゲマインシャフトとゲゼルシャフトに関する議論を開始する。「〈ゲゼルシャフト Gesellschaft〉および〈ゲマインシャフト Gemeinschaft〉という語は、社会学、社会哲学、歴史哲学の基本的術語であるが、それは対概念をなしており、〈国家〉―〈ゲゼルシャフト〉という対概念とともに、とりわけドイツの一九世紀および二〇世紀初頭の社会革命的な状況下において、政治的言語のうえでも政治的理念のうえでも中心的な政治的役割を果たした。〈ゲゼルシャフト〉は、語源学的には古高ドイツ語の〈sal〉(《部屋》)、〈selida〉(《住居》)、〈gisellio〉、中高ドイツ語の〈geselle〉(《部屋あるいは家を共にする仲間》)、それから派生した中高ドイツ語の〈gesellec〉(《ふさがれた、結合された》)および〈gesellen〉(《結合する、合一する》)と親縁性を有しており、一般に談話(言葉)と行為によってもたらされた人々の間の結合、すなわち話し合い共に行動する諸個人の全体を指すと同時に、その結合されている状態、すなわち欲求・労働・支配の行為連関において発生し一定の談話と行為の規範とに結びつけられている結合そのもの、つまり社会的団体を指す」(一)。加えて、〈ゲゼルシャフト〉という語には二重の意味がある。すなわち、顕現的な社会的行為総体と、諸制度・諸集団・諸団体等々において歴史的に顕現的なものとなる社会的な行為図式(例えば、家族、国家、企業、学校)を挙げている。

 対して、〈ゲマインシャフト〉という語も、それと同様に二義性を持つとして、次のように語源をめぐる詳細な系譜を説明している。

この語は、《比較的多数の(= gemeinsam)ないし全ての(= allgemein)》という言葉と基本的意味を同じくする中高ドイツ語の〈gemein〉(《共属的、共通の、一般的》)から派生した。語源学的には《義務の遂行》《職務》《(社会的団体内の)影響圏》を意味するラテン語の〈munus〉と親縁性をもつが、このことは、《共通の》《公的な》およびその派生語を意昧するラテン語の〈communis〉、《共通の》を意味するゴート語の〈gamains〉、《参与者》《団体成員》を意味するゴート語の〈gamainja〉、同じく《集合》を意味するゴート語の〈gamainths〉、《ゲマインシャフト》を意味する古高ドイツ語の〈gimeinida〉、《集められた群衆》《軍隊》《共同的占有》《関与》《参加》を意味する中高ドイツ語の〈gemeine〉、〈gemeinae〉などから理解することができる。この語は、一方では、話し合うこと(すでに古高ドイツ語では〈meinan〉という語で表現されており、《考える》《言う》《協議する―すなわち、ゲマインシャフトの《輪》のなかで拘束力を有する話し合いを行ない、助言をする―》を意味する)および共同で行為することによって生じた人々の人的結合を指す。

他方では、顕現的なものたらしめられることを要する社会的な行為図式としての結合状態(例えば、婚姻・職業・企業・宗教等々のゲマインシャフト)を指す。《ゲマインシャフト》を指す比較的古い言葉としては、〈Gemeinde〉(村、都市)と〈Gemeine〉(ルター「イスラエルの子供たちの gemeine全体」)があり、それらは第一義的に社会的な行為図式(制度としての《ゲマインシャフト》)との関連を保持している。―それらは、本来的に〈ゲマイン〉の一般的な基本的意味にかなっており、しかも第一に状態を指す言葉である。なお『悪しき共同 Gemeineのうちにいるより一人のほうが良い』という格言を参照せよ。それらの語は、このような機能を持つものとしては、〈ゲマインシャフト〉という言葉によって駆逐され、特殊に政治的な意味における集合体を指す言葉として保存されているにすぎない。

〈ゲマインシャフト〉という語は、〈Gemeinde〉(ときに〈ゲマインシャフト〉とも表わされる)という語と伝統的に結びついている場合には、物件に対する共通の関係を基礎にした諸人格の団体的関係を意味する。この関係を表わすものとして、一八世紀までは、〈Gemeinheit〉という語が〈ゲマインシャフト〉の代わりによく用いられた。この語は、ある場合には〈Gemeinde〉(シラー「Gemeinheitのこれら諸特権」)と同一なものとして、またある場合にはそれ以外の人間の目的団体を指す言葉として用いられている。この語は、法律用語から派生したものであり、ラテン語の〈universitas〉の訳語である。ローマ法においては、〔平等なものとして〕向かい合う人格間の自由な契約関係としてのソキエタスのほかに、諸人格から分離された目的財産としての universitasbonorum)も知られていたが、それと同様に古ドイツ法においては、物(《共有地》)の占有関係をとおして諸人格をとりわけ密接に結びつける分割不可能な共有財産である〈ゲマインハイト〉という概念が発展した。そのほかに、〈ゲマインシャフト〉は、一般に他の全ての、とりわけ物件にも目的にもかかわらない《共同生活の諸形式》をも意味する。(二)

 ここに見るリーデルが行ったゲマインシャフトの言語史的な系統の整理は、特に非ドイツ語使用の者にとって多くの着眼点を伴う有用性を含んでいる。ゲマインシャフトの意味を問う際、その根源にある言語の様相を問うことは、他言語への余波や系譜を見通すことより先んじて行う必要があるからである。そして、その萌芽がいかにして、展開し、学術的に使用されたのかという論点を支柱に据える本論からしても、まずドイツ中世の言語状況の把握は、次世代への影響を知り得る上での基礎資料となることは明らかである。この方法の中から、その言語変遷の一端を汲むキリスト教神学への着目に至る。

  すなわち、その後のキリスト教神学と教会とにおける宗教上の用語としては、古来《聖者のゲマインシャフト》や、語を比喩的に人類の範囲を超えでたところにまで拡大して、人間と神とのゲマインシャフトという語法を見ることができる。哲学、倫理学、社会理論における用語としても、共同生活の比較的あるいは極めて密接な集団あるいは団体へ逆に適用されることなり、〈ゲマインシャフト〉という用語法は、純粋に個人的な意味の側面が目立つことになる。例えば、恋人関係、夫婦関係、友愛関係や、教師と学生、師匠と弟子の間の関係、年齢・職業・身分上の共属性や宗教・祭式・生活上のゲマインシャフトへ適用を制限されるのであった(三)

その後、《最高の価値感情を含意する〈ゲマインシャフト〉という強い感情をこめられた語の意味》が発展したのである。この意味があるので〈ゲマインシャフト〉は、術語的には〈ゲゼルシャフト〉とは区別されるべき感覚を持することになるが、言語批判的にそして歴史的、発生的に考察すれば、このような価値意味は、〈ゲゼルシャフト〉という語にも同じ程度に含まれているといえるのであった(四)

 

これらの詳細な術語理解において、その末尾の説明にあるゲゼルシャフトの語的な位置付けは、極めて重要な点であり、まさしく、リーデルとの対話における主題の一つであるともいえよう。なお、リーデルはグリムの解釈を用いて、「グリムによれば、中世盛期から一八世紀に至るまで、〈ゲゼルシャフト〉は、《ゲゼレン》の関係を指した。つまり君主や諸侯の、家や戦争や旅の従者のことを意味し、更に仲間団体、盟約、同朋関係、職能団体、(聖俗の)オルデン、種族と一族の団体、政治的(都市の)ゲマインデと教団、友愛的な集合状態と結合状態、仲間化と社交性のことを意味した」(五)としている。すなわち、最初は身分的に閉鎖的であるが、やがて教養市民に開かれていくがいずれにしろ、《良き》ゲゼルシャフトという意味で用いられたのである。ここで重要なのはリーデルが指摘する通りに、「多様な社会的団体と結合とを指示する仕方は動揺しており、言葉のうえでは個別的に極めて分化しているが、〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉は、この時代においてはずっと同義的である。それらは、共に同一の概念を表わしており、そのさいの表示方法として、場合によっては、発音の形態がまとめられて〈Gesell-und-Gemeinschaft〉という一語に合体されて示されることがあるほどである」ということである(六)

リーデルは、伝統的なゲゼルシャフト理論を歴史的に把握する場合、その始点はアリストテレスに位置付けられるとした。つまり、〈ゲゼルシャフト〉についての旧来の全ての規定は、アリストテレスが倫理学と政治学とを包括する実践哲学の枠組みのなかで展開したコイノーニアの概念と結びついているということである(七)。また、アリストテレスは、初めからゲゼルシャフトの概念形成を問題にしているわけではなく、「友愛」の基本的在り方を問題にしているとして、後に、アリストテレスは初めて狭義の《社会的なもの Soziale》を主題として語ることになるが、友愛という主題は、放棄されていないのであり、その主題は、法と友愛の結合に顧慮を払う観点から、家や都市の諸制度と結合した様々な《ゲゼルシャフト》や《ゲマインシャフト》(コイノーニアイ)に仕向けられたものであったとの解釈が見出されるのであった(八)。リーデルはこのコイノーニアの主題について次のように解説している。

  アリストテレスにおいては、コイノーニアという表現は、全ての社会的結合と連関とに等しくかかわっているのであって、そのさい次の点は、つまり傾性や習性によって肯定される自然的―家族的連関が問題なのか、それとも選択意志にもとづく合意によって形成可能な結合、ある外的な目的のために意欲され、法的に保障される結合が問題なのか、要するに近代社会哲学(H・メイン、スペンサー、テンニース)の意味での《身分関係》ないし《契約関係》とのいずれにかかわるのかという点は、どうでもよいことなのである。アリストテレスは、法の概念が人間の織りなす《ゲゼルシャフト》ないし《ゲマインシャフト》の形成にとって基礎的なものだと見なしているが、コイノーニアは(ローマ法のソキエタス societasと比肩しうるような)法形象ではなく、〈支配〉の補完概念である。更にこのコイノーニアという語は、友愛―友愛は友愛関係という翻訳概念とその現代的(私的情緒的)理解によって示唆されるような私人の《共感》にもとづく関係だけを意味しないにしても―と同義ではない。一方では友愛とコイノーニアとの間に、他方ではコイノーニアと権利との間に、言語的に共属関係がある。アリストテレスは、コイノーニアすなわち《ゲゼルシャフト》あるいは《ゲマインシャフト》という言葉で、基礎的な意味で社会化された在り方 Vergesellschaftetseineを理解している。(九)

 つまり、このドイツ語への転用に見る用語概念は、合意、約束、契約を基底とした人間の結合の様々な形式と家団体・氏族団体などの共同生活といった《自生的な》基本形式とを、共に含んでいるのであった。なお、更に細部を見通すと、「血縁関係と同志関係にもとづく諸形式は、とくに社会的連関を指し示すものとして術語的に固有の重要性を持っているが、この諸形式のほかに、アリストテレスは、多数のコイノーニアを区別しており、これらのコイノーニアはポリス内部での市民間の交通のなかで発生し、彼らに共通の宗教的軍事的経済的な諸目的や狭義における社交的諸目的によって統括されている」、ということである(一〇)

 すなわち、これらは「軍人、海外貿易商人、種族団体としてのピューレー Phyleとデーモス Demos、奉仕団体、そして会食仲間の間での諸結合」を見出すことができたのである。アリストテレスは、それらのコイノーニアを、彼にとってポリスとその支配形式を示すコイノーニアの構成部分、《市民社会》の構成部分とした。ここにおける、コイノーニアは、市民社会の《概念的》類比物として解釈されるのであり、すなわち「種々のコイノーニアは全て国という共同体の一部分である」ということである(一一)

リーデルは、アリストテレスが概念的に見た市民社会とコイノーニアとの関連について、次のように説明している。つまり、「アリストテレスは、したがって近代的ゲゼルシャフト理論の方法的道程を歩んでいるわけではない。彼は、コイノーニアという類概念を《社会学的》述語の主語として用いているのではなく、逆にこの類に属する特殊概念―《市民社会》あるいは《政治社会》―を、彼の理論と概念形成との出発点や目標点にしているのである。〈ゲゼルシャフト〉ないし〈ゲマインシャフト〉は、常にそれの補完概念(〈法〉、〈友愛〉、〈支配〉)に結びつけられているが、それらも同様に、けっして《全体》として理解されたわけではなく、常にただ部分的なものとして、ポリスという基底的制度と関係づけて、理解されているにすぎない」(一二)として、アリストテレスによるポリスの形成に関する「政治的」な議論とコイノーニアに関する思考が密接な関係ではなかった点を指摘しているのである。

 しかしながら、アリストテレスのコイノーニア論は、西洋の社会哲学にとって、大きな意義を有し、広く影響を与えたといえる。アリストテレスのコイノーニア論における言語的概念の特徴は、まさに国家とゲゼルシャフトの区別も、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの区別を行っていないことが特筆すべき点である。

 以降の自然法によってもたらされたゲゼルシャフト理論における概念形成は、ポリスとコイノーニアとが言語的・政治的にも同一であったという状況を超越するのであった。。リーデルが示すところによると、ここにおいては、人間社会(societas humana)は類概念であり、人間そのものは、もはやアリストテレスの政治的動物ではなく、より一般化され、ゾーオン・コイノーニコン、つまり社会的動物であるという分析がもたらされる(一三)。リーデルは自然法におけるゲゼルシャフト理論の転換について、「このような変遷はすでに古典後期に起こっていたが、自然法の古典期である一七世紀に、ストア的(グロティウス)アプローチとエピキュロス的(ホッブス)アプローチとが徹底化されるなかで、継承発展されていく。しかし、ヨーロッパ社会哲学の二つの理論形式において展開されているゲゼルシャフトの概念が、構造上不変なままであったことを看過することはできない。古典的―ギリシア的思考は、ポリスの社会的連関を宇宙論的に解釈するにはいたらなかったが、古典後期の哲学では、宇宙そのものが、全ての理性的存在者を包括するポリスという一つのコイノーニアにまで高められるにいたった」と考察している(一四)。そして、古典後期における状況に関して、リーデルは次のように説明を加える。

ストアのコスモーポリスは、神々と人間とに共通の法則、ロゴスとして全自然をあまねく支配している法則によって統治されるものであった。この《自然法則》に対応するコイノーニアはもはや、限界を画された政治的ゲマインデ団体という共同性とそこに所属する市民身分とに二重にかかわらせられることによって制限されはしない。それは制度的-政治的なものとは考えられない世界市民の理念へと拡大されるのである。初期キリスト教の表現においては、コイノーニアという言葉が、信者たちと神およびキリストとのゲマインシャフトをあらわすものとして繰り返し用いられている。(一五)

新約におけるコイノーニア概念は、共通の財への関与、共通の(礼拝)行為を通じての参加、信仰において結合された人々の間での全ての良き物としての財の分かち合いを指すが、この概念は、神への参与ということを強調していくパウロ―ヨハネ的なそれを除けば、ヘレニズムの用語法に対応したものである。ヘレニズムの用語法においても、コイノーニアは、しばしば人間と神との間のゲマインシャフトの表現として用いられていた。(一六)

 上記のように新たな概念の把握や用語法がなされたように、アリストテレス的コイノーニア論は、様々な変遷を経ることになる。つまり、「人間をポリス的動物とする周知のアリストテレスの命題は、古典的―ギリシア的社会哲学によって補完される。すでにキケロにおいて(「しかし人間社会は複数の身分からなる」)、次にアウグスティヌス(「国ないし都市のあとに世界が続く。そこに人間社会の第三段階が立てられる。実際、人間社会は家族に始まって都市にいたり、更に発展して世界に至るのである」)において、人類全体へ、《人類社会 societas generis humani》あるいは簡単に《人間社会 societas humana》と表現されるものへと拡大されていく」という水脈を我々は目にするのである(一七)

 古典後期と初期キリスト教における術語的変遷は、一三世紀にスコラ哲学の翻訳と註釈活動によってなされたアリストテレスの社会哲学の受容によるものであったとされ、ギリシア語のコイノーニアのラテン語への翻訳は、すでに古典後期において、多義的で複雑な経過を辿ってきたとされる。その経過について、リーデルは次のように説明している。

キケロにあっては、〈ソキエタス societas〉は〈コムニタス communitas〉と、〈コンソキアツィオ consociatio〉は〈コニウンクツィオ coniunctio〉と、〈コムニカツィオ communicatio〉は〈コイトゥス coetus〉と並存している。アリストテレスのコイノーニア論がスコラ哲学に受容されることによって、ギリシア語に適切に対応するラテン語上の同義語を見いだすという困難な作業もまた継続されることとなる。さしあたって重要なことは、中世に初めて行なわれたアリストテレスの『倫理学』と『政治学』の翻訳では、コイノーニアという語に、〈コムーニオ communio〉〈コムニタス〉そして〈コムニカツィオ〉という言葉があてられたことである(W・ⅴ・メルベケ)。このことから、トマス・アクィナス、A・マグヌスによるアリストテレスの註釈において、後にはW・オッカムとM・ⅴ・パドゥアにおいて、これらの表現が優越的地位を占めていることが説明される。(一八)

〈ソキエタス〉という語がかなり頻繁にみられるのは、人文主義者(L・ブルニィ)によるアリストテレスの翻訳以降のことであるが、この〈ソキエタス〉という語は、初めから〈コムニタス〉〈コムニカツィオ〉等々の言葉と同義なのである。(一九)

更にリーデルは、アクィナスによるゲゼルシャフト概念の最初のスコラ定義を重視している。すなわち、リーデルは、アクィナスが『神の礼拝と修道生活を攻撃するものに対して』において、「ソキエタスとは何らかの完全性へと向かうための人々の集まりであり―、それゆえ哲学者が倫理学の第八巻で種々のコムニカツィオを区別したが、それは、種々の務めに従うある種の諸々のソキエタスにほかならず、それらのうちにおいて人々は互いに交流しあうのである。」と示した言説を引用している(二〇)

近世初期のゲゼルシャフト概念

 アリストテレスを起点とする社会哲学の概念形成においては、〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉とが交雑した術語が用いられる状況が続いていた。「一七―一八世紀に至るまでは、〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉の概念と友愛関係の概念との間に一定の関係が見られるが、そのことから知られるのは、コイノーニアとそのラテン語の等価語(〈ソキエタス〉という基本語も含めて)とは、単純に近代社会諸科学の言語理解における〈ゲゼルシャフト〉と等置することができない」(二一)との状況が見られたのである。リーデルはここに含まれる〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉の各概念の一致と差異についてより詳細に解説しており、両語の用法を解釈するための探索作業が幅広く行われた証をそこに見ることができる。これは次の通りに示される。

  〔ゲゼルシャフトとゲマインシャフトという〕これら二つの表現は、適用範囲と意味とに関して、《ゲマインシャフト》、《共同性》、《関与》(受動的)、《参加》(積極的)、《結合》、《同盟》から《仲間関係 Genossenschaft》《友愛関係》《同胞関係 Bruderschaft》《団体 Körperschaft》に及ぶ広がりを有している。セネカ以降周知の公式であるソキエタス=アミキティア amicitia(小団体のとりわけ親密な《ゲマインシャフトの形式》としての親交 familiaritasもこれに含まれる)は、ラテン的なゲゼルシャフト文化において新たに出現したものではなく、ギリシア的なコイノーニア論やフィリア論にさかのぼる、これに続いて、モンテーニュ(《友愛社会 société d’amitié》)とボダン(婚姻と人間社会の主要な基礎は、友愛の基礎のうちにある)にみられるフランス語の用法が現われる。更に一七世紀と一八世紀初頭の仏---辞書は、この連関をこう示している。「Gesellschaft Gemeinschaft société compagnie Societas Socialité Gemeinsamkeit Freundlichkeit Socialitas Société Gemeinschaft Societas(二二)

  類似の語系列は、レートラインの『ヨーロッパ語彙』のうちに見いだされる。「Société Gemeinschaft Gesellschaftまた同じく営業のために形成された Societät あるいは、 Zusammentretungまた同じく Verbindung Freundschaft Gesellschaft Gemeinschaft Compagnia consorzio commnitá societá société companie(二三)

  したがって、社会哲学の基本概念である〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉が持つ意味の広さと多義性とは、ギリシア―ラテンの言語伝統に由来する社会的連関の表示方法に特有のものなのである。そればかりか、ギリシア・ラテン的表示方法は、この点では〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉〔というドイツ語〕をしばしば凌駕している。一七世紀の初めに、J・A・ヴェルデンハーゲンは、『一般政治学』において、〈ゲゼルシャフト〉がいかなる語と同義性を有するのかという問題に対する答えとして、一連の同義的言葉を長々と列挙しているが、それは consociatio consortium frateruitas sodalitas coniunctio communio participatio communitas commercium comitatusから pactio foedas liga ordoに及んでいる。更に同時代の教会法の用語において、とりわけ教会法大全において、これと比肩しうるものが認められる。そこでは、特殊教会的なゲマインシャフト諸概念( conventus coetus concilium congregatio)が、〈ソキエタス〉(「ソキエタスということで一における多が語られる」)という言葉で定義されている。〈ゲマインシャフト〉は、厳密に対応する語を持ってはいないが、調度の成員の和と連帯ないしは、―信仰の告白者の和と連帯とをも意味しうる。(二四)

 ここに見るリーデルの発掘は、市民社会論を術語概念として捉えるアプローチの表明であることを毅然と唱えるものである。そして、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの狭間にて生じる概念の混交に一石を投じるべく、用法を吟味し、提示したものであるといえる。

加えて、リーデルはヤーコプ・トマジウスにおける〈ソキエタス〉の定義、「ソキエタスは、人々の結合ないしは秩序にもとづく人々の状態である」を紹介している(二五)。すなわち、この定義は、二つの契機を表現しているとされる。第一は、人的結合そのもの、つまりそれぞれの特定の《身分》への関連であり、第二は、身分《秩序》への関連である。ここから、概念の分節とそれの旧ヨーロッパ世界の身分的―支配的《ゲゼルシャフト》への適用可能性とが生ずる、というものである(二六)。他方、「人間が相互に社会化されている場合、人々は、中世的なあるいは宗教改革によって革新をこうむった聖職身分、世俗的―政治的身分と家政的な身分という三身分論によってそれぞれに配属することもあれば、グルントヘルシャフトの、村や都市のゲマインデの身分に置かれたりするという状況があった」としつつ、「商業と交換、労働と職業と結びついたゲゼルシャフト化 Veresellschaftungのなかでは、相互に商取引を行なう諸個人は、一つの身分を形成している」のであり、すなわちそれらには手工業者、商人、肉屋、パン屋、親方、徒弟等々が該当するというリーデルの指摘へと繋がるのであった(二七)

 〈ゲマインシャフト〉と同義であるこの旧来のゲゼルシャフト概念の内的構造についてのより正確な思考について、人間の相互間の基本的な社会的連関についてのライプニッツの分類によって与えられているとリーデルは指摘する(二八)。すなわち、ライプニッツは結合している諸個人の平等と不平等、ならびに共通の諸目的が特定されているか否かを重視しており、「全てのゲゼルシャフトは、平等か不平等かである。ある人が他の人と同等の力を持つ場合には平等であり、ある人が他の人を支配する場合には不平等である。全てのゲゼルシャフトは、〔目的において〕制限されていないか制限されているかである。制限されていないゲゼルシャフトは、全生活と共通善にかかわる。制限されているゲゼルシャフトは、ある意図、例えば商業活動、航海、軍務、旅にかかわる。」という説明を行っているのである(二九)

更に、ライプニッツは「〔目的において〕制限されていない平等なゲゼルシャフトは、真の友人間に成立する。―制限されていない不平等なゲゼルシャフトは、治者と臣下の間に成立する。―全てこれらのゲゼルシャフトは、単純か複合的かのいずれかであり、少数の人間間にも多数の人間間にも成立する。―〔目的において〕制限されていない全てのゲゼルシャフトは、なるほど福祉を目指すが、常にそれを達成しうるわけではない。それゆえ、多数の人間が集まって、より大きく力のあるゲマインシャフトを作らざるをえなかったのである。こうして、家、門閥、村、修道院、教団、都市、地方、そして最後に全人類が、神の命令のもとにいわば一つのゲマイネを作るのである」(三〇)と述べており、リーデルはこれらの引用に見る解釈に対して、「〈ゲマインシャフト〉と〈ゲゼルシャフト〉とが、目的において特定されている組織(修道院、教団、村等々)に対しても、また全人類に対しても適用されているが、この場合〈ゲマイネ〉という語に対応するのは、ラテン語の res publica(共和国)、 civitas Dei(神の国)である」(三一)と指摘し、より具体的な論点を抽出している。そして、「ライプニッツにとっても、〈ゲゼルシャフト〉は、まだ《公共的なもの das Öffentliche》(publicum)・公共的に行なわれる共同の生活・言語・行為といったことを意味している。それゆえ、《ゲゼルシャフト》に対立するものは、国家でも個々の人間でもなく、《孤独》、すなわち模範的ではあるが、しかし簡単にまねのできない仕方で、ゲゼルシャフトから身を離している《唯一者》の孤独な生活(vita solitaria)である。簡素な生活とは、しばしば文学的―修辞的に取り上げられる範例である」(三二)とライプニッツのゲゼルシャフト論の本質部について考察を加えている。

 また、古典古代の範型ともいうべき水脈と関連する、近代初頭における《ゲゼルシャフト》と《孤独》についての諸考察が、道徳哲学的起源を有し、個々人を《ゲゼルシャフト》の領域からその外へと設定し捉え得るものとして(三三)、リーデルは、これらの見解を述べる中で、「《ゲゼルシャフト生活》(vita socialis)に関する旧来の学説の論題に属するが、反対の方向に展開されているわけである。《ゲゼルシャフト》は、人間が理性(ratio)と言説(oratio)をもつことによって構成されている。更に、ゲゼルシャフトは、その維持のために支配(imperium)を必要とする」と説明し(三四)、言説の変化を指摘しているのである。すなわち、支配は労苦と負担とに結びつくが、人間は孤独よりもゲゼルシャフトのほうを選ぶということである(三五)。そしてリーデルは一七世紀にJ・H・アルステッドの説明を引用している。

それは、「社会生活について―孤立した生活のほうが社会生活より良いのだろうか。―社会的生活を選ぶべきなのである。人間は社会的動物である。人間には、ソキエタスを建てて強固なものとするべき道具が与えられている。理性と言説がそれである。厄介なことのない生活の仕方などない。全てのソキエタスには何らかの支配がある。男たちのソキエタスには女たちへの支配が、主人たちのソキエタスには奴隷への支配、父たちのソキエタスには子供たちへの支配、魂のソキエタスには身体への支配、人間のソキエタスには獣たちへの支配、(そして)人間のソキエタスの、他の人間への支配がある」というものであり、社会学の分野においても大きな意義や論点を要する「社会学的人間」の視座を提供するのであった(三六)。まさにこの説明においても、支配に関連する関心が示されているのである。総じて、ここにまとめるリーデルの見解と引用は、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトに関する旧来の認識への再検討がなされており、そこには支配への動機に関する議論ともいうべき新たな要素を含んでいる。

自然法とゲゼルシャフト

 ゲゼルシャフトの概念解釈の新展開は、ホッブスとスピノザの例が最も顕著であった。それにより、〈ゲゼルシャフト〉や〈ゲマインシャフト〉は目的概念や実体概念として解釈され得ないものとして提示されるに至ったのである。人間が集い、相互的なゲゼルシャフトを構成するにあたり、ホッブスは、その状況を自然必然的に生じることではなく、偶然にすぎないと分析したのである。ホッブスの解釈によって、《自然的な》ゲマインシャフトないしゲゼルシャフトの段階的構造も消失したのであった(三七)

リーデルは、ホッブス以降を見据えて、「支配的―家政的基盤を喪失した《家族》を例外として、他の全ての社会形式(同僚団体 Kollegium、職能団体、ツンフト、ゲマインデ、商事会社等々)は、ゲゼルシャフト契約によって構成された国家的結合(キウィタス、レース・プーブリカ)内部の第二次的形成体にすぎないとされる。それらの社会形式が、ホッブスによって、アリストテレスのコイノーニアを機能的に解釈することを可能にするシステムという新しい名称を与えられていることは、おそらく偶然ではないであろう。―政治的概念としての市民社会 bürgerliche Gesellschaftに代わって、ますます普遍的で統一的なゲゼルシャフト概念が登場してくるが、この場合この概念は他の点では、すなわち《契約》にもとづいているという点では、語の近代的意味における〈国家〉と同一である」としてゲゼルシャフト概念の変遷を問い、その帰着に国家の存在を見出している(三八)

 「伝統的―自然法的概念用語」から「近世的―理性法的概念用語」への移行は、J・ロックによってなされたとされている。ロックによる思考について、リーデルは「ロックは、一方では全てのゲゼルシャフト形成を契約に立脚させ、完全性という古典的‐アリストテレス的目的理念を(生命と所有の)安全という機能概念に置き換える。そのことによってロックはゲゼルシャフトの伝統的シェーマの大幅な解釈変えを行なっているのだが、他方では、市民社会 bürgerliche Gesellschaft political or civil society を含めて、この伝統的シェーマに固執してもいる。」(三九)と説明し、続いて、ロックが「最初の社会は、夫と妻との間に存在し、これが両親と子供たちの間の社会の端緒となり、やがてこれに、主人と召使いとの間の社会が加わるに至る。そして、それらの社会は全てが合して一つの家族を形成しえたし、通常、実際にそうなった。そこでは、家族の主人なり女主人なりが、家族に固有なある種の支配を行なったが、後に見るように、これらの社会のそれぞれの異なる目的、絆、限界を考えると、これらの社会のどれも、あるいはそれらを全て合わせても、一種の政治社会となるにはいたらない」(四〇)と述べたことを引用している。つまり、ロックはゲゼルシャフト概念の変換に併せて「伝統的シェーマ」についての検討を行っているのであった。 

また、これらの経緯を考慮すると、《ゲゼルシャフト》理論の形成は道徳哲学的考察によって行われたのであり、《純粋社会学》による営為ではないという側面に着目することができよう。自然法的ゲゼルシャフト理論に関して、リーデルは「現代的意味での《社会学》と同一ではなく、自然法的ゲゼルシャフト理論の体系的位置は、実践哲学すなわち倫理学と政治学とを包括する哲学の一部である。実践哲学がアリストテレスの影響下にあるかぎりでは、自然法はこの二つの学問と結びつけられている。自然法が実践哲学のグループから離脱を始めている段階ですら、自然法的ゲゼルシャフト概念は、倫理学的―政治学的基盤を保持し続けている。ゲゼルシャフト理論は、道徳哲学の一部門なのであり、この部門それ自体最も広い意味における政治哲学として捉えられる」(四一)と分析しており、自然法的ゲゼルシャフト理論の政治学への転用を指摘している。このことはまさにゲゼルシャフトの解釈に向けての倫理学的なアプローチの可能性を含むものである。

 リーデルは、フランスの『百科全書』おいて、《Société》という語が《道徳》の項目に含まれていることを指摘して、この概念の道徳哲学的意味のほかに、これとは相対的に独立した意味として、法律学用語としての〈ソキエタス〉という特殊に法的な意味があるとしている(四二)。そして、「〈ゲゼルシャフト〉は、この場合には通例、二人ないしはそれ以上の人々が自らの、経済的あるいはその他の、目的の相互的促進のためにする契約(consensus, pactum)によって基礎づけられる結合をいうが、この結合は、〈同僚団体〉(=ソキエタスのように、時間的に特定されたものとして構成されるのではなく、永続的なものとして構成される結合)と〈コムーニオ〉(=契約的でない物的ゲマインシャフト)から区別される」(四三)と考察しているが、その法的な意味での確固とした区分による概念化はあくまで便宜的であることが分かる。加えて、リーデルは「近代におけるゲゼルシャフト概念の発展の一定段階にとっては、さしあたり純粋に私法的債務法的なこの社会関係が、ヨーロッパの後期啓蒙主義と革命の時代の社会史的変化を記録するモデルとして役立つことが明らかとなるであろう。そのような転用可能性は、伝統的ゲゼルシャフト理論の学問分野としての政治学と家政学の解消から、とりわけ近代の国家経済学と国民経済学の誕生から生じた」(四四)ということを強調している。これは、近代における新たな展開を見た経済学諸派への関連を示唆するものである。

 つまり、政治共同体と市民社会の用語の関連について着目すると、「社会哲学が《ゲゼルシャフト》を家団体へ還元し、《政治共同体=市民社会 bürgerliche Gesellschaft》の《一部》として捉えるかぎり、固有の学科としての《ゲゼルシャフトの学》は存在しえない」(四五)ということが明白である。また、「国家(civitas)と政治共同体=市民社会 bürgerliche Gesellschaft societas civilis)という語は、《ゲゼルシャフト》あるいは《ゲマインシャフト》の全存在を代表しており、それの理論たる政治学は、それに関して可能となる《実践的》学問をすでにそれ自身のうちに含んでいる」(四六)のである。すなわち、近代初頭において議論された人類の《ゲゼルシャフト》(人類社会)は、倫理学的な意義ある内容を持ちながらも、仮説的なものとして提起される自然法の主題を継続していることに限られている様相が窺える。

古典文学に含まれる〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉

 リーデルが行った「概念」の発掘作業は一八世紀から一九世紀にかけてのドイツ文学において使用された用語にも及んでいる。ドイツ文学における傾向について、リーデルは次のように解説している。

一方では〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉という二つの言葉の間にある従来からの緊密な結合が解かれ、他方では、新たに導入された術語的区別をとおしての〈国家〉への組み入れが強調される。しかしながら、ドイツ語の用法においては、政治的深層構造が欠如している―国家は重要性をもたない極小君主国か、意味のない抽象かのいずれかである―ので、この語は時代状況にかかわる文学上の用語においては、著しく生彩を欠き、確たる輪郭を欠いている。多くの場合その語は、比較的緩やかなあるいは外面的な共通性を指している。つまりある一定の目的の達成のために創設される《ゲゼルシャフト》か、あるいは一般に社交的交際における出会い(ないし交わり合う人間)かのいずれかを指している。後者が、文学にとってますます重要性を獲得するにいたり、またこのような交際が人間形成にとって一定の価値をもつことがしばしば強調されるが、それでもこの交際に対する批判は、そこにおいて《ゲマインシャフト》の観点が後退しているような新たな意味領野を開く(四七)

ここには、若干の曖昧さが含まれており、まさしく、「確たる輪郭を欠いている」一様が窺える。また、リーデルは具体的に着目し、『アーガトン物語』や『アプデーラの人々』で知られるヴィーラントの「政治的ゲゼルシャフトの目的と本質的権利についての研究」を取り上げ、そこで、〈国家〉という語は、団体の統一性、完結性を強調しているのに対して、〈ゲゼルシャフト〉という語は、そこに参加する人々の多様性、したがって個人の権利を強調している、と論じている(四八)

 続いて、これらの背景について、「〈国家〉と〈教会〉とのかかわりのなかでは、輪郭は相対的により鮮明となる。ここではこれまで〈ゲマインデ〉と〈ゲマインシャフト〉とを無理なくうちに包括する〈ゲゼルシャフト〉という概念が、意味の広さと多様さにおいて、〔〈国家〉と〈教会〉とに〕共通の上位概念と見なされてきた」(四九)と説明している。しかしながら、「啓蒙主義が進展していくにつれてキリスト教の信仰形式が状況依存性をもっていることが反省され、その信仰形式の歴史的可変性が洞察されていったが、このプロセスにおいてこのような言語上の素朴さが破られる」と捉え、そこに垣間見られる啓蒙主義からの分水嶺に一定の意義を認めるのである(五〇)

 これらの転機において、汎神論的世界観を唱えた作家、哲学者のヘルダーは社会哲学的概念形成における《区別》に際して、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの間の区別を看過しないように要求していることを踏まえ(五一)、リーデルは、ヘルダーの「聖霊のゲマインシャフトは、別のものである。聖霊は国家に依存しておらず、国家によって保護されているわけでも雇われているわけでもない。聖霊は、共同支配を欲せず、単独で支配する。それは聖霊だからである」(五二)という言及を行った後、「キリスト教は教会を統治するのに国家の支配に制度的に関与していたが、ヘルダーは、国家との関係におけるキリスト教を〈ゲゼルシャフト〉と呼び、キリスト教に生命を与える《聖霊》との関係において、キリスト教を〈ゲマインシャフト〉と呼んでいる」と指摘している(五三)。ただし、これに併せて、ヘルダーの区別は、古い聖書的キリスト教会的コイノーニアの公式と《キリスト教徒団 Christengemeinde》の旧来の言い方を再検討するものであったが、一般的な同意を得られなかたのであった(五四)

 同時代の文学の術語問題について、リーデルは、術語上の区別はなされはじめてはいたが、それは徐々に受け容れられ採用されたにすぎず、文学の用語を一瞥すれば、明らかであると分析している(五五)。また、『群盗』、『オルレアンの少女』や『ヴィルヘルム=テル』、歴史書『三十年戦争史』などを著したシラーは、国家としての「政治的ゲゼルシャフト」を、《国家喪失》の状態にありながら政治的団体を形成する余地を残している人間の共同生活の状態から区別しているとし(五六)、「野獣の自由」を「人間の自由」によって克服するという、「《政治的ゲゼルシャフト》は、シラーが《詩的》歴史哲学という彼固有の形式において美化している市民社会 bürgerliche Gesellschaftという理性的理想でもあり、理性的存在者としての人間によって構成されるものである」(五七)として、着目するのであった。すなわち、リーデルは、その人間の実体を「自然的衝動の束縛から解放され、強制的義務に代えて洗練された道徳を定立し、自発的に受容された制限内部で各人に安全と所有および自由な自己発展を保障し、かくて諸個人の目的をゲゼルシャフト全体の維持と促進という一つの目的へと統合させる」存在であると理解する(五八)。そして、シラーが「理性の自由な交換こそが、ゲゼルシャフトを人間社会(人間ゲゼルシャフト)たらしめる唯一のものだ」と言明した点を提示している(五九)。しかしながら、ここにおける人間ゲゼルシャフトという表現について更に探究する余地は、我々認識を共にするところであろう。

 そのような用語と向き合う中、リーデルは、ゲーテが、道徳的価値理念とその実現という観点のもとで、人間ゲゼルシャフトを《規範的に》考察することができたことを挙げている(六〇)。ゲーテの考察について、リーデルは「《政治的》ゲゼルシャフトにとって相互行為の規範は不可欠の条件であり、それなしには政治的ゲゼルシャフトは存立しえないが、個々人によって洞察され引き受けられるべき道徳的根本規範のもとに人間の共同生活を置く《人倫的》ゲゼルシャフトにおいてはなおのことそうであって、その侵害が部分的にすぎない(例えば《家族》制度の侵害)ものであるとしても、ゲゼルシャフトの全体はそれを《非道徳的》と判定するであろうというのである。かくして、ゲーテはその『親和力』において声を強めて叫ばせている」(六一)と言及している。

対して、シラーについては、その構成員が互いに支配なくして意志を疎通しあうことができる道徳的全体という価値理念や、「ゲゼルシャフトの理想」の達成に向けて、人間の美的教育の必要性を説いていると位置づけている(六二)。すなわち、「シラーは、国家とゲゼルシャフトとは、物理的体制、道徳的体制、美的体制において、互いに対応し合い制約し合っているとして、その美的体制のみが、ゲゼルシャフトの規範概念(この場合これは再び〈ゲマインシャフト〉と一致する)を表わすのであると表明している」点が明らかなのである(六三)。また、それは「支配と強制、闘争と抗争が廃棄されることによって、個人とゲゼルシャフトの間に宥和が生じる。個人は全体のうちに見いだされ、全体は個人において維持され確証される。その結果、共同生活の《規範》が《真の》ゲゼルシャフトとして完全に実現され、したがって他の(たんなる可能な)ゲゼルシャフトから区別される」という思考内容が示されるのであった(六四)

そして、リーデルは、再びシラーの言述を引用している。それは、「力学的な国家〔物理的体制〕は、自然を自然によって制御することによってのみ、ゲゼルシャフトを可能にすることができる。倫理的国家〔道徳的体制〕は、個別的意志を普遍的意志に従わせることによってのみ、ゲゼルシャフトを(道徳的に)必然的なものにすることができる。美的国家〔美的体制〕だけが、ゲゼルシャフトを現実的なものになしうる。なぜなら、美的国家は個人の本性をとおして全体の意志を遂行するからである。たとえ欲望によって人間がゲゼルシャフトに入るべく強いられ、理性によって社交的諸原則が人間に植えつけられるにしても、人間に社交的性格を授けることができるのは美だけである。」というものであり(六五)、シラーが、美的国家という理想主義を多分に含む概念を打ち立てていることを見ることができる。

伝統的ゲゼルシャフト理論の批判  

 カントが、二つの術語(ゲゼルシャフトとゲマインシャフト)を同義のものとして使用している点は大変興味深い部分である。また、「他の人間とのゲマインシャフト」や「ゲゼルシャフトへの衝動」といった表現や捉え方がなされており、これらは、手段としてのみならず目的として、自己目的(自然本性)として理解されるべき示唆を含むものである。その例として、美的対象への着目や関心という最高の目的は、他者とともにゲマインシャフトリッヒに(ゲゼルシャフトリッヒに)感受することが示されるのである。しかし、リーデルによると、「カントは、法哲学・国家哲学・歴史哲学の文脈では、多くの場合〈ゲゼルシャフト〉という言葉のほうを用いている」ということであり、ゲゼルシャフトかゲマインシャフトかという点からして、そのカントに対する解釈は多様な方面へと帰するようにと思われる。リーデルはカントの術語使用と概念の認識について次のように説明している。

カントの場合にも、術語の基になっているのは、「多数の人間が一つのゲゼルシャフトへと結合される」契約(pactum social)という図式である。それゆえ、全ての人が(事実的に)持つ何らかの共通目的のために多数の人々を結合するその仕方に応じて、多数の《ゲゼルシャフト》が存在しうる。実現という点ではなく構造という点から見てこれと区別される結合は、その結合自体が目的とされ、その目的を「各人も持つべきである」とされる結合である。それは、カントに従えば、(市民的)法治国家において政治的にのみ実現されうる《ゲゼルシャフト》(人々の間の力学的ゲマインシャフトという意味での)の理想的規範である。この規範は、《支配のない》ゲゼルシャフトを要請するわけではない。反対に、その実現の可能性は万人を結びつけ万人を拘束する支配権力を前提とする。(六七)

しかし、カントは、伝統的―自然法的ゲゼルシャフト理論とはちがって、ルソーの『社会契約論』(カントはこれを〈ゲゼルシャフト契約〉と呼ばず、〈市民の盟約〉と呼ぶ)に刺激されつつ、支配(服従)の原理をゲゼルシャフトの原理(結社)と一致させることができた。だがそのためには、―常に経験の制約下にある―契約を想定するだけでは不十分であり、「各人の自由が他者の自由と共存しうるようにさせる諸法則に従う、最大の人間的自由を持つ体制」という実践的―理性的理念を必要とした。(六八)

 つまり、カントの社会モデルは、法哲学・国家哲学と歴史哲学・人間学という二側面の中にも、用語の近代的(自由主義的)意味における《市民社会 bürgerliche Gesellschaft》の行為図式を、「共同的にまた相互的に」行為する力学的全体の意味における《市民社会》の行為図式を、換言であることが分かる(六九)。リーデルは、カントの「私がここで、敵対 Antagonismusという言葉で理解しているのは、人間の非社交的社交性 ungesellige Gesellichkeit、つまりゲゼルシャフトを恒常的に分裂の脅威にさらす汎通的抵抗と結びつきながらも、そのゲゼルシャフトに入ろうとする人々の性向である。」(七〇)との言説を引用し、「カントの定理が通俗哲学的なゲゼルシャフト思想と、とりわけ歴史哲学的な着想を有するイギリス‐スコットランド道徳哲学(スミス、ヒューム、ファーガソン、ミラー)のゲゼルシャフト思想と、平行関係を有していることは、明白である」(七一)と分析している。

 ドイツ観念論の後者フィヒテは、カントと同じく〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉とを同義的に使用することが多いものの、「社会哲学的概念形成の連関において言語批判的考察を行なった最初の人」という評価が与えられる(七二)。フィヒテは、一七九二年に「概念の混乱」を指摘しており、「今日に至るまで―支配し、言語の内面にまで織り込まれていて、これに終始符を打つための言葉を見いだすことが困難なまでになっている。煩わしい誤解の源泉は〈ゲゼルシャフト〉という語にある」と論じているのであった(七三)

 なお、フィヒテの批判は伝統的ゲゼルシャフト概念の自然法的変容に向けられているのであり、伝統的ゲゼルシャフト概念は、一般に契約関係にある人間と同義的である場合と「特殊な市民契約関係」にある人間や国家と同義的に用いられている場合が交雑している状況を捉えた上で、リーデルは「何らかの契約関係なしに、いわんや市民契約の関係なしに併存し、また相互の間で生きている人間の性質はどういうものなのか」という重要な論点が隠されている点を指摘している(七四)。加えて、リーデルは、「カントは、いかなる経験においても《与えられて》いない規範的ゲゼルシャフト概念を、経験の可能性の条件(法の外的法則に従った汎通的調和)としてのみ理解しようとしたが、これに対して、フィヒテはゲゼルシャフト概念を実践理性の領域から無批判に現実的経験の領域へと転用する」(七五)というようにカントとフィヒテとの明白な比較をしている。つまり、フィヒテは理性的存在者相互の関係をゲゼルシャフトと呼ぶのであり、そのゲゼルシャフトの概念は、我々の外に理性的存在者が現実に存在するという前提なしには不可能であるということである(七六)。 

リーデルは、次のフィヒテの解釈を引用して、フィヒテによるゲゼルシャフトの概念化を説明している。「私はゲゼルシャフトという語について二つの主要な意味を区別したい。一つは、多数人相互の物理的関係を表現し、空間上の相互関係以外のものを示さない。もう一つは、道徳的関係を表現し、相互的権利義務の関係を示すものである」(七七)

 つまり、フィヒテが物理的関係ということで理解しているのは、契約によって結合されたのではない自由な存在者のあらゆる《集合》、「自然的な」集合のことであるとされる(七八)。この論点の周辺に着目し、その意味内容はリーデルによって次のようにまとめられるのであった。つまり、フィヒテにとり、《ゲゼルシャフト》とは、諸個人の総計であって、その非自立性と依存性の表現ではない。ただし、もう一方について、フィヒテは「人間はもちろん、―我々の第二の意味におけるゲゼルシャフト関係つまり契約関係に立つことなしに併存し、相互の間で生きることができる。その場合でも、人々は相互的な権利義務を持たないわけではない。このことを十分明確に規定する人間のゲマインシャフト的法則が、自由の法則なのである。それは、汝の自由を妨げないかぎり誰の自由も妨げてはならない、という根本原則である」と解釈したことがそこに見えるのである(七九)

 よって、リーデルは、フィヒテをドイツ語圏においてこの区別から「ゲゼルシャフトと国家の区別」を初めて導き出した一人であると評価する(八〇)。この区別に関連して、フィヒテの国家とゲゼルシャフト解釈について次のように示している。

  〔国家の〕ゲゼルシャフトとの区別が、歴史的に具体化されているわけである。しかし他方ではその区別は、フィヒテにとって、あらゆる種類の国家に対する敵対を意味している。というのも、国家自身はただ「ゲゼルシャフトの力にもとづいて存在している」にすぎないからである。だからフィヒテは、『学者の使命についての講義』(一七九四年)のなかで《区別》について語るだけではなく、国家を《ゲゼルシャフト》へと《解消》することを要請するのである。そこでいわれているゲゼルシャフトとは、《理性的存在者相互の関係》であって、国家と呼ばれる「特殊経験的に制約された種類のゲゼルシャフト」と混同されてはならない。(八一)

そして、併せて、「国家のなかでの生活は、人間の絶対的諸目的に属するのではなく―、完全なゲゼルシャフトの建設のための一定の諸条件のもとでのみ生ずる手段にすぎない」(八二)というフィヒテからの引用を提示している。ここからも分かるように、フィヒテはゲゼルシャフトを国家より理想的に捉えている。これは「市民契約」の問題と関連しており、同時代に起きたフランス革命によって市民契約を新たな機構へ変更せざるを得なくなったフランス国民の存在が、フィヒテの思考に影響を与えたといえ、当時の時代潮流の典型がそこに含まれることに気付かされるのである。

へーゲル周辺と批判的ゲゼルシャフト理論

 リーデルは、「へーゲルとへーゲル学派における社会哲学は、《ゲゼルシャフトに関する理論》とは原則的に異なった演繹の体系的枠組みを形成している」(八三)と明言する。すなわちそれは、「伝統的な《ゲゼルシャフト法》を更に前進させることではなく、新たな始まり―労働と交換に基礎を置く自立的な行為連関としての、法形式と国家形式から区別される《ゲゼルシャフト》の発見」ということである(八四)。ヘーゲルにとって《ゲゼルシャフト》とは、定義上、語ることと行為することの一切に先立ち欲望と労働とによって相互に結合されている諸々の私人から成立するものであるとされる(八五)。リーデルは、この欲望や労働に関連して、ヘーゲルの思想的背景について次のように説明している。

《労働》は行為の特殊な様態であり、《欲望》は、《私人》としての人間の自然的基礎をなす。両者は、国民経済学という学問とともに、いまや初めてゲゼルシャフト理論の視界へとはいってくる。この領域でのヘーゲルの哲学的功績は、とりわけ国民経済学の《私的な》連関枠組みを公的に媒介されたものとして、その自然の基礎をゲゼルシャフトの定数として理解した点に存する。彼の社会哲学の理論的パラダイムは、契約、つまり語ることと行為することとにおいて際立った特徴を示す理性的な法人格の合意ではなくして、《欲望の体系》なのである。すなわち、欲望と労働および欲望充足の手段から生じ、自ら作動することによって恒常的に再生産される《私人》間の関係の網状組織なのである。(八六)

この説明は、ヘーゲルが欲望の体系に基づいた人間像と、人間が構成する社会像を構想したということを端的に示している(八七)

 すなわち、ヘーゲルにおいては私的目的と公的目的の《弁証法的に》理解された相互関係は、《個人的》行為を包括する《ゲゼルシャフト的連関》の基礎であることが明確になるのである(八八)

当時のゲゼルシャフトに関する議論の根底においては、「旧来の諸々の対立、一方ではゲゼルシャフトと孤独の対立、他方では経済的―私的なゲゼルシャフトと市民的―公的なゲゼルシャフトの対立は消滅し、《社会的なもの Soziale》が個人の労働と欲望の充足の私的再生産の領域として現われる」(八九)という考え方が広まっていたのである。

近代国民経済学の経済モデルの基礎にある、私的なものと公的なもの、《私的悪徳―公益》といった新たな弁証法は、《個別的目的》と《共通目的》の結合にもとづいているのであった。この場合の〈ゲゼルシャフト〉という言葉は、「自分のために行為することによって他者のためにも行為し、他者のために行為することによって自分のためにも行為する二人以上の人々の契約のこと」を意味しているのであった(九〇)。リーデルは、この事態が西ヨーロッパの先進産業国(オランダ、イギリス、フランス)において広く生じていたことを挙げ、「この図式が全体としてのゲゼルシャフトへ転用できるためには、生産と商品取引が家長支配と領主制の限界を越えて国家の問題(=国家―経済)となる、ということだけが前提されるのでは十分ではない。それはまた、生産と商品取引がどの程度国家的な規制から解放されているかということ、すなわち私的であると同時に公的であるような関心事として機能しうるということに依存している」(九一)と説明している。

 西ヨーロッパの先進諸国では、〈ゲゼルシャフト〉という言葉は、権利能力と契約能力を有する諸個人の目的連関として理解されたとして、リーデルは「それら諸個人は、彼らの私的《利害》へと還元され、国家に対立し相互にも対立しあっていた。ここでは、ゲゼルシャフトという言葉は、強制のない通商貿易において自らの利害を表明する市民層の解放のスローガンである」(九二)と分析している。

続いて、イギリス道徳哲学における議論を例示している。「D・ヒュームによれば、すでに諸個人を相互に結びつけまた国家に結びつけるものは、もはや契約そのものではなく、利害とゲゼルシャフトの《必然性》とであり、この《必然性》は、法的には把握しえないにもかかわらず実効的な拘束力を創出するのである」(九三)として、ヒュームによる「我々を政府に結びつける一般的義務は、利害と社会の必然性とであり、この義務は極めて強いものである」(九四)という引用を参照し、国家における義務の位置付けを提示するのであった。

次いでリーデルは、若きへーゲルが研究対象とし、ヨーロッパの後期啓蒙主義の思想を支配していた功用主義・功利論に着目する。効用主義の著作は、「身分的、支配的紐帯から脱した、市民的私人の交易の原理を宣言しており、この交易が、《個人的利害 intérêt personelle 》(ディドロ、エルヴェシウス、ホルバッハ)ないし《自己利益 selfinterest》(フランクリン、ベンサム)をとおして全てのゲゼルシャフト的関係を規制するのである」という傾向が含まれていたことを確認し、(九五)この理解に関連する国民経済学に関心を持ったA・スミスはそのゲゼルシャフト概念の古典的解明者であると位置付けている(九六)。なお、スミスの言説として、「彼(個人)が念頭においているものは、実に彼自身の利益であって、社会の利益であるわけではない。しかし、彼は、自ら自身に有益なことを学ぶことによって、自然的にあるいはむしろ必然的に社会のために最も有益である仕事を選ぶことになる。―彼自身の利益を追及することによって、彼は、しばしば彼が実際に社会の利益を促進するつもりである場合よりももっと効果的に社会の利益を促進するのである」(九七)という、スミスの引用と共に、議論の素地となった国民経済学について、リーデルは次のように述べている。「古典的―市民的な国民経済学は、ゲゼルシャフトを、国家から独立しており、経済的行為に内在的な《市場》の諸法則によって規制される固有の目的主体として理解する。なるほど、ゲゼルシャフトは、相互に競合する諸利害の平衡を保障するべき《自然的秩序》の客観的進行に拘束されてはいる。しかし、この自然的秩序は、ゲゼルシャフト的な無秩序の現象、つまり日常的活動、交換をともなう主体的行為の偶然性を前提としている」(九八)。やはり、これらは国家という政治的な側面だけではなく市場による経済活動を重視し、その活動領域におけるゲゼルシャフトの構想として先進産業国という状況を踏まえた上でなされたという特質を含んでいるのであった。

 このような思考の過程において、ゲゼルシャフトという概念は他の諸概念(〈国家〉、〈ゲマインシャフト〉、〈市民社会〉)と同義ではなく、反対語と化したのである。このような形成体の概念的理解の問題に対するヘーゲルの立場は、両義的であるとされる。

リーデルはその理由を次のように示す。「一方ではゲゼルシャフトは法的な形成体、すなわち法、理性的な(《自由な》)意志の現存在である。他方ではこの意志は、私法的な観点においてのみ契約へと統合されるにすぎない。家族、《市民社会》および国家において実現される、自然的―歴史的制度としてのゲゼルシャフトは、契約の法律上の拘束力、諸個人からなる団体の《共通性》にもとづくわけではない」(九九)。そして、『法哲学』第一八二節の補遺における「国家が様々な人格の統一として、たんに共通性を有するにすぎない統一として表象される場合、それによってただ市民社会の規定が考えられているにすぎないのである」という記述を取り上げ、「〈ゲゼルシャフト〉は〈ゲマインシャフト〉や〈国家〉との同義性を失って、《市民社会》の一契機に、もはや理性的に規範づけることのできない《事実的》基礎としての《欲望の体系》に、引き下げられる」(一〇〇)ことを明らかにしている。すなわち、ここにおいては、ゲゼルシャフトが《欲望の体系》という意味にまで低下したということが重要であり、概念の変遷における一定の帰結であるともいえよう。

 そして、ゲゼルシャフトのこの基礎が社会哲学的な概念形成の問題となる。このことは、サン=シモンとフーリエの思想を取り上げた、E・ガンスによる萌芽を垣間見ることができる。ガンスは、ゲゼルシャフトとしての市民社会が国家にまで高められないことを認識していたとされ、同時にガンスは、普遍的な競争の諸帰結を、つまり「ゲゼルシャフトの中間階級に対するプロレタリアの闘争」を念頭においていたとされる。この闘争に対処するために、中間階級は、ゲゼルシャフト的な組織形式、換言すれば、彼らの《連合体 Assoziation》を求めざるをえないと、リーデルは考察するのであった(一〇一)。そして、リーデルはヘーゲル影響圏におけるゲゼルシャフトの概念化と議論の結果について、周辺に存在するM・ファイトの論点を組み合わせた上で、次のように提示している。

  《連合体 Assoziation》という語はフーリエ的刻印を帯びた語であり、ガンスはこれを〈社会化 Vergesellschaftung〉と翻訳しているが、職能団体(連合体)というヘーゲルの概念に関連している語でもある。四〇年代のへーゲル学徒たちは、彼らにとっての現代的な《社会的》挑戦に答えるために、新たな道を歩む。『ゲゼルシャフトと国家』という講演(一八四三年)おいて、M・ファイトは、〈ゲゼルシャフト〉という言葉によって「ヘーゲルが〈市民社会〉と呼んでいるものを理解しているのではない」と明確に述べている。ファイトによれば、なるほどゲゼルシャフトという概念は国家を前提とするが、国家よりも広い射程を持っている。―ゲゼルシャフトは、「醗酵し発芽し成育していく国家の内容をなすものであり、形式を永遠に自ら生み出す生ける物質であり、全ての人間活動を相互的に補完するものであり、人類の最高目的と進歩とのための容器である」。ここに一九世紀のパトスで語られているのは、社会運動の言葉であり、ゲゼルシャフト概念を絶対化し、それによって再びあの誤った社会ロマンティックに変転しようとする言葉である。(一〇二)

 すなわち、ヘーゲルは、フランス革命に対するロマン主義的―復古主義的反対運動の真っ只中にいたものの、ヘーゲル影響史に見る状況からすると、また、リーデルが「ゲゼルシャフト概念を絶対化し、それによって再びあの誤った社会ロマンティックに変転しようとする言葉」として述べているように、ヘーゲルの市民社会概念については、次世代への余波が見受けられつつも、ヘーゲル以降の議論の中においても不明確なままに残余した点が窺えるのである。

史的唯物論のゲゼルシャフト概念

 リーデルはこう述べる。「《ゲゼルシャフト史》の構想は、一九世紀の中葉にマルクスとエンゲルスの《ゲゼルシャフト学》において彫琢される」(一〇三)。つまり、批判的社会理論の術語に対する評価変更が《史的唯物論》、特にプロレタリアートの政治的役割の理論に立脚して再び論じられたという指摘である。よって、〈ゲゼルシャフト〉という概念は、このような経緯のなかで従来の理解が改められて、《第四身分の概念》として、認識されたという状況が垣間見られたのである(一〇四)

 そして、〈ゲマインシャフト〉という術語およびこの術語と関係を有する〈共産主義〉と〈社会主義〉という政治的な基本的術語に対する新たな評価について論を進めることになる。この議論の起点はシュタインである。リーデルは、シュタインを、啓蒙主義者の政治的社会的には影響力を持たなかった「社会主義的共産主義的な諸体系」とその先駆者たち(プラトン、モールス、カンパネラ等々)とを、一九世紀の社会主義と共産主義の社会運動から区別し、両者の術語を詳しく分化させたとして評価した上で、シュタインが、《自由な人格性》という規範的《理念》と労働の事実的な状態つまり生産諸条件との間の問題とされるべき関係を認識したことを、それは併せて、社会主義の功績に属するということを、分析したのである(一〇五)。リーデルはシュタインの「社会主義は、一定の諸法則と諸要素とによって支配される秩序としての人間のゲゼルシャフトについて語ることを初めて教えたというまさにそれゆえに、社会主義と呼ばれて正当なのである」という言述を引用して、ゲゼルシャフトの理論が社会主義の構想と連結したことを強調するのである(一〇六)。ここで、リーデルはシュタインの捉える社会主義と共産主義の差異について着目する。つまり、それは「シュタインの論じる社会主義は《自由な人格性》の理念を、現存の市民的法治国家の規範体系に直接に結びつけたとされる。これに対して共産主義は、プロレタリアートのもはや《人格的に》媒介されていない階級意識によって、現存の体制を否定するにすぎない。」(一〇七)として、そして、この階級意識は、「最高度の意義を持つ歴史的事実である。もちろん、この歴史的事実は、ゲゼルシャフトの歴史にとってのみ意味を有するにすぎないが」と付言し、階級意識の問題性への着眼を我々へ与えるのである(一〇八)

 これらの観点を踏まえると、マルクスとエンゲルスは、「この《事実》を政治に転用し近代国家史に対して重要性をもつものたらしめたのである」と捉えられ(一〇九)、フランス―イギリスの社会理論家の影響を受け、また同時代のドイツの哲学者(フォイエルバッハ)の影響を受けているとされている。また、第四身分の解放闘争を経て、〈連帯〉と呼ばれる新たな社会性 Geselligkeitの経験、初期の労働運動における社会的熱狂という精神状況が形成されることを推測していたのであった(一一〇)

 この点を認めつつ、リーデルはマルクスの次の言述を引用する。「ゲゼルシャフト、組合 Verein、更にはゲゼルシャフトが目的にしている慰安が存在すれば、人間にとっては十分である。人間の友愛 Brüderlichkeitは、中身のない言葉ではなく、人間における真理である。人類の高貴さは、労働によって硬直なものとなった形態から逆に照明し出される。」(一一一)ここにおける真理としての友愛、高貴さとしての労働という点はマルクスに着目する上で、不可欠な主題であろう。

 リーデルは、マルクスの前提に対応するのは、愛の原理に立脚するフォイエルバッハの社会的人間学であるとしている。すなわち、それは、「この人間学は、〈ゲマインシャフト〉という語のほうを強調し、ただちにこれを《共産主義的な》流行の思潮と結びつける」というものである(一一二)。つまり、フォイエルバッハは「個々の人間は単独で人間の本質を道徳的存在としての自らのうちにもっているわけでもなければ、思考する存在としての自らのうちにもっているわけでもない。人間の本質は、ただゲマインシャフトのなかに、人間の人間との統一のなかにのみ含まれているのである」との理解を前提にして、マルクスへの水脈に身を置いているということである(一一三)。この「統一」を、若きマルクスは〈共同組織〉(ゲマインヴェーゼン)という言葉で表わしているのであった。すなわち、マルクスが示すところによると、それは「人間の本質は、人間の真の共同組織であるから、人間はその本質を活動させることによって、人間の共同組織、つまりゲゼルシャフト的本質を創造し産出するのである。このゲゼルシャフト的本質は、個々の個人に対立する抽象的―普遍的な力ではなく、各個人の本質、彼固有の活動・固有の生命・固有の精神・固有の富である。」ということである(一一四)

 〈共同組織〉という概念は、「日常言語的教養言語的には、元来政治的(ラテン語のres publica)な概念であるが、マルクスによっては脱政治化されて用いられており、人間の最高の結合状態、つまり人間の《類的生活》を示す概念とされている。この概念は、意味的にこれ以上詳細に確定されておらず、また特定の語形(例えば〈ゲマインシャフト〉)に投影されていないが、マルクスはこの概念を国民経済学的なゲゼルシャフト概念に対比している」とのリーデルの解釈を生じさせる(一一五)。マルクスによると、国民経済学においては「人間の共同組織を、あるいは自己活動的な人間の組織を、一面的に交換と行為の局面の下で」捉えているだけであり、この批判に関連し更に加えて、リーデルの引用によると、「D・d・トラシーによれば、ゲマインシャフトとは、一連の相互的な交換のことである。それは、まさにこの相互的な統合運動である。スミスによれば、ゲセルシャフトとは、商業を営むゲゼルシャフトのことである。ゲゼルシャフトの各構成員は、全て商人である。ここに、国民経済学が、社会的交通の疎外された形式を、本質的で根源的な形式であって人間の規定に対応するものとして確定しているのがわかる。」と述べているのである(一一六)

 しかし、マルクスは批判的だった国民経済学のゲゼルシャフト概念を、その術語的な側面として、史的唯物論の仕上げられた言語体系の中へ受容しているとされている。この理解を経て(一一七)、更に、リーデルは、この言語体系への受容について、「《市民的》ゲゼルシャフト理論のこの継受は豊かな結果をもたらしたが、その根拠はとりわけ次の点にあった。それはマルクスが、《人間の共同組織》という抽象的で誇張された言い方を間もなく放棄し、《疎外されていない》ゲゼルシャフト状態をただたんに言葉だけで、喚起させて先取りしようとしたフォイエルバッハと《真正社会主義者》の誘惑と戦った、という点である。言語的戦略は、政治の言語、政治的行為の組織化、一定の制度と組織の内部で語ること行為することにとってかわることはできないのである」と、影響史の一側面と共に考察し、社会主義概念の萌芽における各所の肝要ともいえる論点と性格を明らかにしている(一一八)

 すなわち、マルクスのゲゼルシャフト論はゲゼルシャフトと生産・分配・消費の領域とを関連することで大きく展開しているのである。その概要について、リーデルは次のように示している。

  《ゲゼルシャフト》、つまり生産・分配・消費の領域は、マルクスとエンゲルスによれば、相互主体的な行為連関として構成される。《生産一般》、《一般的生産》なるものは存在せず、存在するのは常に特殊な(《社会的 gesellschaftlich》)関係のもとでの生産だけであるが、これと同様に《普遍的ゲゼルシャフト》なるものもまた存在しない。マルクスとエンゲルスによれば、常に生産諸力と生産諸関係の歴史的に生成した全体(《統体性》)としての特殊な《ゲゼルシャフトの形成体》だけが存在してきたのである。この場合、当初に展開された《ゲゼルシャフトの歴史》の歴史的―発生的連関においては、五つの形成体が区別されている。すなわち、原始ゲゼルシャフト、奴隷所有者のゲゼルシャフト、封建制のゲゼルシャフト、市民社会ないし資本主義的ゲゼルシャフト、そして社会主義的ゲゼルシャフトないし共産主義的ゲゼルシャフトがそれである。〈ゲゼルシャフト形成体〉という言葉は、ゲゼルシャフト概念を歴史的に可変的なものと見る史的唯物論のゲゼルシャフト学にとって基本的術語である。それが可変的であるのは、プロレタリアートの解放によって克服されるべき国家概念が可変的であるのと同様である。(一一九)

 まさしく、マルクスのゲゼルシャフト論は、プロレタリアートの解放という論点からも分かるように、旧来の社会哲学とは別の道を模索することになる。加えて、「原始ゲゼルシャフト、奴隷所有者のゲゼルシャフト、封建制のゲゼルシャフト、市民社会ないし資本主義的ゲゼルシャフト、そして社会主義的ゲゼルシャフトないし共産主義的ゲゼルシャフト」という段階論も含まれ、そこにはマルクス主義的な歴史観を垣間見ることができるのである。

 マルクスは、《国家の死滅》という過程を提示し、パリ・コミューンの政治的組織形態にその実践的な根拠を見出したとされる(一二〇)。リーデルはマルクスの《国家の死滅》という主題とゲゼルシャフト論との関連を次のように解説している。「彼は、国家は従来ゲゼルシャフトによって活力を得ており、ゲゼルシャフトの自由な運動を妨げてきた寄生体として、社会の諸力を引き裂いてきたが、パリ・コミューンはこれら全ての諸力をゲゼルシャフト的な団体に返還したと考えた。〈ゲゼルシャフト〉は、ここではすでに、史的唯物論の政治体系において、〈連合体 Assoziation〉という語に与えられる肯定的価値連関を持っており、そしてこの語は、未来に期待される完全な解放状態を、したがって国家の《終焉》を示すものとされている。」(一二一)

そして、リーデルは、マルクスが「生産者の自由で平等な連合体 Assoziationに立脚して生産〔関係〕を新たに組織化するゲゼルシャフトが形成されたならば、全国家機構は、その時点でそれにふさわしい場所へと移される。つまり、糸車と青銅製の斧と並べて古代の博物館へ」と述べた比喩を引用して、更に、「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件であるようなものとしての諸個人の連合体というマルクス―エンゲルスのゲゼルシャフトのモデルは、相互作用(作用と反作用が等しい)の規則に従って諸個人を結合する市民的―自由主義的な協調関係 Koordinationのモデルから離反してはいない。そればかりかそのモデルは、自己活動的(《自動的》)協調関係を想定することによって、市民的―自由主義的なモデルを凌駕し、これを完成するものである。人間に対する支配は不必要となり、《管理》だけが、つまり物の管理の問題だけが、残されることになるからである」と論理的に説明している(一二二)

 マルクスは、《連合体 Assoziation》に立脚する未来のゲゼルシャフトの構想を、〈ゲマインシャフト〉と表現している。この場合の、〈ゲマインシャフト〉とは、分業・支配・個別化を揚棄(=否定)した状態のことである。リーデルはこのことに着目した上で、「〔他者との〕ゲマインシャフトにおいて初めて、各個人は、その資質をあらゆる方面へと開花させる手段をもつ。したがって、ゲマインシャフトにおいて初めて、人格的自由が可能となる。ゲマインシャフトの従来の代用品、国家等々においては、人格的自由は、支配階級の境遇のなかで育てられた諸個人にとってのみ存在したにすぎないのである。」というマルクスからの引用を行っている(一二三)

 マルクスは、このゲマインシャフトの「代用品」を〈ゲゼルシャフト〉と呼称せず、未来の《現実的ゲマインシャフト》に対立させて、〈仮象的ゲマインシャフト〉(他の階級に対立するある一つの階級の結社)と呼んでいる。この未来のゲマインシャフトにおいては、諸個人は、「自らの連合体のなかでまたそれをとおして、同時に自らの自由」に到達するということである。マルクスは、五〇年代と六〇年代の諸著作においては、〈ゲマインシャフト〉という言葉を用いず、〈共同組織 ゲマインヴェーゼン〉という言葉を用いている点を踏まえて、〈ゲマインシャフト〉という語は制度や本来的に原始的・基本的で政治的なゲゼルシャフト形式という《ゲマインデ》を意味することがここから窺える。つまり、ゲマインデの《自生的な在り方》は、発展した貨幣と交換の経済により解消され、より高い段階で、つまり社会主義的ないし共産主義的ゲゼルシャフト、《自由の王国》において初めて、再建されうるというものであった。

 リーデルはこのマルクスの構想について、「ゲゼルシャフトという批判的概念は、マルクス(とその概念の原型を最初に定式化したヘーゲル)によれば、労働・分業・交換をとおして普遍的となるものである。そして、諸個人の行為をとおして絶えず再生産される欲望と欲望充足のための、手段の体系の総体である」と取りまとめている(一二四)

 マルクスによってなされた思考は、テンニース『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』によって後世への影響を一旦停止させられることになる。テンニースにおけるゲゼルシャフト概念は、「全ての根源的かつ自然的な結合から切り離された諸個人が、相互的利用と対価とを、抽象的理性的に考慮することによってのみ相互的関係に立つところの、社会的意欲と行為の総体」(一二五)を意味しており、また、「交換によって媒介された諸個人間の諸関係の全体性を包括しており、そのかぎりで依然として歴史的状況に位置づけることができる」(一二六)というものである。リーデルは、このテンニースのゲゼルシャフト解釈に対して、「この位置づけとともに、言語批判的にも発生的にも正当化されえない概念的諸区別が現われるという点に、こうした歴史的な状況への位置づけのアポリアが存在する」と注意を与えている(一二七)。すなわち、それは、これらの領域を総括するように思われている著作に対して、長き歴史を有する用語の変遷や概念の意義についての解釈が逸していることを明らかにしているのである。

 リーデルは、M・ヴェーバーとジンメル、フィーアカントとマンハイムといった、新しい社会学の思考が、このアポリアに対して、社会哲学的な概念形成体に再考を行うことによっての解決法を模索したことを記述するが、しかし、これらの試みに対して批判を加える。すなわち、それは、「国家、教会、ゲノッセンシャフト等々のような社会的諸制度を、個人に予め与えられた自立的な実体として理解し、これら諸制度を一般的なゲゼルシャフト概念に組み込むことを、M・ヴェーバーは社会学において未だ克服されていない《形而上学》の残滓と見なした。むしろ、社会学の研究は、特定種類の人間の共同行為のためのこれらのカテゴリーを、《理解可能な》行為へと遍元することに向けられなければならない。社会学の方法的構築のためのこの観点は、非常に確信に満ちたものではあるが、ヴェーバーがそこからもたらした諸帰結は、混乱を招き、更には誤り導くものであった」(一二八)という批判であり、このリーデルの指摘は、確かに概念に対する論考の不足という点からしても、適切であるように感じられる。

 なお、リーデルは、社会学的な概念形成のためのヴェーバーの提言がもはやゲゼルシャフトという基本的概念を含まないとしても偶然ではないとしている(一二九)。つまり、このゲゼルシャフトという概念は、〈ゲゼルシャフト化〉という極端に一般的(《形式的》)な術語に置き換えられるようになった。この術語は、「社会的行為の方向が、合理的に―動機づけられた利害調整や同じく合理的に動機づけられた利害の結合にもとづく場合に、常に使用されてよいのである」(一三〇)という一般的な意味を持ち、曖昧な概念でもあることが分かる。そして、これらを背景として、社会学は、合理的に動機づけられた行為へとつながるゲゼルシャフトの現実的な連関を、批判的に理解するという要請を放棄することになったということが窺えるのである(一三一)

 リーデルは近代社会学がゲゼルシャフトを主題化したことによってゲゼルシャフト概念の脱歴史化の過程がもたらされたと把握し、このことによる影響を次のように考察している。

ゲゼルシャフト概念の脱歴史化の過程は近年の社会学においてはテンニースの行なった術語上の区別やそれについてのヴェーバーとマンハイムによる(暗黙のあるいは明示的な)批判によって始まったが、それはその反面として、〈ゲマインシャフト〉という語がアクチュアルな意味を帯びてくるという《擬似歴史化》と呼ばれてしかるべき事態をともなった。問題なのは純粋社会学の歴史哲学的問題についてのより広い視角であり、純粋社会学を、学問史的にも概念政策的にも、一九世紀から二〇世紀への移行期におけるヨーロッパ的文化状況のなかに位置づけることである。〈ゲマインシャフト〉という語の導入によって、社会学の理論は、はからずも現代の産業的ゲゼルシャフトに対する反動的立場の意に添うことになる。他のヨーロッパの諸言語においては、今日まで〈ゲゼルシャフト〉と〈ゲマインシャフト〉にあたる言葉が同義性を保ち続けているのに対して、ドイツにおいては、〈ゲマインシャフト〉という言葉は、第一次世界大戦後に社会主義、資本主義、および産業主義を同時に《克服》しようと試みたあの国民的―保守主義的民族主義的運動の社会イデオロギー的な主導概念となるのである。(一三二)

 つまり、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトに示されるような二分法的解釈が一般化したのは、ヨーロッパにおいてはドイツに限られるということである。また、日本においても同様である。「ゲゼルシャフト」という用語を耳にする時、先ず想起できるのは、その二分法解釈の典型例であるテンニースの著作である。いわば、テンニースのイデオロギーが確固とした認識として理解されている状況において、我々はヨーロッパの一八世紀以降に見られた多くのゲマインシャフトとゲゼルシャフト概念についての議論に着目する必要がある。しかしながら、テンニースらによる純粋社会学によって、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへという構想や、ゲゼルシャフトの状態を批判し理想的な意味を含むゲマインシャフト概念の提示、というような議論が生み出されたことも看過できない。概念史の系譜においても、同様な議論が含まれていたが、純粋社会学による「共同体」と「社会」に関しての議論と、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの議論が同一の場で論じられるようになったことで、より具体的な研究の展開が可能になったと言うこともできよう。すなわち、概念史の正統や異端を超越した議論が新たな社会学の分野でなされるようになったのである。それは勿論、新たな学問体系の構築として現れたこともあり、また、政治学の分野においても、先述のドイツにおける国民的―保守主義的民族主義的運動の社会イデオロギーとゲマインシャフトとの関連を研究するという方法が垣間見られるようになったのである。リーデル『市民社会の概念史』は、これらの歴史的経緯を詳細に分析し提示するといった極めて重要な地図としての意義を有しているといえよう。

市民社会と共同性―J・エーレンベルク『市民社会論』の着眼と共同性

第二章 市民社会と共同性―J・エーレンベルク『市民社会論』の着眼と共同性  

第一節 ギリシア哲学における市民社会論―プラトンとアリストテレスの狭間  

第二節 キリスト教共同社会―アウグスティヌスとアクィナスの対角線  

第三節 ヘーゲルにおける共同性の問い  

 本章は、前章の概念史とは別位相からの視線として、「市民社会の思想史」というテーマに基づき、市民社会を通史的に捉えている文献を通読し、市民社会論を基礎付ける思想的背景について概観する意図を持っている。特に本章においては、市民社会論が言及され本格的な意味を持つまでの過渡期、すなわち古代から中世における市民社会論に着目する。その主たるテーマは、ヨーロッパにおける古代の哲学・思想の展開と、キリスト教の展開の際に思索された市民社会論である。これらの領域に関して筆者が手を伸ばした文献は、ジョン・エーレンベルク『市民社会論―歴史的・批判的考察』(Civil Society The Critical History of an Idea「市民社会その批判的概念史」)である。

この文献の有意義性は、本章の古代中世を超えて、現代にまで至る市民社会論系譜を論じた広範なる視野にある。エーレンベルク『市民社会論』の概略を一瞥するだけでも、ヨーロッパにおける市民社会論の系譜を概観できる。その中でも、古代と中世に関する論考は、特に重視すべきであると考えられよう。なぜなら、数多発刊されている市民社会論の大半は、古代思想の理解を基礎におくものの、概略的な緒論としてのみ位置付けており、それらの論考の主題は近世・近代以降である。エーレンベルク『市民社会論』もそれらの傾向と同じく、独自の近世・近代以降に関する論考を行うことについては、各研究と同じ轍の上にいる。やはり市民社会の研究は、「近代市民社会」の発生と共に新展開を見せるということは歴史的な事実であり、近世以降の政治学領域が市民社会論に重点を置くことは当然であるともいえる。そして後人が市民社会論の名目で着目する主たる時期は近世・近代以降になることは必然的である。そのため、古代の論究が希薄であったという状況を目にすることができる。エーレンベルク『市民社会論』はこれらの傾向とは異なり、古代・中世の思想について詳細に論じていることは評価できる。第一の論点の中心はギリシア哲学であり、その次の中世キリスト教に関連する論考である。そしてこれは、前章の市民社会概念の系譜にも深い関わりを有するものである。

併せてまた、キリスト教へのこのアプローチはヘーゲルの国民宗教の観点を想起させるものである。よって、それについての論考を次なる節で行うに至った。

 エーレンベルクが序論にて示した『市民社会論』の要約、特に本章が依拠する「第Ⅰ部第一章 市民社会とその古典的形態」、「同、第二章 市民社会とキリスト教共同社会」についての説明は次のようになる。

 

市民社会の起源を、市民社会が政治的に組織された共同社会と理解する古典古代的伝統に求める。当時の主流的政治的カテゴリーにとって、「正しい言動」は、個人的な物事への対応や良き態度というより、市民性を意味した。プラトンは、公共的生活において不変な倫理的中軸を明確にして社会の様々な構成要素を統合しようとしたが、この企図は彼の偉大な弟子の強い批判を受けた。すなわち、アリストテレスの市民社会も市民たちを陶冶する政治的共同体ではあったが、それは生活が営まれる様々な領域や多様な組織に連関し成立するものであった。アリストテレスの多様性や差異性へのこの配慮は重要であったが、彼の市民社会も市民相互の直接的な関係において成立するものであり、市民たちの余暇にもとづく貴族的行為のみが公共善を発見し明確にしえたのである。キケロたちは、法的に保護された私的領域という独自なローマ的観点を導入しギリシア的市民社会概念の拡大を意図したが、共和制の衰退とローマ帝国の崩壊によって古典古代的市民社会論は終焉したのである。(一)

 

政治生活の世俗的観念がキリスト教の市民社会思想にどのように克服されたかを考察する。キリスト教は、人間性の堕罪の条件と堕落・従属とヒエラルヒーの強調によって構成され、とくに人間の諸活動が道徳的行為を導くことを否定した。この思想は強力ではあったが、古典古代的理念に対する全面的な批判は、世界に進出しなければならない教会の必要性と結果的に矛盾した。すなわち、国家は罪の結果であり矯正でもあるというアウグスティヌスの認識は、「ここと今」を軽視しないというキリスト教を超える進歩的観念の先鞭をつけた。更に、トマス・アクィナスは、アウグスティヌス以上に世俗的世界をより十全な倫理的尺度で考察し、様々な秩序体の理論化にもとづいた有機的な政治共同体というアリストテレスの市民社会概念を復活しようとした。すなわち、人間的事象の倫理的内実は摂理によって無効とされるものではなく、政治的に構成された市民社会は、人間の生活にとっていまや本質的であり、人間本性を表現するものであり、神の目的に奉仕するものだとした。アクィナスは、アリストテレスの市民社会概念をキリスト教の教義内で可能な限り活用したが、宗教によって構成された市民社会概念は、長くは持続しなかった。キリスト教的共同社会を理論化する中世的企図が市場からの侵食と国王たちの圧力によって崩れ始めたとき、ダンテ・アリギエリやパドヴァのマルシリウスが、単一の世俗的主権によって形成される近代的市民社会概念を提起した。(二)

 

本章は、上記の要約からも認められるような、卓越したエーレンベルクの行った古代から中世に至る市民社会の考察を依拠として、通史的市民社会論の前半部の一様として紹介していくことになる。

 著者ジョン・エーレンベルク(John Ehrenberg)は、一九四四年生まれであり、ダートマス大学で学士号を、スタンフォード大学で修士号と博士号を取得した。一九六〇年代後期から七〇年代にかけて、市民権拡大や反戦運動を経験した後、一九八〇年以降、ニューヨークのロング・アイランド大学ブルックリン・キャンパスでの政治学教授に就任した。著書には、民主主義思想・政治理論史・マルクス主義に関するものがあり、市民社会論の領域においては次のような論文が挙げられる。The Dictatorship of the Proletariat :Marxism's Theory of Socialist Democracy, New York and London: Routledge, Proudon and His Ade, Atlantic Highlands, NJ Humanities Press ,1996. “Beyond Civil Society,” New Politics winter, 1998. “Civil Society and Marxist Politics,” Socialism and Democracy 1998 『市民社会論―歴史的・批判的考察』の原書である、Civil Society The Critical History of an Idea「市民社会その批判的概念史」は、アメリカ政治学会から、「マイケル・ハリントン賞」を受賞した。(三)

第一節 ギリシア哲学における市民社会論―プラトンとアリストテレスの狭間

プラトンの市民社会論展望

 エーレンベルクは先ず、次のような解釈から始める。「市民社会を政治的に編成された共同社会とみなす古典古代的理論は、古代ギリシアのポリスにおいて初めて体系的な形態をとった。ポリスには、人々が多様な領域で生活しているという解釈を中心に、ギリシア的理論は人間的諸関係を幅広く考察した。愛・友情・教育・結婚・市民性・奴隷の義務・主人の責任・職人の技術、そして分業これらすべてがそれぞれの独自性と相互の連関性において研究された。区別はあるが相互関係による共同体で人々が共同生活を送っているという考察によって、独自性と共通性、特殊主義と普遍主義についての議論が活性化された。体系的な政治理論はこうした議論の中から生まれ、政治的なカテゴリーによって市民社会へ接近する最初の枠組みが与えられた。」(一)

 古典古代的思想は、政治権力が文明を可能にすると一貫して主張したのであり、ギリシア人が自分たち我々と野蛮人の他者との間における区別は、政治的共同体の構成員であるか否かによって、市民社会で生活できる人間とそうできない人間とを分離したという特色がある。よって、人間活動の最も広範で「自律的な」基準としての政治が、人間を直接的な環境から超え出させ、道徳的生活の原則を意識的に確立させるという構想がそこに含まれるのである(二)。エーレンベルクによると、愚か者(idiotes)がその生活を私的欲望によって構成する孤独な人間であるとすれば、自己統治的市民は、理性が導く公共的活動を実現しうるものであったということであり、「われらのみは、公私領域の活動に関与せぬ者を、閑を楽しむ者とは言わず、ただ無益な人間とみなす」という、ペリクレスがアテネ人へ送った演説が典型的なものとして示されるのである(三)

 エーレンベルクの指摘によると、私的利害のポリス的利害への自発的な従属が、市民・兵士の決定的な指標であり、ペリクレスは、市民的精神がいかに強靭なものであるかを一目瞭然に理解していたということであった(四)。つまり、それは「かれらの中には一人として、富を愛づる未練さから卑怯の振舞いをなした者はなく、また貧窮から脱し逸楽を願う心から死をためらう者もなかった。己れの満足よりも敵に対する報復を恋い求めた」(五)という引用から見ることができる。また、「破滅的なペロポネソス戦争を通じて、古代ギリシアの政治哲学は、共通善は公共的な討論によって見出され、公共的な活動によって実現すると主張した。それによって、市民の腐敗は、私的な打算と私的利害の必然的な成り行きであるとみなされるようになった」(六)のである。そして、プラトンは、道徳的共同体という包括的で公共的な生活のための政治理論を初めて定式化したという評価と共に、共通の道徳的課題を解決するために組織される市民社会の強靭さとその危険性とを鮮明にしたということが分かるのである(七)

 エーレンベルクは、プラトンが、当時の政治的・道徳的混乱に抗しようとしたが、そのことを知への理性的接近を立証する絶対的カテゴリーという哲学的領域において行ったことを示し(八)、プラトンが、アテネの軍事的敗北・経済的混乱・政治的不安定・倫理的混乱という状況の中で成人した状況にその原点を見出している(九)。エーレンベルクはこの状況からのプラトンの「昇華」ともいえる言説について、次のように示している。

政治の道徳的原則を確立しようとする彼の意欲は、当時の不安定と無秩序状態に対する必然の反応だった。彼は、政治的知と政治権力を最優先させることによって市民社会論を形成した。その特質は、私的利害や非政治的領域に対する激しい嫌悪にもとづくとともに、真理という統一化された概念に依拠していた。しかし、プラトンは国家から切り離された個人・美・善もしくは社会的生活のあらゆるカテゴリーを理論化しえなかったゆえに、その市民社会論は、市民社会を活性化するべき、まさにその普遍性への方向づけによって基本的な誤りに陥った(一〇)

 

エーレンベルクは更に、「ソクラテスのトラシュマコスとの初期の討論によって、私的利害は幸福・正義・市民生活のための十分な根拠づけには決してならないという、『国家』の中心的主張が決定づけられることとなった。合法的な権力・権威・知は、それらが行使される人々の幸福のためにのみ存在する」として、医者の技術は病気を治療することにあり、船長の権威は船員のために行使されるように、「一般にどのような種類の支配的地位にある者でも、いやしくも支配者であるかぎりは、けっして自分のための利益を考えることも命じることもなく、支配される側のもの、自分の仕事がはたらきかける対象であるものの利益になる事柄をこそ、考察し命令するのだ」という文面を見出している(一一)。すなわち、政治権力は、ポリスとその市民の幸福に奉仕するために存在し、市民社会は、国家を組織する諸原理との関係においてのみ理解されるという視点がここから分かる(一二)

 続いて、市民社会の根源にある生活とそこに潜む他者との関連性について、「人々は共同体の様々な領域で生活しており、それぞれの領域は固有の編成論理をもっていることを、プラトンは知っていたということである。彼が各領域の存在を理解したことは重要なことではあったものの、それは彼が全体性を包括的に理解しようと努めたからにすぎないとされる。人間の身体あるいは船の船員のように、市民社会は多様な技術をもち、様々な仕事を行う様々な契機から成り立っている。市民社会は、衣・食・住という人間の物質的必要に依存している」として、プラトンの理論への、明確なアプローチがなされている(一三)

 そして、プラトンの思考を踏まえて、エーレンベルクは「自然的本性にもとづく社会的分業こそが、正義・政治・市民社会についてのプラトンの理論の中心に位置している。理性という優れた徳に導かれることにより、正義は各部分を全体の幸福に奉仕させるが、それは各部分の性質がそれぞれにふさわしい役割を果たすことにおいてである。家族生活・友情・政治的事象いずれにしてもそれに変わりはない。プラトンの理論は機能的なものである。すなわち魂・身体・国家の至福は、それぞれの構成要素がそれにふさわしい機能を発揮する調和にもとづくとして、彼は、たえずこれらの相互の諸関係を考察した。―正義と健全のためには、連関する諸契機がそれぞれの自然的本性にふさわしく機能する、社会的分業とその結果生じる支配―従属関係の理解が必要だとしたのである」(一四)と考察している。よって、プラトンが社会的分業に着目していたことが分かる。

 なお、プラトンは国家的統一への一貫した探求を持し、国家と市民社会について理論を活性化させ、政治的病弊は個人を病気にするのと同じものによって発生するという論点を提供したのであった(一五)。これは、社会不安が国家を構成する諸契機がそれぞれの本性に応じて機能することができず、その結果全体の安寧が崩壊する状態に基づいているという観点に従ったものである。

つまり、プラトンの捉える政治理論は、社会的・政治的混乱の根源が何であるかを確定しなければならないという目的を有していたのであった。そして、人々の生活が非政治的領域で営まれていたとすれば、市民社会を統一的全体へと組織する政治的諸原理の発見がこれまで以上に重要となったのである(一六)。加えて、国家的統一は魂にとっても重要であったとされる。これはプラトンが、幸福な人間は人生の究極目的を知ることによって自らを方向づける、というソクラテスの言明を依拠したことを意味している(一七)

 『国家』は、ポリスの危機の原因である遠心化傾向をすべて求心化しようとする、プラトンの試みの表れであったといわれる(一八)。この試みについて、エーレンベルクは「彼が探求した国家的統一には、私的利害と欲望とを意識的に統制することが必要であった。富への欲望こそが抗争の原因となるので、安定というプラトンの禁欲的観念は、すべての享楽的な不節制が除去されることを求めた。金持ちと貧乏人双方の活動をかきたてる私的利害は、市民社会の結合を衰退させる。一方は贅沢と怠惰と、仕事本来のきまりの改変をつくり出し、他方はそういう改変のほかに、卑しさと劣悪な職人根性をつくり出す。そして両方とも破滅的な傾向をもっている」とプラトンへの解釈を含め論じるのであった(一九)。そして、プラトンが探求した国家的有機的統一に着目した上で、自己の関心に従事する様々な力に起因する無秩序状態の危険性という論点が見出されるのである。

 プラトンは利害関心がポリスの指導者から一般大衆にまで拡大すると危惧している。つまり、「多様性、不似、調和なき不均衡が生じたならば、どこにそれが生み出されようと、必ずや常に戦争と敵意を生むことになる。まことに、内なる争いごとは、それがいつどこに生じる場合にせよ、このような系統のものであると、言わなければならない」ということである(二〇)。エーレンベルクによると、「プラトンが確信したのは、野心・強欲・競合・競争が市民社会に対する絶えざる脅威ということであり、それは、共同行為が欠如するとき、私的欲望を外的制裁によって抑制することが困難だからである。武力は重要であるが、市民社会は結局のところ思考様式に依拠する。不健康な国家は病んだ魂のようなものである。なぜなら、調和の欠如によって国家は個人的目的に向かい、共通善に対して無関心になるからである。あらゆる偏向した人格や政治形態の背後には、私的な争いが存在する。なぜなら、私的な争いが理性という優れた徳を損ない、精神の衰弱と内乱を助長するからである。魂と市民社会とを一つにする媒体は、世界を組織する唯一の真理を認識する、理性の統合力なのである」(二一)ということであり、プラトンの危機意識が改めて露見される。そのプラトンが持した危機意識と、プラトンが解釈した市民社会への関心や共同行為の必要性との関係について、エーレンベルクは次のように示している。

プラトンの私的欲望に対する懐疑は、彼の検閲論にもおよんだ。『国家』は絵画を攻撃し詩を追放したが、それは絵画や詩が感情に迎合し、真理を主観性の中に解消し、理性の優れた力を根底から掘り崩すからである。―プラトンの目的は常に明確であった。つまり「我々が国家を建設するにあたって目標にしているのは、ある一つの階層だけが特別に幸福になるように、ということではなく、国の全体ができるだけ幸福になるように、ということなのだ」。市民社会は、真・美・善に知・権力・国家を連携させた。プラトンの人間経験のすべての側面を一定不変の善のもとに統合しようとする意欲は、国家による最初の体系的な検閲政策の擁護にまでおよんだ。多様性の認識や社会的分業についての優れた理解にもかかわらず、彼が構想した市民社会は凝固した国家的統一であり、沈黙の中の安定に終わったのである。(二二)

こうした方向性は無視しえない制度的帰結をともなうこととなった。指導者層は、「子供のころから観察して、誰と誰が自己の信念の、すなわちそれぞれの場合に、国家にとって最善であると思う事柄を行なわなければならぬという信念の最も優れた守護者であるかをたずね求め、そうした守護者」に確保されねばならない。絶対的な倫理的知が、少数の高度に訓練された専門家の中にのみ存在するとすれば、民主主義は平凡・寛大・無秩序のかどで非難されることになる。しかし同時に、誰でもが女性でさえ、守護者になりうることが、初めてプラトンを読む人を驚かせるプラトン思想の特質である。これはまさに能力主義社会なのであった。すなわち、政治的指導層とは、知による権力の自己犠牲的同盟の表現であった。有名な「洞穴の神話」は、哲学王が自らの意志に反して政治的権力を引き受けざるをえないことを示したが、合法的な政治的権威は訓練と知恵以上のものを必要としたのである。(二三)

 

 すなわち、『国家』の指導者を指向したプラトンの共産主義は、財産・家族・その他の私的生活の諸制度が常に私的利害を追求する方法論を含み、それが指導者を全体への客観的な関心から離反させることを促す可能性があったということである。エーレンベルクはこの構想について、「守護者たちは、最低限の必要を超えた私的財産をもたず、家族への永続的な愛着を捨て、食物を仲間の市民から受け取り、共有して食べ、兵士のような禁欲生活を送るべきとされている。市民の腐敗が私的利害とともに始まったとすれば、守護者にはどのような私的生活もありえなかった。市民社会を組織し防衛する人々は、市民社会の一部分にはなりえなかった」(二四)と示している。

 プラトンは、国家的統一を志向する中で、市民社会が様々な技術と素質をもった人々の活動を調整することを認識していた点は確かに明白である(二五)。つまり、分業への理解が彼の政治的・人間洞察的理論の中心にあり、プラトンの認識論もそうであるが、エーレンベルクは、この内容について、多様性・様々な領域・社会的分業などは、問題がただ設定されるだけであったと評する。加え、流転するものは真理を構成せず、感性的事物という規定されざる変化する必滅の世界は、永遠で不変の「イデア」の外的な現れにすぎないとしている(二六)。すなわちそれは、イデアについての知恵が平和と正義への鍵であり、市民社会は、「イデアとしての不変的な基盤の上に組織される場合にのみ、その倫理的な可能性が実現される」のであり、そして、「大半の人間は甘んじて洞穴の影の中で生きているが、指導者たちには、道徳的な可能性は快楽に還元されないという理解が必要である」ということである(二七)

 エーレンベルクは、プラトンが、中心から離反しようとする様々な私的利害の牽引力に対して、政治を道徳的知恵と欺き生活の中に根拠づけようとする公共哲学によって対抗しようとした点を挙げている(二八)。そして、「『国家』は、結局は患者を殺してしまう治療法となった。人々は多様な領域で生活し、市民社会は様々な機能の複合物なのであるが、このことが、プラトンに、公共的生活のための不変な中軸を提供することをいっそう重要だと思わせた。国家的統一への彼の意欲は、唯一の善に依存していた。そして、そのことが、多様な契機からなる統一的な公共的な生活は統合的な道徳的目標を必要とするという彼の偉大な洞察を、逆に帳消しにしてしまった。市民社会は政治権力によって統合できるという彼の主張は、社会的編成は政治的領域の内部に限定されることを前提していた」と説明し(二九)、国家統一への意志に関わる善と市民社会の構成とが深く関係していたプラトンの構想を提示しているのである。

 

アリストテレスの市民社会論の思考と展開

対して、アリストテレスの『政治学』冒頭は、人々は様々な領域で生活しているという理解とともに政治は、諸領域の中でも最も包括的なものであるという強い主張を提示した(三〇)。エーレンベルクは、「社会編成の過程の中にある諸領域はそれぞれの固有の論理をもつが、これらの領域が奉仕するより包括的な領域との関係においてのみ、十分に理解することができる。アリストテレスの、すべての従属的な諸組織は国家において頂点に達するという古典的な見解は、政治的に組織される共同体としての市民社会への方向に枠組みを与えた」(三一)と評価している。そして、アリストテレスの言述を次のように引用している。「国は、現に我々が見る通り、いずれも或る種の共同体である、そして共同体はいずれもある種の善きものを目当に構成せられたものである。というのは、凡ての人は善きものであると思われるもののために、凡てのことを為すからである。だから、共同体はいずれも或る種の善きものを目指しているが、わけてもそれらのうち至高で、残りのものをことごとく包括している共同体は、〔その他の共同体にくらべて〕最も熱心に善きものを、しかもすべての善きもののうちの至高のものを目指していることは明らかである。そしてその至高のものというのが世に謂う国、或いは国的共同体なのである」(三二)

 アリストテレスは、人間の結びつきは物質的な必要に根ざしており、社会的分業が市民社会の中軸だとするプラトンの理論を共有したという点は確かに興味深く、複数の論点を提供する。つまり、その一つが家族の解釈についてであった。これは古代世界の基礎的な生産単位であり、アリストテレスの構想する国家の土台として認められる部分であろう(三三)。「しかし、アリストテレスは、国家と家族の従属的な諸領域の分析にはわずかな時間しか費やさず、彼の真の関心はポリスにあることがやがて明らかになった。すなわち、人間はなにごとかをする前にまず食べなければならないが、人間の究極目的は食べることに終わらないと考えたのである」とエーレンベルクは留意する(三四)。つまり、この議論を越える上で、「アリストテレスは、すべての人間共同体の中でポリスが最も包括的で至高のものであるとみなすようにいたった」ということである(三五)。そしてアリストテレスの主張として、「各個人は国に対して、ちょうど部分が全体に対するような関係においてあるであろう。かような共同体へ向かう衝動は自然に凡ての人のうちに備わってはいるものの、人間は完成された時には、動物のうちで最も善いものであるが、しかし法や裁判から孤立させられた時には、同じくまた凡てのもののうちで最も悪いものである」(三六)という言述を引用し、共同体に属さないことによる孤立への危惧がそこに示されることを明らかにしている。

 このような状況下、政治的討議と公共的活動を通じて倫理的生活のための独自の能力を実現できる人間像を見出し、国家はこの能力が表現されうる唯一の領域ではないという論点が導かれるのである。プラトンが「市民社会のすべての領域を厳格に組織しようとした」のに対し、アリストテレスは、「たとえ限定されたものとしても、組織化過程における従属的な諸領域に固有な可能性を、プラトンよりはるかに容認しようとした」のであった(三七)。エーレンベルクは「プラトンは、アリストテレスの家族が合法的かつ道徳的な三つの関係、すなわち主人と奴隷・夫と妻・親と子どもの関係によって構成されるという主張に同意できなかったに違いない」(三八)と述べている。

 また、エーレンベルクは、「アリストテレスにとって、奴隷制は、ギリシアの経済生活におけるその重要な機能にもかかわらず、人種的カテゴリーでも生産的要素でもなく、むしろ家族経営のシステムであったとされる」とした言説に同意し、「奴隷は、主人を家庭労働から解放することによって、主人の成長に貢献した。主人は、奴隷自身では獲得できない合理的思考と道徳的指導を与えることによって、奴隷の成長に寄与した」(三九)と解釈している。

 つまり、アリストテレスは、奴隷制を本来的に「支配的契機」と本来的に「被支配的契機」との関係として捉えたのであり、奴隷制は、主人と奴隷双方の利益のために、また両者それぞれの自己存立のために存在したと理由付けたのである(四〇)。エーレンベルクはこの解釈に際して、アリストテレスからの引用を行っている。すなわち、それは「部分と全体や肉体と魂にとっては同一のものが利益をもたらすのであるが、奴隷は主人の一部であって、その主人の肉体から独立してはいるものの、いわばその有魂の部分のようなものであるからである。それ故にそれぞれの自然に要求されて互いに結ばれた主人と奴隷との間には共通の利益もあり、お互いどうしの愛情もある、しかしこうした仕方によってではなく、法により、力によって結ばれた主人と奴隷の間には以上のものとは全く反対のものがある」という内容である(四一)

これに加えて、アリストテレスが、夫婦間や親子間の権威を、相互に利益となる関係として、また、真に道徳的目的に役立つ必要性と不平等性との関係と捉えたことが見出せるのである(四二)。ただし、家族が生産単位であったとしても、一切が共同生活のために営まれたため、家族において交換が役割を演じることは稀であり、生産は使用のために行われ、剰余物はほとんど生まれなかったとされている(四三)。つまり、エーレンベルクによると、交換は村落において行われ、最初は単純な物々交換という形をとったが、その後、生活の必要以上の蓄積が可能になったのであり、その結果大きな問題が発生したということである。すなわち、それは「個人的な蓄積や私的利害は市民社会を転覆させる」というプラトンの思想に近接した意味を持っているのである(四四)

 換言するなら、それは経済の問題であるともいえよう。エーレンベルクはこの経済という主題と市民社会との関連を次のように説明する。

経済事象は他の諸関係から区別されず、経済活動は純粋な「経済的」理由によって営まれないという点において、経済は社会的組織形態の中に「埋め込まれて」いた。人々は、自分たちにとっての必需品を、本質的に「経済的」とはほぼみなされない宗教的・血縁的諸制度をとおして生産した。経済事象は、当然社会を実質的に組織する基軸的なものだったが、資本主義が自らのために経済的利潤を追求するという明確に近代的傾向へと勃興するまでは、明白に独立し目にみえる形をとることはなかった。その時点までは、市民社会の物質的発展もそれを分析する理論的諸活動も、「経済的」制度や価値とそれ以外の制度や価値との間に明確な区別を認めなかったのである。したがって、古典古代の市民社会論は、市民社会を政治権力に組織された共同社会とみなしたのである。(四五)

遠隔地間の物々交換は、貨幣をただちに必要とする交換関係を広範に生み出すことになるが、アリストテレスは、このことがいかに腐敗を生み出すものであるかを認識した。貨幣が長距離間の商品交換や富の蓄積をいったん可能にすると、利潤のための小交易が不可避となる。貨幣の獲得が、交換の目的として、必要物の充足に取って代わる。商業と交易に対するアリストテレスの懐疑は、蓄積される貨幣の量には本来的な限界がないという懸念にもとづいていた。富のための富の追求が、市場以前の道徳的秩序を破壊する、「経済的」活動の目的になる。この懸念が、アリストテレスの高利貸しと利潤に対する有名な影響力をもつ批判を導いたのである。家族経営の技術は、家族の直接的必要物によってほどほどに制限されていた。だが、富の追求は、人々を直接に自然にもとづき家族の必要物の獲得に向けさせていた、「自然的」技術と富の諸形態から踏みはずさせた。商業と交易によって、富の獲得ということが生活を維持するという道徳的目的と分離されたのである。「生み出されたものに食料を供給することは自然の仕事である」が、富の追求は人間活動の道徳的可能性をゆがめた。なぜなら、富の追求は、そのための命法にすべての徳を従属させるものだったからである。(四六)

 これらに見る経済原理および貨幣論への触手は極めて有用である。特に、富の追求という観点から人間活動を規定するとき、その性格も含めて様々な見地や議論を与えてくれる。また、経済学と市民社会論の関連へと着目する際の必要不可欠な素材を多く含んでいる。

加えて、エーレンベルクはアリストテレスからの引用を行う。「享楽は過剰によって可能であるから、彼らはかかる享楽に関係のある過剰を作り出す術を求めるからである。そうしてもし取材術によって享楽をもたらすことが出来なければ、それの出来るものを何でもかでも自然に背いた仕方で用いながら、他の原因によってそれを試みる。例えば勇気のはたらきは財を作ることではなくて、大胆を作ることである、また将軍術や医術のはたらきもそうしたものではなくて、前者のは勝利を作ることであり、後者のは健康を作ることである。しかるに或る人々はこれら凡てのものを、財を作る手段にする、彼らはこれを目的であるかのように考え、凡てのものはこの目的に仕えねばならぬかのように思うのである」(四七)

 すなわち、アリストテレスは商業に対する懐疑を多面的に想起していたのである。交換による財の取得はすべてこれには利息と利潤が含まれるが「他の人間を犠牲にして」営まれるという、不自然なものであるという見解を示しており、貨幣は交換手段として成立した上で、貨幣は価値の蓄えを意味したのではなく、貨幣の獲得は活動と報酬とのあるべき関係を断絶する側面があるという点を再確認させるのであった。また、エーレンベルクは「貨幣は富の正当な分配を不可能にし、私的欲望を危険な命令の位置にまで高めるのであり、貨幣が道徳的に危険なのは、貨幣が他の活動領域を巻き込み、それらの領域を異質の全体化の論理に服従させる」という分析を踏まえて(四八)、「アリストテレスの利益のための経済活動に対する非難、使用のための生産の擁護は、ギリシアの政治思想における核心的表現であった。経済的動機がそこに埋め込まれている社会的諸関係から分離される傾向は、政治の道徳的性格の主張によってのみ救済できた。商業や交易と異なり、政治は従属的諸領域の論理を否定しない。アリストテレスの目的論によって、人間活動の一切の部分的諸領域を道徳的に成就させるものとしての政治が理論化された」というアリストテレスの思考の展開を表すのであった(四九)。そして次のような説明によってアリストテレスにおける私的利害と共同体に関わる目的論について示すのであった。

 すなわち、アリストテレスは、様々な忠誠的行為や多様な共同組織を考慮しようとしたが、とくに深くは探求できなかった。交換・貨幣・利潤・利息を軸として私的利害が高まっていくことは、社会的均衡をますますもろいものにし、破壊するものであった。彼はこのような社会的均衡に、共同社会の道徳的で分別ある公共的生活のための希望を託した。アリストテレスが捉える家族は、支配と不平等の関係によって構成される奴隷制・家長制・親権の領域であったが、家族は人間存在の幸福にかかわるかぎりで道徳的目的に役立った。家族はポリスほど道徳的活動の領域を含まなかったとしても、その道徳的位置は、より包括的な共同体に対する目的論的関係に由来した。アリストテレスはこうした考察によって、国家についてのプラトンの理論に対する重要な批判を行った。その批判は市民社会を新しい方法で概念化するための批判であった(五〇)

 

エーレンベルクは、これらの点に基づき、「アリストテレスは、市民社会を統一化しようとするプラトンの方向が、政治的共同体の可能性を破壊すると確信した」と評している。(五一)

 そして、当時の政治体制に見る「ポリス」について論を進める。ポリスを、家族の外部にある市民の公共的生活を理解する重要な対象として捉え、個人や家族が高度な物質的・道徳的統一に依存している状況において、ポリスは「必然的に構成員の間の能力の差異を要求するのであり、そのことが人々をお互いに相互依存させ、様々な奉仕活動の相互交換による、いっそう高度なより善い生活を達成させる」というアリストテレスの言述を重視している(五二)

また、プラトンが、国家が社会的分業に依存するという彼の洞察に含まれていたものを追求しなかった点を挙げ、プラトンは、『国家』で論じた守護者たちに私有財産と家族生活を認めなかったことを指摘している。その理由として、私的利害のあらゆる表出が市民社会を組織する指導部隊の能力を限定することを恐れたからであるとした。そして、アリストテレスとプラトンを比較し、いずれも利益のための利益の追求に対して懐疑的であったが、私的生活の排除によってはいかなる公共的な目的も実現されないことを確信していたと評している(五三)

 公共的なものが私的なものに依存し普遍的なものが特殊的なものを基礎とし、また各々の家族単位を基礎としていた(五四)、アリストテレスの混合国家への視点と構想は、エーレンベルクによって次のように特徴付けられている。つまり、「家族が必要性という私的領域にあるとしても、それは思考し活動する市民の自由な公共生活を可能にする。不十分な部分も十全な全体に役立ったように、不十分な自由も自由に役立つ。不平等が家族を構成するように、平等が公的領域における名誉・卓越・栄誉を達成する。それゆえ、ともに生活するすべての人間集団が必ずしもポリスを構成するわけではない。市民は市民社会と国家の基礎的要素だが、彼らが相互に異質なのは必要性と特殊性を満足させる私的領域を根拠にしているからである」(五五)と示すのであった。

 更に、国家と共同体への問いに関連して把握され得ることとして、エーレンベルクは、「ポリスが様々な諸契機の統一であるとすれば、すべての市民に共通の唯一の卓越性は存在しない。徳とは、活動の決定的な道筋を常に生み出す純粋な統一であるというソクラテスの断定をもとにして、プラトンは、国家と個人・公と私・政治学と心理学とを融合した。異なった状況にはそれぞれにふさわしい徳があるというアリストテレスの主張は、プラトンの市民社会と国家の理論の核心を批判するものだった。市民についてのアリストテレスの有名な定義は、自覚的な公共的活動と道徳的な自己決定を強調した」(五六)という解釈に繋げている。

つまり、国家は善を促すために存在し、国家こそ、そのための唯一の共同体であること、および市民性は道徳的概念であり、誕生・居住・法への共通の服従以上のものによって規定されるということが分かるのである(五七)。これらの論考に基づき、エーレンベルクは改めて、市民社会論の原点とギリシア哲学との関連に着目して、次のように説明を行う。

市民社会は、各人の本性にふさわしい領域で活動する様々な構成員から成り立っている。しかし、アリストテレスは、私的判断や私的利害を国家的統一と公共生活の基礎として認識しようとしたにせよ、プラトンと同様に私的なものの危険性を自覚していた。人々は様々な理由から共同するが、様々な共同組織を等級づけ分類するのは可能である。必要性によって我々は家族の中で生きざるをえないが、「善き生活」の探求が我々を政治の場面へと導くのであり、それが、プラトンが機械的に強制しようとした共同性である。(五八)  

アリストテレスは有名な国家の分類―共通善が君主制・貴族制・「混合政体」という三つの正しい形態につながるとすれば、私的利害や階級利益は間違った国制に共通する。つまり、「君主制は独裁者の利益を目標とする独裁制であり、寡頭制は富裕者の利益を目標とするものであり、民主制は貧困者の利益を目標とするものであって、それらのうち、何れとして、公共に有益なものを目標とするものではない」。不正とは私的利害によって引き起こされる争いだとするプラトンの観念は、アリストテレスの政治的段階化の中でその制度的表現をとった。常に改革者であったアリストテレスは、市民性をささえる制度的枠組みを探求したのである。(五九)

 エーレンベルクは、市民社会は、様々な家族・階級・職業・誕生の環境・価値秩序などから成立しているとして、アリストテレスが、プラトンを超えて、混合政体は社会生活に固有な多元性を認識するときにのみ強靭になると語ったことを加えて捉えたのである。(六〇)

また、これらの分析に基づいて、アリストテレスは多様性の認識によってプラトンを超え出ることができたと明言し、そのアリストテレスが見出した市民社会として、国家における非政治的領域の生活が政治的に組織された共同体であり、その過程において、非政治的領域に限定された倫理的可能性を充分に表現するものとして理解し、そこに有意義性を与えたのであった(六一)。エーレンベルクは「プラトンの機械的統一への意欲は社会的分業を抑圧したが、にもかかわらず、社会的分業はプラトン国家論の中心に位置した。アリストテレスは様々な領域をポリスという共同生活の中に編成しようとした。プラトンとアリストテレスは、政治社会の構成員は集団的関係性の中で生活を営み、国家は共同体の共通の道徳的生活を表現するという点で一致していた」と説明し、政治が「善についての卓越した学問」であったのは、政治が私的利害の衝突を、公共的利害の普遍性によって緩和するからであったと的確に説明を加えている(六二)

 そして、エーレンベルクは、これらに見るプラトンとアリストテレスの市民社会論について、「多様性を含みこんだアリストテレスの市民社会論は、プラトンの市民社会論より洗練されたものであった。しかし、市民性についての彼の理論は、青年時代の貴族的感性に強く影響されたものだった」として、また「ポリスにおける自由な人間とは、友人や同僚とともに討論に参加し討議する人間であり、直接的な公共的相互活動は、道徳的に高められつつ人格的に充実してゆくその環境である。公共善への善意に満ちた冷静な方向づけによって、十分な財産と閑のある人間は、腐敗した物質的関心から脱して自由に公共的問題に参加しうる」(六三)というように解釈している。そこから市民社会の根本部に関する状況を抽出している一様が垣間見られるのである。しかしながら、具体的な市民社会論の起点としてのアリストテレスの言説も、アテネの貴族的共和政体の中において断絶したというメランコリックな事実に、我々は向き合わなければならないのである。

 

第二節 キリスト教共同社会―アウグスティヌスとアクィナスの対角線

キリスト教共同社会とアウグスティヌス 

古代から中世に至る市民社会論の変遷について、エーレンベルクは、「自律の理念から従属の承認に至る道筋」として捉えた上で(一)、ギリシアの思想家たちは、倫理と政治が賢明な人々の理性的行為に基づくとして、彼らの目的は道徳的自律と公共的に認められる生活であったことを再確認している。そして、「徳」は啓示的な真理ではなく、外的な要求も人間の信念や行動の基準とはならなかったとして、人々は彼ら自身が生み出した道徳原理に従って市民社会を十全に組織できるとの見解を示した。またこれは、市民としての活動は、「道理に適う討議・思慮ある立法行為・自発的服従を兼ね備える」というアリストテレスの言説に由来していることが分かる(二)

 アリストテレスから数世紀を経た、初期キリスト教における市民社会への関心はどのようなものであったのか。この問いについて、初期キリスト教は、国家の問題に対して相対的に無関心であり、それは一時的でいずれ消え去るものと捉えていた可能性は高いが、キリスト教徒が神の国の到来を待つ構図が形成されるにつれて、教会の権威者たちは信徒の平和を実現させるための方法を思考する必要性が高まったということに関係している(三)。更に、教会がローマ帝国との相互関係において、「一方では強権的な政治権力の正当化を推し進め、他方では教会を市民社会の中心に据える権力行使の方向を定めさせた」ことが史的解釈として認められるのも確かであろう(四)。そして、「原罪の教義によって、多くの教父たちは、国家が、神によって与えられた人間の堕落した本性の結果であると結論づけようとした」(五)のである。ここの地点から市民社会ならびに国家への関心が必然的に生じることになったといえる。    

 エーレンベルクは「ギリシア人が政治を人間に本来的なものと結論づけたとすれば、教会は、政治とは戦争・奴隷制・私有財産と並んで完全に因習的な堕落の結果と位置づけた。後期ローマの神聖君主国という概念は、異教的東方に由来する諸概念を援用して帝国の秩序を再建する最後の試みの一つであったが、最終的に放棄されたのである」というように説明し、「しかし、このことは、かつてのギリシアのポリスやローマ共和国にみられた人間中心主義への回帰、つまり宗教は市民社会編成の一要件にすぎないという認識への回帰を意味しなかった」(六)と視線を置き換えて解釈している。では、どのような形態としてもたらされたのであろうか。それは、例えば、コンスタンティヌス帝のキリスト教改宗による教会と国家の融合によって、政治的共同体は部分的な制度に転換したことが挙げられる。ここから、異教徒において同様の形態が見られてはいたものの、それ自体がキリスト教的国家と公言されるようになったという経緯が窺えるのである(七)

 この経緯を踏まえて、エーレンベルクが示すところによると、「権力はいまや霊的かつ現世的な目的のために行使され、平和の維持・教会の擁護・神学的正統性の強化などが国家の職務となった。つまり、権力は、初期教会の世界に住む異端者に対して自由に行使され、勢力をつけたキリスト教はしだいに政治的結束に不可欠な原理となった。思想家たちはまもなく、ギリシア・ローマ的過去の批判とともに、独自のキリスト教的な市民社会論の構築に向かった」(八)ということであり、そのキリスト教的な市民社会論という主題は後述の通り様々な議論を含み合わせた上で、展開していったのである。

 『神の国』を著したアウグスティヌスは、ゴート族侵攻などローマに降りかかった災難の原因がキリスト教に仕向けられていた時季において、キリスト教はローマ陥落に責任はなく、むしろ新たにキリスト教化されたローマ帝国の弱体化の原因は、異教・異端・不道徳に対する寛容にあると主張したのである(九)。そしてまた、このアウグスティヌスの教会擁護は、まもなく歴史と市民社会に関する最初の体系的なキリスト教理論に発展したとされている(一〇)

 エーレンベルクは、アウグスティヌスの市民社会論の中心に、人間の脆弱性という基底的視点があることを論じ、アウグスティヌスの言説を支える要点部について「人間は独力で道徳的価値を生み出すにはあまりに堕落しており、真・善・美・意味といった恒久的な尺度はどれも、聖霊の神秘的なはたらきに由来する」と説明している(一一)。加えて、「ギリシア人やローマ人たちは、政治的に組織された市民社会の中での言説・討議・活動が人間的幸福の基礎を築くと考えたが、いままさにアウグスティヌスは、信仰・聖書・教会を取り上げ、キリスト教原理だけが政治的活動や市民社会編成のための基礎を築くことができるとした」(一二)と分析している。この観点がまさしくキリスト教共同社会の基底に存在しているのである。

 ローマが危機的状況にあることを認識しつつ、ローマの歴史を永遠の教訓であると確信したアウグスティヌス。そのアウグスティヌスの見解について、エーレンベルクは、「人間の国とローマはともに兄弟殺しに源を発したのであるが、それは人間の堕落した本性に深くかかわる。つまり、カインとロムルスの罪は双方とも嫉妬・所有欲・支配欲を抜きにして理解できず、この欲望はすべての人間の特徴を示している。地の国(civitas terrena)はエゴイズム・高慢・自己中心性によって構成され規定されるので、殺戮と無秩序に根ざし、その主要な領域―家庭・都市国家・帝国―は道徳生活の基盤になりえない。我々がなしうる最善のことは、それぞれの対立する要求をできるかぎり調和させる努力である。人間の国は闘争・抗争・戦争が果てしなく続く領域なのである」(一三)と解説している。ここにおいて、アウグスティヌスの『神の国』の構想に繋がる前提的な意見が示されているといえる。

 アリストテレスなどの古典古代の伝統は、市民社会が正義にもとづくということを確立したが、アウグスティヌスは、「恒久的な善がすべて人間の行為から起こるのではないと否定することにより、ギリシア・ローマ的な楽観主義の根幹を一撃した」(一四)のであった。アウグスティヌスは、ローマが真の国家などではなかったと論じており、その理由は、ギリシア哲学(特にキケロ)の期待に反して、ローマは正義にもとづいてはいなかったからである(一五)。それは、善が神に由来することにローマが無理解であったことを意味し、神への崇拝がないところでは、真の人民、真の共同社会、そして真の市民社会もありえないとしたのである(一六)

 アウグスティヌスは、人間は、独力で平和や道徳的な社会関係を組織できないと考えていた。つまり、地の国で最も重要な「財」でさえ常に条件的で手に入れにくいのは、人々の欲望の間で均衡がとれず、社会の中で一致した意志が働かないという考えが前置きされていたからである(一七)。ローマ人は史上最大の帝国を創設したものの、その巨万の富と諸外国の征服が、帝国では分裂や悪弊が拡大し、富と権力を求める破壊的な争奪戦・絶えざる不安と相互恐怖・内乱・反乱・煽動・隷従などが人間生活を刻印づける要因ともなり得ていたのであった。アウグスティヌスは、地の国の諸制度は道徳的内実を持続させないのであり、救済は「自己を侮るまでになった神の愛」においてのみ施され、そして、歴史上その可能性を開いたのは、キリスト教信仰とローマ教会の出現による賜物であると捉えていたのである(一八)

 ここから始まるアウグスティヌスの議論の展開に対して、エーレンベルクは次のように指摘している。「アウグスティヌスが繰り返し教示したのは、異教的な古典主義の欠点は神が正義の唯一の源泉であることを承認できない高慢さによるものだった。ギリシア人やローマ人が価値を認めた栄誉や名誉は他人からの賞賛や賛美に依存し、これが古典古代の市民社会概念を高慢という致命的な病菌で道徳的に堕落させたのである。アリストテレスの包括的な道徳的課題、すなわち政治的に組織された自治的な市民社会は、このときまでに視野から消えてしまっていた。」(一九) 

 つまり、人々は災いを引き起こし、誤りを犯しやすいという状況にて、堕落した人間にとって罪はあまりに甘美なので、強力な外的抑制なしには罪に立ち向かうことはできないということである。そして、罪深い人々の世界における強制力に道徳的行為の必須条件が見出せるということである(二〇)

 このことに関連し、アウグスティヌスは強制力の必要性を十分に認識し、致命的な欠点をもつ市民社会を絶え間ない分裂の脅威から防衛できる機構を探究したのであった(二一)。言うなれば、大半の人が世界の終末まで救済されない中において、政治制度による闘争と混乱に対しての平和・秩序・安定の享受がなければ人間生活は成り立たないとのアウグスティヌスの言説が提供されるのであった。エーレンベルクはこれらの見解に思慮しながら、強制力という観点から次のように説明している。

  市民社会の中心的特徴その中には戦争・私有財産・奴隷制・国家がふくまれるは、罪に起因し、罪の矯正として仕えることにある。市民社会のすべては人間の間の不平等によって構成されているが、不平等は自然的秩序の特徴ではない。なぜなら、神の意図は、理性ある人間が理性なき獣を支配することであって、人が人を支配することではなかったからである。罪によって人類の歴史にヒエラルヒーが生起したが、同時に市民社会の諸制度が人々の罪を矯正する力をもつようになったのである。アウグスティヌスは、ギリシア人やローマ人の公共的討議や道徳的行為の場として機能していた古典古代的な市民社会を、一つの強制力を備えた機構、すなわち過誤を罰し願わくは罪を減少させることで神の目的に奉仕するものに転換させたのである。たとえ市民社会によって回心ができなくても、それは堕落して兄弟殺しをする人間に対して、あたかも兄弟を思いやるような振る舞いを強制できるのである。(二二)

 つまり、その強制という側面から、エーレンベルクが指摘する通り、国家が維持する平和によって人間の共生と協働が実現するが、しかし、その平和は、共通の道徳的行為への共同参加というよりも、暴力と恐怖にもとづいた平和であるといえる(二三)。なお、国家と教会の関係性について着目するのなら、「国家は、独立した道徳的立場としてではなく市民的生活に必要な諸制度を守るために存在するのであり、国家の基本的任務は、教会の説教・改宗・聖職者保護などの活動に助力することである。アウグスティヌスは、国家と教会を調停し、不平等と国家的暴力が神の目的への奉仕になることを説明することによって、最初の包括的なキリスト教的義務論を展開し、勢力を拡大しつつある教会組織を支持するよう君主たちに進言した」ということが明らかにされるのであった(二四)

 国家権力の議論を前提とした上で、アウグスティヌスは市民社会に対する究極的責務を教会に委ねたことが分かる。つまり、「教会が、ダエモンの力によって混沌渦巻く世界の中に救済策を立てるとした。そのような見解は、キリスト教が体系化された当初からかなり一般的であったが、アウグスティヌスの独自な貢献は、教会を新たな普遍的共同体の中心に据えたことであった。その見解は、彼のドナトゥス派との論争で明確にされた」ということであった(二五)

他方、これらの言説に基づいて、エーレンベルクは、アウグスティヌスとドナトゥス派との論争において次なる論点を見出すのであった。すなわち、「キリスト教共同体の成立当初から続くある傾向に依拠して、ドナトゥス派は、イエスの教えを世界の腐敗の根本的な救済策とみなした。ドナトゥス派によれば、教会は神や世界との関係において純粋でなければならず、そこで行われる儀式こそが、人間と神との正しい関係を確立する厳密で不変の宗規である。つまり、教会はこの世で聖霊が住まう唯一の組織体であるから、神聖な無垢・儀式的純粋さ・賞賛すべき殉教の汚れなき模範であらねばならない」(二六)という解釈である。

 また、アウグスティヌスが、「キリスト教は世界と一切の関係を断つことも、神との静的な同盟の保持にとどまることもできないのであり、人間は、自らの歴史と神の定めた世界の絶対的な要求との間に勝手な要求を差し挟むべきではない。よって、教会それ自体を擁護するだけでは十分ではなく、重要なのは、純粋に孤立したキリスト教共同体の存続にとどまらないことであり、真理はいまや国家の中にこそ力強い同盟者をもつことにある」(二七)として、キリスト教共同体の国家へと転用したことがここから垣間見ることができよう。まさしく、普遍的なキリスト教的市民社会は、全世界を包囲するまでに拡大する余地を持しているといえるのである。併せて、エーレンベルクはアウグスティヌスの有名な言葉である「愛せよ、そしてあなたの欲するところをなせ」を取り上げ、これを「国家の強制力を行使して教会を擁護することを正当化したものであり、人類の歴史にキリストが登場したことで一切が変わったことの宣言であった」(二八)と説明している。ここに、キリスト教の特質が見出されることも確かであろう。

 続いて、「真の教会」はキリストの身体であるとされること、また、不完全な人間の国にある実在の教会は完全なる身体の影であるといわれていること、これらについてのエーレンベルクの解釈によると、「ドナトゥス派が教会を世界からの避難所とみなしたとすれば、アウグスティヌスは、教会が最終的に全体としての人間社会と同一の広がりをもつことができると信じた、国家と同盟することによって、教会は、本質的結合を喪失し罪に至る人間を結びつける絆を束ね、転換し、方向づけることで神の目的に奉仕できる。つまり教会は、分裂し不和な人間性を再結合する神の願いの小宇宙である。それというのも、神は人間というものを本来一人の人間から創ったのだから。教会によって構成されるというアウグスティヌスの市民社会が、アリストテレスのポリスやキケロの共和国に取って代わり、信仰と恩寵が理性や公共的活動に取って代わった」(二九)ということであった。この説明からは、アウグスティヌスが捉える教会と市民社会との関係性についての一様を捉えることができる。そして、アウグスティヌスが、キリスト教徒が一般的に重視する自由意志を常に支持し、信仰を目的とする行為は強制されず自発的でなければならないことを思考した点へと、我々の関心が向かうことになるのであった(三〇)。 

 アウグスティヌスの原点に戻り、『神の国』へと手を伸ばした時、エーレンベルクはその書誌的意義について、普遍的救済史の輪郭を示したのであって、市民社会の独立は考慮されていないと評価しながら、「人類の全体的な堕落は、我々が自分の力では身を起こせないことを意味する。神が唯一我々の運命を定めるのであり、教会だけが、無垢な赤子たちの苦難によって正義が満たされる理由を説明できるのである。ローマ共和国やローマ帝国は繁栄していたとはいえ、真の正義はそこに存在しえなかった。創設者と統治者がキリストである国家においてのみ、真の正義は存在する。すなわち、普遍教会が普遍的共同体を組織し、その普遍的知識を擁護する」(三一)という分析を加える。そして更に、アウグスティヌスの神論と人間論を包含した上での理解について次のように取りまとめ、評価している。

アウグスティヌスは、教会と国家の関係の包括的理論を展開したのではなく、聖パウロが示した政治との調停的態度を深化させ、政治的義務と市民社会に関する極めて重要なキリスト教理論の基礎を築いたのである。アウグスティヌスは、一方では自由意志に一定の理解を示したが、あらゆる人間の行いに原罪の汚点がともなうことを強調した。そしてこのことが後の神学者たちを大いに悩ますことになった。なぜなら、それは体系的に現世を軽視することになるからであった。アウグスティヌスによれば、聖霊を不当に扱うにもかかわらず神の愛が人間におよぶとすれば、真に自由な人間が恩寵という神の賜物に応えることはほとんどない。逆に、誰しもが善をなそうとする動機が神だけにあるとしても、我々の行為は常に罪とともにある。つまり、我々が不浄な世界の中で現世的事象を秩序づけることができるのは、ただ神が魂を修練する機会を与えてくれるからである。アウグスティヌスが繰り返し明言したのは、キリストの生涯と教会の賜物は、市民社会を排除するのではなくそれを実現し完全にすることであった(三二)

 

普遍的なキリスト教共同社会という概念は、教父たちやアウグスティヌスが中世に残した大いなる遺産であったといわれる(三三)。このことが果たして正当な評価であるのか否か、この問いに向き合う必要があるが、キリスト教共同社会の言説は画期的な提起であったといえよう。なお、「教会の権威と政治的権力という異なる領域を画するゲラシウスの試みによって公準的な枠組みが確立され、その後何百年もの間政治哲学者たちはそれに従ったのである。だが、その枠組み自体が不明瞭であり、教会と国家との主張の食い違いから、深刻な衝突が勃発することは回避できなかった」という経過を辿る(三四)。加えて、「中世盛期の教会哲学はすべて、統合・有機体・統一・体系・調和などを探究した。政治・経済・学問・倫理・芸術は依然として神学の支配的影響下にあり、各分野の独立した発展は、宗教改革やルネサンスによって中世キリスト教思想の統一性が打倒された以後であった」(三五)ということも、看過できないといえよう。

 この中世キリスト教概念から捉える際に、アウグスティヌスが中世に伝えたギリシア的観念という側面が極めて有用な示唆をなしているといえる。そのギリシア的観念について、エーレンベルクの解釈に依拠すると、それは、「どのような創造された部分も宇宙秩序の中に一定の場所をもつが、一方でそれ自体の秩序・構造・目的を表しているということであった。このように部分からなる宇宙を階層的に捉える視点は中世社会の特徴を反映し、結果的に現存する階層秩序を強力に擁護することになった。中世社会における位階制・身分・ギルド・職業などの複雑な配置は、神の力によって創造された宇宙という、大きな体系の中に位置づけられることによってのみ説明できた。中世の政治思想が提起した中間団体の統合理論は、中間団体をすべて神の統一性の中に位置づけた」という内実を見ることができる(三六)

しかし、先述にも含むとおり、アウグスティヌスは神学から独立した市民社会論への論究に対しての関心は希薄であった。これらの古代から中世の流れに関して、エーレンベルクは詳細な説明を加えている。

  ギリシア人たちは、あらゆるものをポリス中心に組織しようとしたが、中世の著述家たちは、宇宙という神の有機体を中心に思想を展開したのである。両者が共通に包括的な社会理論を展開したことは、少なくとも社会の特徴づけの相違とともに重要である。中世の理論は統一性と階層秩序を重視したが、それは、中世社会における分権化・多様化・団体理論のただ中にあって貴族権力を正当化する試みに根ざしていた。(三七)

  階層制の受容によって地域的活動はほとんど影響を受けることなく、中世を通じて社会的相互行為の複雑な網の目は広範囲の人々におよんだ。個人的地位・階級闘争・慣習・ヒエラルヒー・自発的協業によって、中世的事象に常にみられる特徴である、集団の権利や義務についての議論が引き起こされた。分散化した地方の社会秩序は一般的な政治活動の機会を限定したが、中世社会は多様な集団の内部あるいは相互の間で、様々な段階の抗争と協同を構成した。そのような社会にキリスト教の諸規範が完全に浸透したが、単一の宗教的志向を共有した社会秩序の中においても、同等の諸勢力が混在し、横断的な関係が実現した。中世社会の発展は、ある程度までは社会の集中化と分散化という二傾向の綱引きによって構成されたのである。(三八)

 これらの状況に含まれる当時の教会の位置付けはどのようなものであったのか。それはすなわち、社会秩序全体における道徳的統一原理の実現を主張する、教皇の普遍教会の優越性を刻印づけたという見解と共に、教会の強化は政治領域における権力強化と並行して行われたのであり、国王は絶対的優越を主張する教会を問題視し始めたという歴史的経緯がそこに存在していたのである(三九)。なお、この経緯に鑑みた上で、「集権化と普遍性の主張が中世生活の重要な一側面を特徴づけるとすれば、他方では、強力な経済の力によって社会組織が分散し、多くの小規模な自足的農業共同体へと向かわせた。交易や商業の断続的な衰退に対して、逆に集権的な教会的・世俗的官僚制組織は、その強硬な要求を更に昴進させた。国王たちは自分たちを、ローマやビザンティンの類の君主としてではなく、個人的忠誠のピラミッドの頂点に位置していると考えるようになった。人々を連帯させる唯一の要因は、万人がキリスト教共同社会に属するという共通認識であったが、それがなにを意味するかを表現する方法は多岐にわたった」との特筆すべき状況が窺えるのである(四〇)。エーレンベルクはこれらの分析を踏まえて、この時代の分散的な農業経済では、神学から独立した統合的国家理論が生まれることはなかったとしている。

つまり、「地方の生活は個人的なつき合いを育み、社会生活上の組織の中で地域連帯感を強め、個人的な主従関係や相互扶助といった根強い倫理を発展させた。強力な市場や集権的な国家がなくても、家父長的権威とそれへの従属・朋友関係と相互契約・忠誠と尊敬によって社会生活は成立した」ということである(四一)。また、しかし、「世俗的中央権力によって広範囲におよぶ社会生活が組織されることはありえなかった。現世的主権から教会の主張が攻撃されることもまだなく、国家の法的機関が司祭や司教たちの主張と対立することもありえなかった。宗教的な影響力や価値が中世生活の隅々にまで浸透しており、教会への不忠誠や対抗を主張できる独立的な組織や理念が、自律的な理論や実践を実現する拠点を生み出すほど十分な力をもって存在していなかった」という状況への把握がもたらされるのも明らかである(四二)。やはり、このような状況を眼前にした議論においても、教会の拘束を超える市民社会論は成立しえなかったとされる。

 エーレンベルクは「中世社会の組織構造によっても、教会から独立した市民社会論の展開は困難であった。集権化を進める教会と国家は、キリスト教世界の覇権争いをしていたときでさえ、地域的特殊主義への対応を迫られた。教皇たちは常に、ローマの権力者たちの干渉的な要求に対して自らの権力の拠点を維持しようとした司教たちと妥協した。また国王たちは常に、各地の諸侯・自立的ギルド・自治都市から要求を突きつけられた。地方権力者の政治的影響力は中世全体を通じて強かった」(四三)と当時の状況を説明し、次の明確な分析を提示している。

統一的なキリスト教的政治体についていえば、それは複雑でしばしば独自の構造をもつ地域的特権や慣習と共存したのである。教皇や世俗君主たちは、行政的統一や集権化を強硬に推進するときでさえ、自らに従属する者たちや地域団体を考慮し、ときに譲歩せざるをえなかった。自治的諸団体は教皇権と王権の双方において形成されつつあった。聖堂参事会・修道会・同業者組合・共同体会議や市民会議・大学・その他の団体が中世社会に拡大しつつあり、これらの団体は努力して獲得した自立性を常に守ろうとした。自立性の擁護において、たとえ一時的であれ、これら諸団体は教会や国家のさらなる集権化を阻む強力な壁になった。教会側としては、教皇は封建領主と教会共同体の公的な首長としての役割をほぼ矛盾なく両立させた。国家側としても、国王は封建領主と政治共同体の公的な首長としての役割をほぼ矛盾なく両立させた。しかし、教皇と王が共同体全体の覇権を争ったとしても、主権は複雑に分散しており、各地の諸侯・団体・修道会は自らの領域で主権を有したのであった。(四四)

この多面的な視点に基づく詳細な論考は、当時の国家と教会の関係性について着目する上で有意義な内容を含んでいるといえる。そして、アウグスティヌスのキリスト教共同社会論と並立した「現実」の状況が窺えるのである。

 

アクィナスの神学的市民社会論とその周辺

キリスト教の正統異端問題や叙任権論争を経て、その後のキリスト教哲学の分岐点をなしたトマス・アクィナスは、キリスト教社会に関する重要な主題を提供したのである。スコラ哲学者アルベルトゥス・マグヌスの教えを受けたトマス・アクィナスは包括的なキリスト教神学を展開した。当時、キリスト教徒たちは理論的合理主義の厳しい要求に直面したのであり、同時に、地方拠点の重要性が高まり市場が徐々に拡大したことが、アウグスティヌス以来キリスト教思想に極めて支配的であった、現実世界への伝統的蔑視に対する圧力と化していたといわれている(四五)。アクィナスの構想において、「理性は啓示をともなうということ、そして自然法はカトリックの道徳に統合されることが必要であった。つまり、あらゆる人間の諸制度や活動領域は、階層的な市民社会に広がるキリスト教的な生活規範に従属する。そして、様々な階層は、自然に由来する絶対的で拘束力のある理性の法によってまとめられる社会構造の中で互いに助け合う」ということが求められていたのである(四六)

 エーレンベルクは、アクィナスが、一連の基本的な倫理原理の観点からは乖離する諸問題を考察したことに着目し、「キリスト教的な市民社会は、教会内外の様々な集団や身分からなる一つの有機体であり、万人は共通な神への愛において一つになり、彼らが割り当てられた目的を実現しようとする行いが救済として表現された」と捉えている(四七)。そして、アクィナスが、国家を人間本性から導き出す点においてアリストテレスを踏襲し、そこから市民社会の正当性を演繹したことについて評価している(四八)。 

また、「政治制度は、罪への処罰や矯正として神が定めたものではなく、それは人間本性の表現であり、直接的に積極的な意味で神に奉仕するのである。アクィナスはキリスト教的世界観の範囲内で、政治共同体に関する古典古代的概念とキリスト教的概念とを調和させようとしたのであり、同時にアリストテレスと一致して、人間が理性によって形成する共同体のうちで政治体が至高かつ最も包括的であるとした」という点を明確に示して、アクィナスの思考の有意義性を言及しているのである(四九)。この評価と共にエーレンベルクは、アクィナスからの引用を次の通りに提示している。

人間の理性は人間に使用される事物だけでなく、理性に従う人間自身をも秩序づけねばならない以上、どちらの場合でも理性は単純体から複合体へと向かう。人間に使用される物の場合、たとえば、理性は木材から船を造り、木材と石材から家を造る。人間自身の場合、たとえば、理性は社会なるものを形成するために多数の人間を秩序づける。そして複数の社会の間には様々な階級や序列がある以上、その最高位は人間生活のあらゆる欲求を充足するために秩序づけられている国という社会である。したがってすべての人間社会のうちで、この国という社会がもっとも完全である。更に、人間に使用される物はそれぞれ目的に応じて人間のために秩序づけられており、目的は手段に対して優位であるから、それゆえ国という目的全体は、人間理性によって認識され構成されていると思われる他のあらゆる全体に対して必然的に優位性をもつ。(五〇)

 エーレンベルクは、「社会の最高位―社会の究極目的が導き出される段階」(五一)にある市民社会は、アリストテレスの包括的な政治生活に当たる、「国」として表現されたことを提示している。つまり、政治秩序が人間の共同体における最高の形態であるのは、それが理性の産物であり、人間の欲求充足を目的とし、更に善き生活を実現するからであるとされる(五二)。また、アクィナスが、国を「人間理性によって構成されうるもののうちで最も重要なものである。というのは、他のあらゆる人間社会は国のために秩序づけられている」と解釈している点に着目し、神学の立場からの政治学の重要性を併せて唱えていることがそこから分かるのであった(五三)

 またアクィナスが、政治が道徳的な目的全般に適う可能性を切り開いたとして、エーレンベルクは考察の眼を向けた。そして、この内実について旧来の政治学的素地およびアクィナスの言説を含ませながら次のように解説している。

アクィナスが主張した社会的・政治的生活はそれ自体で本来の人間の状態であり、もはや堕罪の不幸な結果として理解されないのである。つまり、市民社会アリストテレスのいう政治的に組織された共同社会と広範なキリスト教共同社会の結合した社会は、人間にとって自然的ということになる。しかし、たとえ人間性が罪を負ってはいなかったとしても、共通善を志向するべき活動の調整は必要であった。まさに「多人数の社会に棲むことが人間に自然的であるならば、大衆が拠りて以て治めらるるところのものが人々の間にあることが必要である。けだし、多数の人々が生存し、各自、己のみ都合のよきことを心掛けており、一般利益に関する事柄を管掌する何人もいないならば集団は支離滅裂であろう」。人間は自分たちの行為を導くために神より理性を与えられており、政治的共同体の中で他者との共存生活を導くのは、我々の理性であって、我々の罪ではないのである。(五四)

  市民社会は、神の失望の現れでも神罰の道具として仕えているのでもなく、それどころか自由のための必要条件である。奴隷制・不正義・戦争・刑法・その他世俗生活における苛酷な処刑は罪によって明らかになる。しかし罪は、人間本性に根ざし、強制によるもの以上の高い目的に適う政治共同体を説明できない。異教的・非キリスト教的国家でさえも一定の倫理的意味をもつ以上、アウグスティヌスがそのような国家を罪の産物として非難した立場は成立しない。トマスの政治学は、教会主導の蹟いの経験というアウグスティヌスの一元的概念から政治を解放した。いまや人間本性の機能であるかぎり、政治は創造の秩序に属した。いいかえれば、たとえ我々が罪を負っておらず、そのため罪を購う必要がなかったとしても、政治は必要であった。アウグスティヌス主義的伝統では、市民社会は完全に因習的で必然的に教会と密接な関係があったとすれば、アクィナスは市民社会をキリスト教共同社会の政治秩序として構想し、これによって市民社会は一定の独立性を獲得したのである。(五五)

 これらの説明から示されることは、理性ないし罪というキリスト教共同社会の基本要素についての議論と、アウグスティヌスとアクィナスの対角線上に存在する解釈の差異であった。特に、後者においては、アクィナスとアウグスティヌスとの大きな相違点がある中で、人間自身の努力は善き生活のための十分条件にはなりえないという、両者の根本的な一致は明確であったことが分かり、このことが論理的帰着として認められるのである(五六)

アクィナスは、神学の範囲内で理解可能な研究をしていたとされ、結局、市民社会を究極的には教会に従属するヒエラルヒーの部分として考えねばならなかったという欠点を持ち、また古典古代的遺産の完全な復活には、「教会の権威に対して外部から直接対決することを厭わない理論家たちの登場を待たねばならなかった」という状況把握を我々は感得するのである(五七)

 

アクィナス以後の新たな視座

その後、『神曲』で著名なダンテ・アリギエリが、教会の権威に従属しない市民社会概念に向けた重要な議論を開始したが、近代市民社会論を端的に予見したのは、共同体の利益はすべて世俗国家の範躊にあるとしたパドヴァのマルシリウスの主張であったとされる(五八)。エーレンベルクは、「ダンテはゲラシウスの二領域論の範囲内にあったが、彼の直接の関心は、教会がイタリアの問題に干渉し、教皇が国家権威に対する教会の免責を主張することで混乱していた市民的平和を回復させることであった。彼は、政治領域に固有の権限に対する教会の侵害が、理性的で平和的な市民社会の輪郭を規定してきた均衡を崩す原因であると考えたのである。そのため、強力な統一的君主制が、神の普遍的帝国を代表し、現世事象に対して専有的責務を担うことを期待した」として、統一的君主制への彼らの視線を見出すのであった(五九)

 ダンテは教会と国家について多くの関心を抱き、人々は数多の目的を追求し、様々な共同体の中で生活しているが、いずれも平和なる生活を求めたという点に重きを置いている。

これらの思考の後、ダンテは帝政論に至ったのであった。それは「全人類にはある固有の職務があって、全体の人類は大多数においてそれを定められてある。だからこの職務は一個人、または一家族、一地方、一都市国家、一王国といったものが果たせるものではない」(六〇)という論点を持ち合わせるものであった。 

しかし、ダンテの構想は当時の状況からして甚だ難しいものであった。つまりそれは、ローマ教会からの圧力として出現したのである。インノケンティウス三世やインノケンティウス四世などの教皇は教皇権を強め、世俗生活全域におよぶ支配権を主張し続けたという状況があった。以後の教皇ボニファティウス八世は、一三〇二年に回勅『ウナム・サンクタム』を発布し、教皇権威論を極限まで推し進めたのであり、やはりこれらの情勢はダンテの唱える方法とは異にするものであったといえよう(六一)

 ボニファティウスは、聖俗二領域を認める中で、現世的権力が国家によって行使される場合でも、それは教会の判断に基づく範囲内にて正当だと主張したのであった。それは、「霊的権力は世俗権力の審判者であり、霊的権力を裁くのは神だけということである。市民社会は教会が創造する世界なのである」という言説として示されるものである(六二)。なお、ボニファティウスの教義は、中世の教会政治の最盛期を示すものであったが、それはエギディウス・ロマーヌスから直接影響を受けた教義であったとされており(六三)、教会が、十全なる権力すなわち市民社会全域におよぶ支配権を持することの論拠でもあったといえる。このことに鑑み、エーレンベルクは「ギリシア人やローマ人が普遍性の概念を政治的観点から考察し、市民社会を政治的に組織された共同体とみなしたとすれば、エギディウスの中世的なキリスト教共同社会は、宗教的で教会的な普遍性の観点にもとづいていた」として、古代時代との差異を明らかにしているのであった(六四)

 他方、ドミニコ会修道士パリのヨハネスは、皇帝の独立権力の擁護には反論した一人であるとされる。このヨハネスの言説について、エーレンベルクは、「教会は普遍的な万人の共同体に違いないが、自立的な政治共同体はキリスト以前に存在した。政治共同体は、神によって創造され自立的な道徳的地位をもつ人間本性に根ざしている。市民社会は自然な共同体であり、常にそこに住まう人々のある属性だったのであり、人間の安寧に不可欠なものである。政治はその権威を教会に由来せず、教会に従う必要はない。つまり、教会の組織は国家の原型になりえない。すべての司祭は教皇という唯一の主人に従属するとしても、逆に人間事象の多様性や私有財産の存在は、人々が様々な政治形態のもとで生活する理由を明らかにする」と説明している(六五)。これは政治共同体と教会的共同体の狭間に見る市民社会論の一様が示されていることを言及したのであり、それは同時に政治と教会の乖離を認識するものであるといえよう。

 前述の提示は、当時の時代的な状況や課題に限られているが、それらも含めて、中世における教会と国家の関係が常に「流動的」であったことを意味している(六六)。これはつまり、「不明瞭な事態の多くは、聖俗二領域の関係の絶え間ない変動の結果」であった。そして、その中で交わされた様々な議論や考察も、誰もが単一のキリスト教的な市民社会として認識し続けた、社会の二領域の境界問題を解決するものではなかったといえるのであった(六七)

 エーレンベルクは、中世的伝統全体の終焉を予見したのは、パドヴァのマルシリウスであると提示する(六八)。マルシリウスは、『平和の擁護者』において、霊的および世俗領域における教皇の侵害という周知の悪行に言及し、市民の平和にとってその侵害の悲惨な結果をもたらすということを示しているのであった(六九)。すなわち、この言及に伴い、マルシリウスは、最も基本的な人間の要求から始め、国家が市民社会を組織すれば人間は互いに平和に生活できることに理想の方法を捉えたのである。そして、これはローマ教会に対する最も効果的な批判の可能性が孕んでいたともいえよう(七〇)。エーレンベルクはマルシリウスの言説から見る市民社会・共同体について次のように考察している。

マルシリウスによれば、家族よりも広範な政治組織体、つまり「市民的共同体」は、平和でなければ神の意図した完全で自立的な共同体になりえない。人間生活には二種類の「善き生活」―一時的で地上的なものと、永遠的で天上的なもの―がある。市民社会は最初の拠り所であり、我々の世俗生活全範囲からなる。市民社会はもともと生活のために生み出されたのであるが、論争や紛争の裁定・罪人の抑制と処罰・共有的なものの保護・神への礼拝と崇拝の促進などによって構成されている。教会の生活は、世俗的な市民社会の政治的諸制度の中にふくまれ、それによって規制されている。

ローマ教会の立場の核心は、教皇が人間生活の統治という神が定めた目的の究極的守護者であるという主張にあった。これに対して、マルシリウスは、教会の目的と政治組織とのいかなる関係も否定し、教会の目的は世俗事象を形成するさいの直接的な関心によっておき換えられるべきと主張した。市民社会は人間の共同体の基本原理、すなわち「すべての人間は生活の充足を願い、その反対を避ける」ことに源を発する。安定性と理性の要求が唯一の基準であり、それによって世俗事象は秩序づけられる。このことは、教会がまさに政治とはかかわりをもたない団体であることを意味した。(七一)

 これから、「伝統的な中世理論が聖俗二領域の関係性を論じる必要があると考えたのに対して、マルシリウスは市民社会に対する司祭の役割よりも国家の政治的要求を上位におく、ただ一つの領域を思い描いた」(七二)ということが分かる。

更に、マルシリウスはこれらの言説を基礎に、共和政体論を展開したのであった。そこで示されているのは、「人間は有益なものを追求し、その反対のものを避けるために市民的結合に合意した。それゆえ、万人の利益や損害とに関わるものは、有益なものを追求し、その反対のものを避けることができるように、万人に知られまた聞かれなければならない」(七三)ということであり、より合理的な側面がそこから窺えるのである。

すなわち、マルシリウスは、「キリスト教共同社会の伝統的な聖俗二領域をめぐる論争全体を、そのカテゴリーの宗教的意味を論破することによって再構築した」のであり、その目的は、教会の干渉から世俗領域の特権を擁護する以上の広がりをもったのであった(七四)。エーレンベルクはこの問題に関連して、「アウグスティヌスのいうように教会が人類の歴史における神の介在を代表するとすれば、教会主導のキリスト教市民社会における至上権(plentitudo potestatis)を主張する教皇に対して、皇帝派が国家の特権を擁護するのは至難の業であった。マルシリウスが国家と教会の職務のいかなる関係性も否定したことで、霊と肉の統一的なキリスト教世界という中世的統合は崩れた」(七五)とキリスト教の状況を分析した上で考察を行っている。

 このように示される構想を含むマルシリウスの解釈は、ゲラシウス説と教会主導の市民社会の終焉を予見したといわれる(七六)。「キリスト教共同社会の統治には聖俗二領域と二つの権力が必要だという中世の伝統的な概念の転換」において、マルシリウスの思索は、その概念自体を破壊したとされるのである(七七)。エーレンベルクはキリスト教共同社会に関しての思想史的系譜の転換期をこのマルシリウスと位置付け、次のように論じている。

教会を国家の従属的機関とみなすマルシリウスの主張は、キリスト教共同社会の長きにわたる理論的危機の始まりを告げるものであった。アウグスティヌスの国家は、世俗における人々の肉と欲を統制する責務を担っていたとしても、堕落した人間の内奥にある罪と弱さに対して果たす重要な務めは教会に一任されていた。一方、マルシリウスはこの観点を逆転させ、普遍的知識や普遍的共同社会を主張する中世理論に強烈な一撃を加えたのである。まもなく主権は唯一世俗に位置づけられるようになり、国家は、領土内に存在する中間団体と諸個人すべてにわたる最終的権威を主張し始めた。神学を中心とする中世の市民社会概念では発展を続ける市場や政治機構に対処できなかったがゆえに、近代の主権理論は、国家をいかなる至高存在も認めない共同体として再定義した。すなわち、最初の市民社会論の普遍的な政治的・宗教的基礎が崩壊したとき、一連の新たなカテゴリーが展開され、その中で近代的市民社会が理論化されたのであった。(七八)

 しかしながら、マルシリウスの主張がキリスト教内部にどのように浸透していったのかということは不確かである。市民社会論の系譜として、その有意義性は認められるものの、実際的な批判としての意義が存していたのかということは明確に判断できない。また、教会を国家の従属的機関とみなす構想は、普遍性を持する宗教への支柱と化し、多様性を認めない確固とした権威を強くさせる余地を持つようにも考えられよう。これらのアポリアを超えて、近代的市民社会論への展開が開始されたといえる。よって、また、宗教と市民社会の間隙における理想や概念の生成という内容は、近代においても変わらず大きな主題として存在し続けた。そして、その総合に向けて思考したのがドイツ観念論であり、その顕著な一つの解答が、次節で論じるヘーゲルによってもたらされたといえる。

第三節 ヘーゲルにおける共同性の問い

 前節に見たキリスト教の市民社会論において含まれる共同体・共同性の観点に着目する際、最も適切な知識を提供してくれるもの、それはヘーゲルにおける共同性の問いであろう。その関心に正面から言及を行っている研究は、大井正・西尾孝明編著『ドイツ社会主義研究』勁草書房(一九八九年)に含まれる、生方卓「初期ヘーゲルにおける共同性と所有の問題」であろう。これはドイツ社会主義の第一時期をテーマとした論考であるが、ここに見る本邦初ともいうべき試みは大変意義深いものである。

社会主義の歴史的経緯への学究的な着手は、古くはギリシアに至ることになり、これは市民社会論の系譜と同じ意味を持つものであるが、近代的な社会主義研究の多くが、空想社会主義の一端に着目することから始まっている。また、市民社会論の系譜において、近代は社会主義による市民社会批判の各論を提示することが多くなる。特に、イギリスにおける市民社会論の隆盛と、ヘーゲルの後者であるマルクスによる嘗ての市民社会論の克服という、二点の主題が主たる関心として論じられる傾向がある。そのような中で、近代の市民社会論に占める割合の多い社会主義研究ではあるが、その第一時期にヘーゲルの初期を提示して論を進める試みは数少ない。このヘーゲルの共同性に着目してドイツ社会主義研究の萌芽として「国民宗教」を取り上げ、その分析を行った試みは大変有用であり、その洗練性が窺えるのである。この共同性に基づく研究はルソーの市民社会論やフランス革命の発生を念頭に置いた市民社会論へも連関を持つ可能性を持しているが、主としてヘーゲルの共同性という主題と「国民宗教」の理念は、前節で示した中世キリスト教と、その世界観への新たな視座を提供しているのである。よって、「初期ヘーゲルにおける共同性と所有の問題」を参照すると共に、ここに示した試みの画期的な側面についても改めて確認することにしたい。

 なお、ちなみに、本章前節において依拠したエーレンベルク『市民社会論』は、近世・近代以降の市民社会論の系譜についても示されており、このヘーゲルにて帰結を見るドイツ観念論周辺での市民社会論の展開についても論考がなされている。それは次のような概略的な説明であり、本節への示唆を見ることができる。

カントは本質と現象の分離によって、市民社会を人々が自由に自己決定を行いうる領域とみなした。自由な公的領域・公正で、平等な関係・広範な市民的自由・共和制度などが「学問の共和国」を樹立し、私的利害の追求が公的利害に向かわせるとしたのである。へーゲルは、カントの「内省主義」を批判し、家族・市民社会・国家という三段階の倫理的契機を理論化した。へーゲルの市民社会は、「経済的人間」の私的利害によって成立するが、それは道徳的行為の領域でもあった。家族と国家の間に存在する社会関係の網の目としての市民社会は、利己的個人相互を社会関係と道徳的自由に媒介する領域と規定された。だが、へーゲルの市民社会は、恒常的な貧窮者問題を解決しえないゆえに、十全な自由を実現できない。したがって、ヘーゲルはプロシアの官僚制国家が社会的対立を克服できるという反動的な教義で終わることになった。マルクスは、市民社会が止揚されねばならないという点でヘーゲルに同意したが、その解決方法には反対した。マルクスは、経済過程から独立には国家を概念規定できないとして、社会革命の理論の構築に向かった。この理論は、社会主義の政治的中心にプロレタリアートを設定し、プロレタリアートが国家を転換し市民社会を民主化する主体だとするものであった。マルクスが、市民社会が生産や階級そしてそれら相互の社会的政治的関係によって成立するとした、近代思想の伝統に終結を告げたのである。近代思想が原理的に国家に敵対的でなかったのは、その市民社会概念が、競争によるカオス的領域を公共的統制のもとにいかにして包摂できるかという死活問題によるからであった。この過程で、近代思想は、市民社会と国家の関係を近代社会の根本問題として提示し、市民社会が民主的活動を充足する自立的領域ではないとする一人の強力な警告者(マルクス)を創出したのである。(一)

 果たしてここに示されるエーレンベルクの説明に偏向は含まれていないのであろうか。ここに示されるうち、そのヘーゲル解釈に対して、異論を含む余地が見受けられるのも確かである。ただし、まさしく市民社会における国家による包摂、弁証法的な帰結としての国家という解釈に対して、多くの対立項が見出されるのも確かであり、その典型にマルクスを見なして、その理論の探究を別章にて緻密に行ったのがエーレンベルクであった。

いずれにしても、そこに示される「家族・市民社会・国家」というヘーゲルの主題、そこに含まれる「倫理的契機」ならびに「道徳的行為」、更には「自由」への問いは、本節の「共同性」の論点へと繋がるものである。そして、これは前掲の引用にも見られるような利点ならびに問題性を含んだ上で、後のマルクスによる検討への素地を準備したという点からも、この共同性の主題は市民社会論をも射程とすることが確認されるのである。そこにまさしくヘーゲルの企図が示されるのであろう。

ヘーゲルと社会主義思想

 ヘーゲルにおける共同性への問いについて、我々はヘーゲルの社会主義思想への着目によって多くの論点を抽出することができよう。加えて、この社会主義思想への接触は、ヘーゲルの市民社会論の基礎部にある共同性をいかにして見出すかという重要な意味を含んでいる。これらの議論に先んじて、生方は、エンゲルスからの引用を行う。「我々ドイツの社会主義者は、ただサン=シモン、フーリエ及びオーウェンを祖とするのみではなく、カント、フィヒテ及びヘーゲルの流れをくんでいることを、我々の誇りとするものである」。すなわち、エンゲルスにとって、へーゲルが社会主義思想と関連づけられるのは、へーゲルが「歴史観を形而上学から解放して弁証法的にした」という点、歴史を不断の運動、変化、変型、発展の図式を見出し、その運動と発展の内的な関連の証明を試みた点によって、唯物史観の誕生を準備したということを意味しているのである(二)

 次いで、生方はローレンツ・フォン・シュタインの影響下における社会主義者であり、終生忠実なヘーゲル主義者であったラッサールに着目し、ラッサールの社会主義とむすびついたヘーゲルの思想を国家主義であると確認し、次のような説明を示している。

ラッサールはブルジョワジーの原理である納税選挙に労働者階級の原理である普通選挙法がとってかわるとき、はじめて「国家の目的」である「自由への人類の教化及び発展」が、そして自由だけでなく「利害の共同連帯、発展上における共同性と相互性」が実現されるのだと説くのである。ちなみに、国家を自由と共同性の実現形態とみる立場はヘーゲルのものである。(三)

 つまり、ヘーゲルに由来するラッサール的国家主義としての超階級的国家論は、マルクス、エンゲルスの社会主義(=階級的国家論)と距離を置くものであるが、へーゲルの思想と社会主義との関連がそこから窺え、逆に看過できない特質を含んでいるといえよう(四)。ただし、生方は「へーゲルの弁証法的歴史観にせよ、自由の実現態としての国家観にせよ、それ自体が、端的に社会主義的性格をもつものとはされえない。ヘーゲル思想とこれまでの社会主義思想との関係をみるうえで重要なのは、むしろ『財産の共有』と『労働組織の共同性』という、これまでの社会主義思想の二つの重要な契機が、ヘーゲルの中でどのように処理されているかという点であろう」(五)と述べ、財産に関する共同性についての諸問題を提起しているのである。

 これについてへーゲルが、『法哲学』(一八二一年)の「抽象法」論の中で、プラトンの財産共有思想を「人格に対する不法」であると批判し、私的所有の必然性を主張していることに基づき、この点においてヘーゲルは社会主義思想と異なる側面を窺わせるのである(六)。生方はこの差異に関して、「社会主義あるいは共産主義という概念さえ生まれていなかった時代において、彼が財産共有の問題に対してとった、この否定的であるにせよ意識的な対応は、既にそれ自身へーゲルにとってのこの問題の重要性を示唆するものである」(七)と言及している。

 他方、へーゲルにおいては、「自由」とは「共同性」において初めて現実性を得るものとして示されるのであった(八)。生方は、この「共同性」による「自由」の実現ということについて、次のように示している。

彼にとっての最高の共同性である国家こそは自由の現実性であるとされるのである(国家を超えた世界的共同性、あるいは人間と自然との生態学的共同性は、未だ存在する理性として哲学の対象とされるに到っていない)。そうであるとすれば、「所有の自由」も、それが現実性をえるのは、所有の共同性においてであり、そして国家による所有こそは所有の自由の完成である、という結論を、我々はヘーゲルの論理に従って引き出すことができそうである。(九)

そして、この考察を踏まえて、次のような説明を行うことにより、ヘーゲルとマルクスの結節点と相違点を提示している。

『法哲学』において、へーゲルは私的所有の必然性から出発しながら、共同の所有、すなわち「資産」(Vermögen)を導き出しているのである。かれにとっては所有の排他性、私的所有権、所有の自由は、一方では封建的束縛からの市民的解放の基点として固守されねばならないものでありながら、他方ではそれは所有の抽象的規定にすぎず、「倫理」(Sittlichkeit)においては止揚されるものでしかない。そして、このような、へーゲルにおける私的所有と資産との区別と対立的性格に、早くから注目していたのが他ならぬマルクスなのであった。(一〇)

 所有の共同性について、へーゲルは、「国家資産」という概念を用いているのであるが、最高の共同性としての国家所有という形態をとることはなかったとされている。この解釈に関する異論は存在するものの、「国家的所有だけが唯一社会主義的共同所有の形態であるわけではないということを、また物的な財産の共有だけが、所有の共同性をなすものではないということを」(一一)、我々は位置付け、勘案する必要性を受け入れることになるのであった。

 併せて、生方は、社会主義思想の一端を担う、労働組織の共同性に着目する。すなわち、生方の解釈によると、へーゲルの市民社会論においては、市民社会の枠内での、いわば下からの統合組織として「コルポラツィオン」(korporation)が構想されているのであり、このコルポラツィオンは商工業に従事する身分全体のための相互扶助、職業訓練、品質向上等を目指す組織であるとされている(一二)

その状況を捉える中で、その成員同士は同輩関係(Genossenschaft)として認められるのである。つまり、「相互扶助性と同輩関係とをその本質とした、開かれた非封建的職業組織こそが、コルポラツィオンの名に値する」ということである(一三)。この認識はまさしく共同への関心が大きく寄与した結果生み出されたものであろう。そして、生方はコルポラツィオンに関する議論を踏まえた上で、次のように説明している。

「我々がこの組織のうちに、社会主義とよぶことが可能であるかどうかは別にしても、階級分裂による市民社会の崩壊を防ぐために構想された共同の労働組織を見いだすとしても不当ではないと思われる。へーゲルの弟子ガンスが、のちにこのコルポラツィオン概念をフーリエ、サン=シモンを意識しながらアソツィアツィオン概念と同一化したとき、彼はヘーゲルの思想の文字を捨てて精神を生かしたのである」(一四)この部分からも、ヘーゲル『法哲学』に含まれる、所有の共同性と労働組織の共同性の思想から判断できることは、社会主義の萌芽において、ヘーゲルの思考が寄与した面が見出せるということである。

 そして、ヘーゲル哲学と共同性の問題を全体的に捉えた場合、ヘーゲルが共同性を強調した理由や、その理論付けに向けての思考について、生方は次のような解釈を示している。

へーゲルにとっての共同性および所有の問題は、言うまでもなく『法哲学』において突然とりあげられたものではなく、むしろかれの思索活動の端緒から繰り返し問題にされ、検証されてきたものであろう。共同性を実現すること、あるいは存在する共同性を認識することはヘーゲルの社会哲学の一貫した中心テーマであった。また所有の概念も、時には共同性に対立するものとして、あるいは近代国家の基礎、欲求の中心として、あるいは意志の自由と共同性との発現として理解されるなど、その位置づけこそ変わりはしても、へーゲルの強い関心の対象であり続けてきた。(一五)

 そして、生方はこれらのヘーゲル哲学における共同性問題の意義を確認すると共に、『ドイツ社会主義研究』「初期ヘーゲルにおける共同性と所有の問題」の執筆の意義として、「なぜへーゲルが近代社会における共同性の崩壊の根本原因を私的所有に見出しながら、共同性の再建の道を所有の共同性に求めることを断念せざるをえなかったのかということ、そして、にもかかわらず、共同の所有は完全に放棄されたのではなく、私的所有の止揚が彼なりに共同性を実現するための必然的契機の一つとして位置づけられていったことを明らかにし、これまでの社会主義思想とのつながりと差異を明らかにする」(一六)というように述べているのであった。

 そして、これらの論考を現代的な意義という視座から捉えると、資本主義と生活や生命との関連についての議論へと繋がる。これは、資本、賃労働関係に関する視点であり、次のように説明できる。いわゆる、資本関係の総体としての資本は、この関係の外側の領域と対立すると設定する場合、この外側の領域とは、一義的には未組織労働者、婦人、子供、身障者、第三世界等を意味し、他方では、それは家族、地域、学校を含めた「生活の場」の総体、あるいは生活者、もしくは「生命」そのものということである(一七)。生方は、この「生活・生命」という主題を重視して、「そしてこの領域が求めざるをえない共同性は、単なる階級的利益の共同性でも生産手段の共同性でもありえない。今や求められつつあるのは『生』そのものの共同性であり、また死者達や生まれてくる者たちとの共同性であり、更に人間と自然との共同性、『共生』であるといってもよいであろう」(一八)と述べている。

この見解は、共同体のトポスという主題へのアプローチをもたらし、この共同性の問いについて考察する際においても、参考にすべき重要な意味を持っているといえよう。

『国民宗教とキリスト教』における共同性と所有

 ヘーゲル『国民宗教とキリスト教』の第一断片、テュービンゲン断片の緒言、「宗教は、我々の人生の最も重要な事柄の一つである」という示唆的な一文は共同性の議論において重要な視座を我々へ提供する(一九)。生方は、「誕生、結婚、葬儀などの生活の区切りにおいてばかりでなく、祝祭日、日曜の礼拝、生活空間における教会の位置、鐘の音、音楽や絵画彫刻を通して、宗教は我々の感性の奥底にまで浸透しているのである。なるほど個人的には宗教的諸関係や諸感情から超越することは可能だろう。しかし民衆が総体として宗教と無縁な境地に到ることはありそうにない。この共同の生と宗教との不可分性がヘーゲルの宗教に対する考察の出発点をなすのである」(二〇)という生方の指摘は共同性と宗教との関連を窺うための端緒たる動機付けともいうべき論点を見出している。

 しかし、「宗教そのものはヘーゲルにとっては目的ではなく、手段にすぎない」ということであり、ヘーゲルの目的は、「理性の崇高な要求」を実現することなのであった(二一)。そして、その「要求」の根本は、カントのいう実践理性の要求であるとした道徳法則にある。生方によると、「このような理性の要求は、ただちに人間の行為や努力の主要要素 Hauptelement とみなされることはできない。人間の生を根底から動かすものとはなりえない。むしろ、「感性」Sinnlichkeitこそ我々の意志を決定するものとしてとらえることができるはずである」とした上で、ヘーゲルからの引用として「意志の規定根拠が単なる思慮であるか、それとも現実的な道徳心 Moralitätであるかを決定するのはどれほど難しいことだろう」という言述を提示している(二二)。ここから、へーゲルがカントの実践理性の立場から出発し、道徳法則の実現を最高目標としながらも、理性と自然とのカント的二元的対立を超えていくという構図を垣間見ることができるのである。そして、道徳的理性法則の実現を可能とする道具として、理性のみでなく感性=自然の役割に重きを置くことが示され、この論理によって、「宗教」の存在意義が導出されるということである(二三)。これらから展開されるヘーゲルの宗教観について、生方は次のように明確な説明を行っている。

  へーゲルによれば宗教とは神や神の特質、神への我々の関わり方、霊魂の存続といった事柄に対する単なる「学問 Wissenschaft」ではなく「単なる歴史的な、あるいは理屈っぽい知識」でもない。宗教は「心胸」Herzに関心を起させるものであり、我々の「感覚」Empfindungenと我々の意志の規定に影響を及ぼすものである。宗教はそのようなものとして一方では「道徳とその動機に新しい、いっそう崇高な躍動を与え」、他方では「感性的な衝動の暴力に対するいっそう強力な堤防」を提供するのであるが、人間が感性的であればあるほど、宗教も感性的でなければならない。そしてこの感性を通して善行へと駆り立てるものでなければならない。(二四)

理性法則は民衆 Volkによって実現されるためには宗教の助力を必要とする。そのような宗教は「心胸」に訴えかけるものでなくてはならぬとともに、個人的宗教ではなく、「公的な宗教」das öffentiche Religion、「国民宗教または民衆の宗教」Volksreligionでなければならない。(二五)

 すなわち、このヘーゲルの言説解釈を踏まえると、ヘーゲルが「公的な宗教について語られる場合には、その宗教のもとで神と不死性の概念やそれに関連するものが理解されているのだが、それはこれらの概念が一国民の確信をなしている限りにおいてであり、またこれらの概念がその国民の行為と思考方法に影響を及ぼす限りにおいてである」(二六)と説明したことは看過できないであろう。そしてそれは、心胸Herzによって、「ある国民 Natiionの精神の高揚、純化」を希求するという国民宗教の要点を導くのである。つまり、この解釈に基づいた上で更に、神と不死性としての「宗教的諸原則と、そこからながれでる感覚 Empfindungとの総体であり、またとりわけこれら諸原則が行為の仕方にながれこむ際の強さの程度である」というヘーゲルの言説がもたらされることが分かるのである(二七)

 国民宗教の論点に着目すると、キリスト教は、彼岸性を本質とする限り、国民宗教的性格を持ちえないという点が示唆されるのである(二八)。すなわち、それは「キリスト教は国民宗教たりえず、老いた国民精神は国民宗教に鼓舞されることも、これを育てることもできない。とすれば、国民宗教が可能なのは、若返った国民精神のもとで、新しい宗教を創設する場合に限られる」ということである(二九)。生方は、「この精神の若返り、あるいは新しい時代の夜明けをもたらしたものこそ、へーゲルにとってはフランス革命に他ならなかった、そしてこのフランス革命において、最高の存在と魂の不滅を承認する新しい宗教が、共和国の宗教として、祖国の宗教として創設されつつあったのである」(三〇)と述べ、ヘーゲルのフランス革命への高い評価を改めて我々へ示すのであった。

 それはまた、フランス革命の様相に見るように、国民宗教への志向として、新たな宗教が民衆的(国民的)な性格を持ち、民衆を実践へと動かすものとなるためには、宗教は感性的契機を内に含まなければならないということであった。いわば、民衆の「心胸」に訴えかける主体的宗教でなければならないということであった(三一)。この分析に基づいた大多数の民衆への働きかけという意味で、生方の次の指摘は実に興味深い。「真理の少数者とのむすびつきは、へーゲルにおいては民衆蔑視論に向かわずに、かえって、真理のそのような特権的性格のうちに、真理にふさわしくない形式を見出させるのである。真理は少数者からやってくるかも知れないが、それは民衆の共同所有になることによって、初めて真理としての現実性を獲得することができるのである」(三二)。これらの内容に関して次に示すヘーゲルからの引用は多くの要点を含み、本項の精査の基底を担うものであろう。

(一)普遍的に国民(民衆)のために存在すべき宗教が、普遍的な諸真理―これに到達してきたのはいつの時代でもかなり傑出した人間だけであり、彼らはこれらの真理を愛をもって心底から把握したのである―から成りたつということは不可能なのであるから、(二)またそれゆえに一方では単に、信頼と信仰に受け容れられなければならないような付属物が混合されなければならないのであるから、(三)あるいはもし、より純粋な諸原則が理解され、感性に受け容れられるべきであるとすれば、これらの原則は純朴なものにされて感性的な外皮の中につつみ込まれなければならないのであるから、(四)そして他方では、様々な慣習―その必然性または効用については、若い頃からの馴れ親しんだ信仰や習慣づけによって確証される―が導入されなければならないのであるから、次のことは明らかである、すわなち、国民宗教は(そして宗教の概念と即自的にむすびついているものは)、その教説が生活と行為との中で有効であるべきであるとすれば、単なる理性にのみ基づいて作りあげられることは不可能であろうことは明らかである。(三三)

ここから、国民宗教の構想が「実定的」な意味を持つことをヘーゲルによって重視されたことが窺えるのである。この論点周辺におけるヘーゲルの見解から示されることは、「国民宗教は実定宗教 positive Religionとも呼ばれるのであるが、後のいわゆる実定性論文とは異なって、ここでのヘーゲルは、国民宗教の実定的性格を必然的なものとして肯定している」(三四)ということである。

加えて、生方は「国民宗教」という文言の「国民」という語句に着目し、「ここで言われている Volkは民衆とも国民とも訳しうるものである。宗教が少数者だけのものであってはならない、ということから要請される Volksreligionは『民衆』の宗教であろう。それに対して個人的宗教と対立する公的宗教としての Volksreligionは『国民宗教』である。この二つは直ちにつながるものでなく、対立的性格さえもちうるのであるが、へーゲルは同じ概念によって両者を同一化しているようである」というような解釈を与えている(三五)

 前掲のヘーゲルからの引用に含まれる、「純粋な理性宗教」は理性の理想にすぎないということが示されるのであるが、国民宗教が、国民宗教であるためには感性的契機を受け容れ、「伝統」に従うこととしての意味を併せ持つのであった。なお、しかし、理性宗教は呪物信仰 Fetischglaubenとは両立しえないとされるのである(三六)。生方は、「純粋な理性宗教は、精神と真理において神を崇拝し、徳においてのみ神に奉仕するのであるが故に、理性宗教は呪物信仰を斥けなければならないのである。感性的契機を受け容れながら、かつ呪物信仰から脱するためには、理性と相似的な感性的なものを理性は見出さなければならない」と論じた上で、その見出されるものとしての「愛」が存在していると強調し(三七)、次のようにヘーゲルからの引用を行う。

  我々の本性(自然)そのもののうちには、なるほど道徳的ではなく、法則への尊敬から生じたものではなく、そして確固とした確実なものでもなければ端的に価値をもつものでも尊敬に値するものでもないが、それでも愛すべきものであり、悪い傾向を妨げて人間にとっての最善を促進するような感覚 Empfindungが織り込まれている。

このような性質を持つ感覚とはあらゆる善良な傾向、つまり同情心、親切心、友情等といったものである。様々な傾向の仲間のうちに含まれているこのような経験的性格には、道徳的感情も含まれており、この感情がその柔い糸をこの織物全体に送り込んでいるに違いないのである。経験的性格のこの根本原理は愛であり、愛が他の人間のうちに自分自身を見出す限り、あるいはむしろ自分自身を忘却して自分の現存から脱し、いわば他者のうちに生き、感じ、そして活動している限り、この愛は理性と何か似たものを持っている。それは理性が普遍妥当的な法則の原理として自分自身を英知的世界の同市民であるあらゆる理性的存在者のうちに再認識するのと同様である。(三八)

 ここに見る「愛」という主題はヘーゲル独自の解釈であると考えられる。すなわち、生方によると「理性と愛との類似性をみる立場はカントにはない。むしろここではカントの理性主義に対する批判のモチーフが読みとられるべきである。そしてこの愛の理性的性格の強調はヘーゲルの後の思想農開において決定的重要性を持つに至るだろう。にもかかわらず、愛そのものは感情の領域にとじ込められ、理性との類似性は存在するにしても理性そのものではないという考え方からへーゲルが脱けでることはない」ということである(三九)。これらの特徴的な観点、つまり、愛は自然が人間に与えた道徳感情であり、宗教は主体的なものとなるためには、この感情を利用すべきであるという思考は妥当でありながら、愛は「最大のヒエラルビッシュで政治的な奴隷状態」と連なる思想であるとしての特質を持していることが分かる(四〇)

更に、生方は、愛という「自然の美しい糸をそれにふさわしく高貴な帯に編みあげることこそが、とりわけ国民宗教の課題でなければならない」が、国民宗教は理性宗教へと導かれるべきだとはされても愛の宗教として把握されることはないと論じて、愛と理性の相克的な状況を指摘している。そして、「宗教は心の事柄であるとするルソー的へーゲルと、宗教は理性の事柄であるとするカント的ヘーゲルがいるのだろうか。」という問いが生じ、我々の課題として残るのである(四一)

 へーゲルにとっての「国民宗教」は歴史的な旧来の宗教として認識されるのではなく、これから形成されるべき構想であるとして理解されうる(四二)。そしてこの問いに対してヘーゲルは四つの答えを与える。つまり、それは「(一)国民宗教の教説Lehreは普遍的理性に基づくものでなくてはならない。(二)その際、想像 Phantasie、心 Herz、そして感性 Sinnlichkeitまたは感覚 Empfindungは何も収穫を得ないままであってはならない。(三)国民宗教は生のあらゆる欲求 Bedürfnisse や公的な国家活動がそれとむすびついているようなものでなければならない。(四)国民宗教は呪物信仰を避けなければならない」(四三)とされており、ヘーゲルが行った(一)から(三)についての解説を含めた上で、同項について生方は次のように広範かつ詳細な考察を行っている。これは国民宗教に基づくヘーゲルの共同性への問いにおける重要な解答であるように考えられることから、そこに多く引用したい。すなわち、この言説には、キリスト教とは異なる道に帰結を見出した上での、国民宗教から捉えた共同性への問いに関わるエッセンスも多分に含まれているように思える。まず、(一)についての説明は次のとおりであり、国民宗教とキリスト教徒の倫理的な乖離を確かめるものであった。

 

  教説は第一に、たとえその権威が神的啓示に基づくものであろうとも、人間の「普遍的な理性」によって権威づけられたものでなければならず、また各人によって、この教説の義務づけが洞察され、感じられるものでなければならない。ここではカントが考慮されている。

第二に、これらの教説は「単純」でなければならない。そのことによって博学的知識とこみ入った論証は避けられ、教説は心情に対する力と行為の意志決定に対する圧力となるのである。この国民宗教の教義の単純性は、ルソーが既に国民宗教の教義に求めた資格であったし、それはキリスト教の教義の、きりのない神学論争を生みだすような複雑性に対する批判でもあっただろう。けれども他方では、ギリシャ的「多神教」は、やはりへーゲルの構想する国民宗教の単純な教説とは合致しないはずである。へーゲルが単純にギリシャ的宗教を、これから創設されるべき国民宗教と同一化しているわけではないことは、その点からして既に明らかである。

第三に、この普遍的教説は、同時に「人間的」でなければならない。ところが、「まさしく最も崇高で人間にとって最も興味深い理念のうちの幾つかは、それが普遍的に格率として採用される資格を得ることは大変難しい」。それらはごく少数の英知ある人々の「財産」でしかないようにみえる。このような種類の理念の一つが「賢明で慈悲深い摂理への信仰」である。このような摂理への信仰を不断に持ち続けることがいかに難しいかは、ヨブ記の読者でなくとも容易に理解しうることであろう。

このようにして、へーゲルは国民宗教の教説からキリスト教的な摂理信仰を除外してしまう。普通の人間にとって持ち続けることが難しい教説は、かえって宗教的な挫折を、神に対する不満の念をもたらす原因となるからである。この摂理信仰のかわりにへーゲルが採用しようとするのはギリシャ的な「運命」への信仰である。「この信仰は、一方では自然必然性に対する尊敬であるとともに、同時に人間達が神々によって道徳法則によって支配されているという確信であるので、神性の崇高さに、また人間の弱さや自然に対する依存や限られた視野に、人間的に適合しているようにみえる」。(四四、各前掲)

 ここに見る国民宗教に関するヘーゲルの解釈は、前掲のエーレンベルクの論考に含まれるギリシア哲学から中世に掛けての市民社会論の変遷と相通じる状況を、我々に提示しているように思われる。すなわち、それは、中世のキリスト教における市民社会についての議論に含まれる共同体の構成要因という観点へと繋がるものである。いわば、ギリシア時代から変容して、キリスト教の教会共同体の重視への経過と関連付けられるものであろう。まさしく、ヘーゲルの国民宗教はその経過を「変容」と捉えた一様が窺える。しかし、それはあくまで宗教の様態に最たる着目をなしているために、ギリシアの多神教と、共同性に根付く国民宗教に関しての不合致という点が、強く意識されるものとして示されている。そして、この比較を超越した存在としての普遍的な理性が重視されるのであり、それが宗教に介在することへの必要性を唱えるものであったのである。よって、そこにはカントの名が挙げられるのであった。続いて、(二)に関して、先ずヘーゲルからの引用を見る論考へと着目する。

  「国民宗教たるべきあらゆる宗教は、必然的に、心と想像との興味をひくようにつくられていなければならない。最も純粋な理性宗教もまた、人間の―国民のであればなおさらのこと―魂の中に体現されるのである。そして想像が冒険じみた逸脱をすることを防ぐために、早くから宗教そのものを神話とむすびつけてしまい、想像に少なくとも一本の美しい道を示して、想像がこの道を花で飾ることができるようにしてやることは、きっと好ましいことだろう」。

ここでもキリスト教とギリシャの宗教とが対比されている。キリスト教の想像 Phantasieは「恐ろしいもの」か、さもなければ「子供じみたもの」しか描けない。「愛らしいもの、感性からとってきた美しい色彩」は、キリスト教から締めだされている。我々は一般に、あまりにも「理性人、言語人」すぎるのである。「儀式」のない宗教は考えられないのであるが、もはや「俗物」には儀式に宗教の本質をみることはできなくなっている。

「犠牲」も「儀式」のうちに含めることができるが、ここでもキリスト教とギリシャの宗教とでは対照的である。前者においては、犠牲は贖罪の犠牲として、免罪として、また恩寵への勧誘として供えられた。それに対してギリシャの宗教においては犠牲は感謝と好意の表現として供えられる。

結局、「神聖な気持ちを高める」ことだけを目指す国民宗教の儀式として残されているのは「神聖な音楽と国民全体の歌」、そして恐らくは「国民の祭典」だけだということになろう。宗教は、その祭典の中に混入されるべきだとされるのである。ということはキリスト教的な儀式のほとんど全てが、排除されていることを意味するのでもある。ところで、まさにこの草稿の執筆時期と前後して「国民の祭典」がフランスにおいて創設されつつあったことを想起すべきであろう。(四五 各前掲)

 ヘーゲルからの引用が示すように、心と想像との興味に基づく宗教という方法は、前節の理性とは別位相のものであるが、これは宗教的犠牲という状況に対しての解釈に顕著に表れることが分かる。これは生方によって、キリスト教徒ギリシアの宗教との差異として明らかにされたのであるが、この双方を超越した「国民の祭典」という提示は特筆すべき要点を含んでいるように思われる。ここからすなわち、国民宗教に含まれる共同性ともいえる性質の形態が、どのようなものとして構成されうるのかという解答の一つが見出せるのではないだろうか。ここにもやはりフランス革命の意義が提起されるのであった。この更なる解明は、次の(三)に関する説明として、確認されることになるのであった。

  国民宗教の教説は、⒈ 生及び生の欲求と、また、⒉ 公的な国家活動とむすびついていなければならない。生活と教説との問に隔壁があり、両者が遠ざけられている場合には、宗教の形態に欠陥があるのではないかという疑いが生ずるのは当然である。「宗教はあまりにも美辞麗句とかかわりすぎているのではないか。それとも人間に信心ぶった過大な要請をしていて、人間の自然な欲求に反しているのではないか」。あるいは同時にその両方があてはまるのではないか。国民宗教であるためには、宗教は「生の歓喜」を与えるものでなくてはならず、「生のあらゆる感情」に親しいものであるべきである。ここでもへーゲルはキリスト教のリゴリズムと「陰気な外観」、彼岸的性格を批判し、ギリシャの宗教の明朗快活な性格、現世的此岸的性格を受けいれるのである。

次に国民宗教は公的な国家的活動とむすびつくべきだとされるのであるが、ここでへーゲルが例にだすのも、ギリシャ人の「国民の祭典」である。「ギリシャ人の国民の祭典は全て宗教的な祭典(祭り)であって、ある神にか、あるいは彼らの国家につくしたが故に神格化された人間に敬意を表するためのものであった」。しかし、キリスト教国においても、宗教と国家、そして国民的祭典は、多かれ少なかれむすびついているだろう。ここでへーゲルが考えているのは、国民の英雄達、国民の解放者達に敬意を表する祭典がギリシャにおいて行われたのに対し、キリスト教国では聖人達のための祭典や復活祭その他の宗教約行事が中心になっているという対照性なのではないか。また、そもそも国民宗教は、共和制を前提にしてのみ構想されうるものなのであった。ちなみにこの時期、フランスは共和国建設のために命を捧げた偉人達のための祝典を新設しつつあった。この点でも、ヘーゲルとフランス革命とは、古代ギリシャ的国民宗教という一つの帯によって結合していたのである。(四六 各前掲)

 生の欲求と公的な国家活動との関連について示されるこれらの説明は、前節にも示される感謝や感激に基づくギリシア宗教からフランス革命への流脈に着目するに併せて、共同性の議論に向けての有意義な示唆を含んでいる。それは、人々の生と国家の制度の関連から導かれる共同性が、国民の祭典という方法によって育まれ、国民宗教という形態によって達成されるという可能性の提起である。なお、これは、ヘーゲルによって論じられた、市民社会の究極としての国家、その基底にある宗教の構築に向けての論理的な問い掛けが、市民社会論・共同体論へと多分に寄与することを意味しているのである。

ここに示される多くの言説は、一般的に紹介されることの少なかったヘーゲルの国民宗教論および共同性への考察の特徴を如実に明らかにしたものであり、数多の関心を含んでいる。加えて、最後に示した、ヘーゲルの思索したギリシア的という主題とフランス革命の成果とを連関させた視点は、当時における古典主義という名の一側面を窺わせるようでもある。また、上記の思考過程からも分かるように、一時期のヘーゲルが国民宗教への情熱がいかに強いものであったかということを示すものであろう。

 テュービンゲン草稿の最後はギリシアの「国民精神」と「国民宗教」と連関についての指摘が含まれている。それはヘーゲルによる「国民の精神、歴史、国民の政治的自由の程度―これらは相互の影響からみても、それらの性格からみても切り離して考察されるべきではない―これらは一つの帯の中に編みあわされている。―個々の人間の道徳性を形成することは、私的宗教や両親や自分の努力や環境といったものにかかわる事柄である。国民の精神を形成することは、一つには国民宗教にかかわる事柄でもあり、一つには政治的語関係にかかわる事柄である」(四七)という言述から見出せるのである。そして、そこに示される、「国民精神」と「国民宗教」についての、ヘーゲルが行った両者に対する高い評価の表明であった。そのことについて、生方はヘーゲルの言説を次のように表現し、ヘーゲルを「ホメロス」の如き吟遊詩人に仕立てている。

この精神 GeniusGeistの擬人化された表現であろうか)の父はクロヌス、即ち「時」である。時が、この精神を産みだすとともに、いつかは喰い殺してしまうのである。国民精神の再生をもたらすのも、この「時」とされるのだろう。この精神の母は「ポリテイア、憲法 Verfassung」であり、その「産婆、乳母」こそは「宗教」すなわち国民宗教である。「芸術」が宗教の助手をつとめるだろう。(四八)

「時」がポリテイア=共和国=憲法=「母なる大地」と交わって、誕生する美しい息子が「国民精神」である。この美しい国民精神の誕生を助け、「純粋な感覚」という健やかなミルクを飲ませる役目を国民宗教がひきうける。国民精神と母なる大地とは、「欲求」によって編まれた帯でむすびつけられているが、国民精神はこの帯を自分の「感覚」、自分の「想像」によって加工し、美化してバラの花で飾りたてるのである。この精神の魂には「自由」が住み、「友情と愛」がその友人である。この精神が自分の乳母でありまた長じては女友達となる国民宗教を軽んじた時には、内なる「良心」が彼を罰する。彼女は国民精神の想像を自由にさせておくが、しかしまた同時に「鉄の如き必然性」を尊敬して「取り消しのきかぬ運命」に従うことを教えるのである。(四九)

しかし、この国民精神はもはや想い出のうちにしか生きていない。国民精神は、大地から、すなわち母なる「祖国」=「共和国」から逃げ去ってしまったのである。(五〇)

 まさしく、これらの表現からも、国民精神とはギリシア的精神であると認識することができる。つまり、それは、「美」、「愛」、「生」、「自由」、「徳」とむすびついており、母なる「共和国」の息子である精神であるとされる。更に、このような国民精神は既に大地から逃げさってしまったのであるが、西欧において再生させることは可能であろうかという問いに至る。そして、そのためには、まず父なる「時」が、そして母なる「共和国」、「憲法」が必要であり、この国民精神の誕生を助ける産婆であり、乳を飲ませる乳母であり、やさしい女友達でもある国民宗教が必要なのである、ということが我々の眼前にて教示されるのである(五一)。すなわち、フランス革命よって「時」は既に満ちたという、理想像の設定に似た思考がそこに含まれるのである。そして、生方は、「新妻であるフランス共和国から新しい精神が誕生しつつある。いまこそこの国民精神を育てるべき新しい国民宗教が創出されるべきである。このような動機によってヘーゲルの国民宗教構想は描かれたにちがいない」(五二)というように表現し、フランス革命からの影響が窺えるヘーゲルの国民宗教論の構想と意義が、共同性への問いと共に絵図のようにそこに示されたのであった。

 国民宗教の各論点を収斂させた時、とかくとしてヘーゲルが根底に置いたもの、それはキリスト教批判であった。すなわち、現前たるキリスト教とは異なる国民宗教が、ヘーゲルの追求した国家的共同性と国民精神、そして道徳法則と国民的な財産共有、この二点双方の目標を達成するものであると捉え、この国民宗教こそが国民的共同性を担うものであると構想していたことが分かるのである。

共同体論の新段階―G・デランティ『コミュニティ』の射程 



第二章 共同体論の新段階―G・デランティ『コミュニティ』の射程  

第一節 『コミュニティ』の新機軸 

第二節 現代思想による共同体の議論―ポストモダン・コミュニティ  

第三節 ヴァーチャル・コミュニティの可能性と課題  

 第三章は、本稿全体の「カデンツァ」としての意味を有している。コミュニティ論すなわち共同体論の現代的考察に触手を伸ばすことにする。共同体論と市民社会論は近代以降多様な進展を見せた。哲学史の側面から考える際、近代哲学は、哲学を体系化したとされるヘーゲル、市民社会批判から共産主義への構想を描いたマルクスを経て、一応の終息を見たといえる。その後に訪れたものは、二〇世紀における現代思想からのアプローチである。その現代思想によって、共同体、市民社会に対する視座も無数存在するようになった。それも、単一の学問からの眼差しではなく、いわば、哲学的、社会学的、政治学的という区分けがなされないことを前提に、複眼的、学際的な論点を含む、共同体論、市民社会論の展開を目にすることができる。

別の観点から一瞥すると、共同体や市民社会の概念を深く探求し、用語の一字一句に配慮した哲学的共同体論や政治学的市民社会論という傾向は薄らぎ、例えば、共同体的な様態を「コミュニティ」という一語に画一化した上で、現実的な共同体や地域社会に着目したコミュニティ論のような領域が一般化されている。逆に考えるなら、コミュニティという用語が普遍的な意味を持つ、いわばその簡略化は、かつての共同体論や市民社会論という領域に多くの視点や思考法の進出を可能にしたといえるのではないだろうか。つまり、哲学、政治学、純粋社会学が担ってきた共同体論、市民社会論に関して、現代的なテーマの含まれる、メディア論や、記号学、臨床心理学といった体系的には別分野の学問からの考察も可能になったのである。すなわち、先述のエーレンベルクの『市民社会論』に見られるように、原題の視点からかつての市民社会論を蒐集する通史的研究においては勿論こと用語や概念を重視するが、現代的コミュニティ論においてはまさしく現代思想や現代社会学の影響が強く反映されており、具体的なコミュニティの類型化や心理学の側面からコミュニティを解釈するといった試みが多く存在しているのである。

 本章はそのような傾向を持った、共同体と市民社会に関する現代的理論を提示することに目的を置く。本章の第一節以降、コミュニティ論の国際基準となった研究文献である、ジェラード・デランティ『コミュニティ―グローバル化と社会理論の変容』(一)の紹介と、本書において論じられている現代的な主要テーマを参照にして、新たな共同体論への接近を試みたい。ここで着目する主要テーマとは、現代思想を舞台にした共同体論と、インターネットメディアを背景にしたヴァーチャル・コミュニティに関する考察である。現代思想に関連する第二節においてはデランティの解釈に基づいた上で、主としてジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』(雑誌掲載一九八三年、発刊一九九九年)モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』(一九八三年)との影響関係によってもたらされた現代思想による共同体論の新機軸について考察する。

なお、第三節のヴァーチャル・コミュニティは、文字通り現実の空間性の薄らいだ共同体を主題とする。インターネット社会の進展に伴い、遠隔地でも人々の交流は可能になったということを踏まえた、デランティの分析するヴァーチャル・コミュニティの可能性や課題についての考察と向き合い、同時間でありながら異空間にて存在する人々の間におけるコミュニティの構造に着眼点を置くものである。

 ここに示した本章の概略を踏まえて、本章の本題への前段として、「公共性」についての現代的指針を導いたユルゲン・ハーバーマス及びデランティの言説の特徴的な箇所を次に引用したい。ハーバーマスは市民社会について、デランティはコミュニティについて、それぞれ次のように示している。

市民社会領域は、まったく新しい歴史的配列において今日再発見された。「市民社会」という表現は、この間に、自由主義的伝統における「ブルジョア社会」、すなわちへーゲルが「欲望の体系」として、つまり労働や商品交換をふくむ市場体系と概念化したものとは、異なる意味をはらんできた。「市民社会」が今日意味するものは、マルクス主義的用法とは対照的に、私法によって構成されたり労働・資本・商品などの市場によって方向づけられる経済をもはやふくまない。むしろ、その制度的中軸は、社会の生活世界部分における公共的コミュニケーション構造に対応する、非政府的・非経済的連合体やヴォランタティア諸団体によって構成されている。市民社会は多かれ少なかれ、こうした自発的に発生する様々な団体・組織・運動によって成り立っており、これらは、社会的問題がどのように私的生活領域に反響するかを調整し、その反応を純化し拡大して公共的領域に伝達する。市民社会の中枢は、組織された公的領域の内部で、一般的利害の問題解決的討論を編成する諸連合のネットワークで構成されている。こうした「討論構想」は、諸組織がそこに結集し、それに連続性と永続性を与えるコミュニケーションの本質的特徴を反映する、組織化の平等主義的開放的形態である。(ハーバーマス)(二)

コミュニティが放つこの尽きせぬ魅力をどう説明すればよいのであろうか。その理由はおそらく、コミュニティの理念が、モダニティの不安定な条件下における帰属探しと関連があるという点にある。今日見出されるコミュニティへの高い関心は、グローバリゼーションによって引き起こされた連帯や帰属の悪化と危機に対する一つの反応とみなすことができよう。モダニティは三つの大変動すなわち、アメリカとフランスにおける革命、一九世紀末以降の工業化、更には今日のグローバリゼーションの時代をもたらしたのであるが、それらはコミュニティにまつわる主要な言説を生み出した。これらの変動やその他の展開に由来するコミュニティの表現形態は、オルタナティヴでユートピア的なコミュニティから、伝統的村落や産業都市の地域社会、国境を越えるディアスポラやヴァーチャル・コミュニティに至るまで、様々である。コミュニティはエスニシティや宗教、階級、政治を基盤としてきたが、その規模は大小まちまちである上に、「薄い」愛着の場合もあれば「濃い」愛着の場合もあり、地域を基盤にしている場合もあればグローバルに組織されている場合もあり、既成の秩序に対する関係の面でも、肯定的な場合もあれば反抗的な場合もあり、伝統的な場合もあればモダン更にはポストモダンの場合もあり、保守的な場合もあれば進歩的な場合もある。(デランティ)(三)

 この二つの引用からも分かるように、現代思想の領域は、本論にて示したマンフレート・リーデルやジョン・エーレンベルクなどの論考に含まれる西洋史に通底する市民社会論と共同体論の水脈に、様々な分岐支流を準備し、更に進展させたことが分かる。

前掲のハーバーマスが解釈するように、ヘーゲル=マルクスにおいて論じられた市民社会・共同体の制度論とは異なった公共性の立場に着眼点を置く共同体論として提示されることになった。これは、そこに示される「討論構想」に基づくものであり、まさにコミュニケーション形態として明らかにされるものであった。そのコミュニティは、取り留めない程の種類として現れているのである。つまり、市民社会・共同体とは何かという問い以上に、市民社会・共同体の類型は何かという問いを含んでいるのであった。

それはまさしくデランティのコミュニティへの問いに通じるものであった。『コミュニティ』には通史的な側面があるものの、類型化の方法を問うために、様々なコミュニティの種別ともいうべき項目を提示し、我々に対して、その精査を要求しているのであった。例えば、「薄い」あるいは「濃い」コミュニティについても、オルタナティヴな思考法を持ち合わせた上で、我々へ問い直しているとも言えよう。しかし、このコミュニティの類型は、明らかに複雑を極めているのである。よって、コミュニティを解釈するためのアプローチ方法も単線的なものでは対応できない。これこそ現代的なコミュニティ論の特質なのである。これらに対峙するために、我々においても複眼的な識見と思考法を準備する必要があると言えよう。

第一節 『コミュニティ』の新機軸

 ジェラード・デランティ著作の邦訳『コミュニティ―グローバル化と社会理論の変容』は、ラウトリッジ社が企画する「キー・アイディアズ」シリーズの中の一冊として、二〇〇三年に刊行されたものである。デランティはリヴァプール大学を経て、エセックス大学社会学部で教鞭を取る、現代イギリスにおける重要な社会学者である。この『コミュニティ』の他に、 Citizenship in a Global Age:Society, Culture, Politics, Open university Press, 2000.」(邦訳『グローバル時代のシティズンシップ―新しい社会理論の地平』)等がある。訳者の山之内靖によると、『コミュニティ』の邦訳に際しては、内容に照らし合せて、「グローバル化と社会理論の変容」という副題をつけたということである。「グローバル化」についていえば、本書の通読によって見出せる通り、伝統社会の遺産だと考えられてきたコミュニティが、グローバリゼーションとともに新たな姿を取って復元してきている、ということが著者の論点であると認められることから、山之内は自らによる副題の設定の適切性を確認している(一)

そして、我々は「社会理論の変容」という表現に着目する必要があるだろう。この「社会理論」という表現は、日本語訳として曖昧さを含んでいるものの、術語的には、英語圏では一般化しており(二)、著者のデランティにおいても、「Social Theory in a Changing World. Conceptions of Modernity, 1999, Polity Press」という独立の著作があることからも分かる。この「社会理論」が広く用いられるようなったのは一九八〇年後半辺りからであるとされるが(三)、これらの学術的傾向に関連する「社会学」と「社会理論」の概念的な差異について山之内は次のように説明している。

  イギリスの社会科学者一般が「社会学」というタームを捨てたわけではない。いまでも社会学というタイトルを持つ学部や学科は、イギリスの多くの大学で維持され続けている。―ただ、「社会学」というタームでは表現しにくい領域が社会科学のなかから頭をもたげてきたということは考えられる。(四)

本書(『コミュニティ』)の章立て―そこには、「社会学一般」や「都市社会学」だけではなく、「政治哲学」「文化理論」、更には「ポストモダニズム」、「ヴァーチャル・コミュニティ」といった多様な領域が姿を現している。ここから諒解されるように、社会学をその他の学問領域から区別された独立の専門分野だ、とするような一九七〇年代以前の理解では、もはやグローバリゼーションの時代を特徴づける諸問題領域を超えた社会現象の研究は不可能になった。(五)

 まさに、広範な領域を相手にした学問という性格上、純粋社会学の系譜にある社会学各論とは距離を置くために「社会理論」というタームを用いたことが分かる。これらに含まれる諸問題領域への視点を用いるという方法論を再認識させるごとく、冒頭には次のように様々な分野の研究からの引用が示されている(六)

  エリック・ホブズボーム『極端な時代』

この数十年ほどの間に、社会学的な意味でのコミュニティは実生活の中に見出しにくくなったのであるが、それにつれて「コミュニティ」という言葉も、かつて考えられなかったほどに無分別に、また意味もなく用いられるようになった。

  アンソニー・ギデンズ『左派右派を超えて』

今日、政治的スペクトルの左右両サイドに、社会解体に対する不安と、コミュニティの復活への希求がみられる。

  ジグムント・バウマン『コミュニティ』

我々は幸せな生活にとって不可欠な安全性を失ったがゆえにコミュニティに郷愁を覚えるが、我々が住むこの世界は以前にも増してそれを提供できないし、それを約束することを躊躇するようになっている。

  アラン・トゥレーヌ『モダニティの批判』

コミュニタリアンの社会は息苦しく、神政政治もしくはナショナリストの独裁政治に変容する可能性がある。

  クレイグ・キャルホーン『社会学的問いかけ』

コミュニティ生活とは、濃密で多層的な、比較的自律した社会関係のネットワークの中で人々が暮らしている生活と解釈することができよう。したがってコミュニティは、一つの場所でもなければ、単なる小規模な人々の集まりでもなく、多様な広がりを持った一つの関係のあり方である。

マニュエル・カステル『インターネットの銀河系』

おそらく、インターネット時代の新たな社会的相互作用の形態を理解するための分析手順としては、コミュニティの文化的構成要素をあまり重視しないこと、コミュニティによる個人や家族への支援的役割を強調すること、社会的実在物としてのコミュニティが示す結びつきを解体すること、といった諸点を通してコミュニティを定義しなおすことが重要であろう。

  ユルゲン・ハーバーマス『他者の受容』

コミュニティ道徳は、その成員がいかに行動すべきかの拠りどころであるにとどまらない。コミュニティ道徳は、それをめぐって起こる紛争においても、合意による解決の拠りどころとなる。

 まさしく、『コミュニティ』はここに紹介した引用に見られるような各テーマを網羅した上での論考がなされている。元来、共同体と市民社会の研究領域は哲学、政治学を中心とした議論であり、近代以降はそれに加えて社会学や経済学が関連を持つようになってきた。しかしながら、二〇世紀以降のモダニズムやポストモダンに象徴される現代思想の議論は、体系化された学問領域を超越して様々な分野へ関与するようになったのである。まさにこの『コミュニティ』もその流れを汲んでいる。本章の序文にて引用した、デランティの言述からも分かるように、その広範なる視野に基づいたコミュニティ論は、共同体論や市民社会論を包含させるとともに、大きな魅力ないし着眼点の提供といった様々な「成分」を含んでいるのである。

 序文にてデランティが示した概要を基に、『コミュニティ』の目的と内容構成を把握すると次のようになる。

本書は、コミュニティという概念に今日的な解釈をほどこすことを目的としているとして、社会学の伝統的概念の一つであるこの言葉について検証しようとする場合、その出発点におかれたのは、社会・文化・政治の各領域で大変動が起こった結果、コミュニティが今や転換期にあるという認識である。現代の世界的大変動の中にはコミュニティ概念に重大な影響を及ぼしている要因がみられ、その結果、この概念は昨今の社会・政治思想において大きな争点となっている。ポストモダニズムやグローバリゼーション、インターネット、更には「第三の道」スタイルの政治学に関連する展開を通して、古典社会学やコミュニティ研究が提起してきたコミュニティ概念に疑問が投げかけられている。古典的な社会学者たちはコミュニティの消滅を確信していたのであるが、事態はそれとは著しくかけ離れている。コミュニティは今日の社会・政治状況の中で復活を遂げつつあり、世界的規模でルーツ探しやアイデンティティの探求、帰属に対する欲求を生み出している。(七)

 ここに見るように、またデランティが、コミュニティという言葉の使用をめぐって社会科学者や政治学者、歴史学者、哲学者の間で意見は多様に分かれてきたと指摘しているように、多くの人々がこの言葉の有効性に疑問を抱くようになったのであるが、もし「コミュニティ」という言葉を拒むとすれば、それを他の言葉を代用しなければならなくなるのであり(八)、極めてこんな状況が生じるのであろう。

デランティはこの複雑性について次のように指摘する。「一般に、社会学者にとってコミュニティという言葉は昔から、近隣社会、小規模な町、あるいは空間的に拘束される地域社会など、小規模集団を基礎にした特定の社会組織を指すのが常であった。一方、文化人類学者は、この言葉を文化的に規定される集団に適用してきた。その他の使用法としては政治的コミュニティを指す場合があり、そこではシティズンシップや自治、市民社会、集合的アイデンティティに力点が置かれてきた。また、哲学や歴史学の分野では、イデオロギーあるいはユートピアとしてのコミュニティ概念に焦点が当てられる場合が多かった」(九)

 コミュニティの概念への着目に際して、デランティは先ず、アンソニー・コーエンの言説を参照している。すなわち、コミュニティという主題について、アンソニー・コーエンが、『コミュニティの象徴的構造』の中で、コミュニティを社会的実践としてではなく、象徴的な構造と解釈する必要性を説いた点を指摘して、「コーエンの議論は、過去二〇年にわたるコミュニティに関する議論の中でもとくに大きな影響を残した。この書物により、地域性に基づく社会的相互作用の形態としてのコミュニティを強調してきた従来の議論は、意味やアイデンティティの関心へと、焦点を移動させる傾向をみせるようになった」(一〇)という内実について説明しているのである。

 コーエンの影響を受けたベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』は、主としてナショナル・アイデンティティに関する議論を行い、そのアプローチは、社会的相互作用の具体的形態としてのコミュニティよりも、「想像されるもの」としてのコミュニティという解釈に対する広範な影響を与えたのである(一一)。これは、アンダーソンの研究の論点が、コミュニティが「生きられる」空間や即自的な社会的親密さによって支えられているのではなく、認知的・象徴的な構造によって形成されていることを示したからであった(一二)。しかしながら、デランティの指摘によると、アンダーソンの言説や思考法が、次のような事態をもたらしたことが分かる。

多くの批評家の見解によれば、このことは、コミュニティの社会的側面の喪失と、文化的側面に対する過剰な関心へと導くこととなった。これは必然的に、コミュニティについて、人々が共通に持っているものから形成されるのではなく、人々を隔てるものによって形成されるという見方を生み出した。こうした文化的コミュニティ概念こそ、コミュニティの中に社会的要素をふたたび注入したいと望み、コミュニティ理論の「文化的転回(カルチュラル・ターン)」によって放逐されてしまった場所の感覚を回復したいと望む批判者から、今日、疑問を投げかけられているものなのである。(一三)

 

まさしく、『想像の共同体』というセンセーショナルな著作によって、コミュニティへの関心は、共同体論・市民社会論に通底する社会学的・政治学的な見地から、そのコミュニティの「表象論」ともいうべき傾向へと志向されるようになり、特に、同じ場所に限らない新たなコミュニティ構造の在り方について議論が及ぶことになったのである。

なお、このようなコミュニティという言葉の使用法を綿密に検討してみると、次に示すデランティの解釈は適当であろう。すなわち、「コミュニティ」という言葉は実際のところ、コミュニティに対する希求や、意味(存在意義)や連帯感の探求、集合的アイデンティティの表現など、帰属についての考え方と、特定の社会現象の両方を指しているということである。そして、これについて改めて思慮するならば、「コミュニティは多様な性格を持っており、ただ単に特定の場所や集団と同一視することはできない。またそれは一つの理念に還元することもできない。というのも、理念は、社会関係や、社会的に構築された言説、歴史的環境の外側にそれ自体として存在しているわけではないからである」(一四)ということが分かる。

 加えて、デランティは「社会的・文化的・政治的・テクノロジー的争点」に関わっている「容易に和解できない四つの広範な立場」(一五)として、次のように類推し、説明している。

第一はコミュニティ研究に特有のアプローチであり、コミュニタリアンの思想にも反映されている見解である。その見解は、コミュニティと不利益を被っている都市部の地域社会とを結びつけるものであり、コミュニティの再生、コミュニティの保健プロジェクトなどに見られるように、政府に積極的な対応と市民のボランタリズムを要求するものである。ここでの〈コミュニティ〉は相当程度空間化されており、メインストリーム「社会」の支援を必要とする(一六)

第二のアプローチは文化社会学と文化人類学に特徴的なものである。ここでのコミュニティは帰属に向けた探求と考えられており、アイデンティティという文化的な問題に重点が置かれている。このアプローチでは、自己対他者としてのコミュニティに力点が置かれる(一七)

コミュニティについての第三のアプローチはポストモダン政治とラディカル・デモクラシーにヒントを得たもので、政治意識と集合行為という観点からコミュニティをとらえている。このアプローチでは、不公正に反対する集合的な我々に力点が置かれる(一八)

第四のものはあまり明確ではないが、コミュニティがコスモポリタン化され、新たな近接性や距離関係の中で構成されるグローバル・コミュニケーションや、トランスナショナルな運動、インターネットをめぐって、ごく最近登場したものである。この展開の中では、伝統的な場所のカテゴリーを越えた社会関係を築き直す上で、テクノロジーが重要な役割を果たしている。もしもこれらの非常に多様なコミュニティ概念を統一する立場があるとすれば、それは、コミュニティとは帰属に関わるとする見解に他ならない(一九)

なお、ここに示された、第一におけるコミュニティの再生という視点、第二の文化人類学からの視点、第三のポストモダン政治とラディカル・デモクラシーからの視点、第四のグローバルやトランスナショナルという新たな状況把握に基づく視点、これらはそれぞれ、一見、旧来からの哲学史の流脈と異にするようにも見えるが、市民社会概念の歴史に包含していた、いかなる志向性を持する存在なのかという議論を多く孕んでいることも看過できない。特に、第一に示されている共同体主義ともいえるその思考方法や実践理論は、前章にて提示した「共同性の問い」と必然的に関連するように思える。しかし、それらは、かつての哲学的思惟といった理論面での言明に重きを置くことはなく、まさしく何を志向し、この場合での、いかにしてコミュニティを再生するかという点に特段の配慮を払う方法なのである。その方法論の模索のために、多くの選択肢を見出すための作業が必要であるといえるのである。これは第一から第四までに示される各々の議論に通じる性格であるとも考えられよう。

そして、ここに示される四つのアプローチについてのデランティの分析は、本節の冒頭にも述べた通り、幅広い巨視的な研究への意志のようなものを感じさせる。デランティはその意志を次のように明確にして、著作『コミュニティ』を論じるにあたっての動機を示している。

本書が採用するアプローチは、これまで様々な思想潮流によって用いられてきた方法に即してコミュニティを解釈すること、ここにある。目の前で展開しつつある様々な発展の意義について十分な理解を得ようとした場合、近代の社会・政治思想におけるコミュニティ概念について、広範かつ学際的な検討を行うことが不可欠である。本書の構成は、政治哲学、社会学、文化人類学、歴史学の視点を含み込んだ学際的アプローチという考え方を反映している。それぞれの章は、哲学や社会科学分野の古典的なコミュニティ概念から始まり、それらがどのように現代の状況へと転換したかを描き出している。これはコミュニティの興隆、衰退、再生についての物語である。一九世紀がコミュニティの世紀だったキリスト教の伝統にさかのぼるものであったのに対して、二〇世紀の諸言説は、全体的にみて、コミュニティの危機をめぐるものだった。コミュニタリアニズム、最近のポストモダン思想、コスモポリタニズムやトランスナショナリズム論に見られるように、二〇世紀の最後の一〇年から今世紀の初頭にかけて、コミュニティは復活を遂げている。(二〇)

 この表明からも分かるように、多くの分野を吸収し、それを素材としての設計図を描き、建築物を構築することを企図としていることが分かる。そして、この結部で示されたコミュニティの復活という点は極めて示唆的な意味を含んでいる。その実相を問うための道程を描く、『コミュニティ』の全体像について、デランティがその序論で行った摘要を踏まえると、次のように紹介することができる。

 一章「理念としてのコミュニティ―喪失と回復」では、西洋思想と西洋政治に現れたコミュニティの歴史的表現について検討している。ここにおける論点の一つは、支配的秩序に対するラディカルなオルタナティヴとして提示された、ユートピア的コミュニティ構想であった。通史的に捉えるコミュニティに関しての思想は、破壊的な欲求から保守的な現状肯定に至るまで、様々な形態として出現したことを考察している。(二一)

 二章「コミュニティと社会―モダニティの神話」では、古典社会学と文化人類学のコミュニティ観に着目している。その中で、モダニティの到来に伴うコミュニティの衰退について示している。ここにおいては、テンニースのゲマインシャフトとゲゼルシャフト論、デュルケムの市民共同体に関する社会学的研究、ヴィクター・ターナーの象徴的コミュニティ論などを取り上げ、詳細な分析的検討を行っている。(二二)

 三章「都市コミュニティ―地域性と帰属」では、文化的・政治的なコミュニティ概念から、都市社会学とコミュニティ研究におけるコミュニティについての論証を行っている。ここにおいては、シカゴ学派のアプローチと、昨今にて様々な議論を提供している都市社会論とその主たるテーマであるローカル・コミュニティについて考察している。これについては、先述したコミュニティの衰退という状況を、近代化とグローバリゼーションの観点から見詰め直すものであった。(二三)

四章「政治的コミュニティ―コミュニタリアニズムとシティズンシップ」では、コミュニタリアン思想を基礎としたコミュニティの復権論について検討したものである。この論点において不可避ともいえる政治的コミュニティへの着目を踏まえつつ、シティズンシップという用語に見られる「帰属」に関する問題とその概念的意義についての議論を始めとした考察が行われている。(二四)

 五章「コミュニティと差異―多文化主義の諸相」では、「多文化主義」の問題性と、文化的コミュニティ概念の差異や対立状況について着目している。これは、伝統的多文化主義、近代的多文化主義、ポスト多文化主義というタームを分類した他、一〇種類の多文化主義モデルを提示した上での詳細な解明を行なっている。(二五)

 六章「異議申し立てのコミュニティ―コミュニケーション・コミュニティという発想」では、社会運動とコミュニティの関連についての議論に重きを置いている。ここに見られる他者とコミュニティという関係性から、コミュニケーション・コミュニティという概念を見出している。そして、新時代的な個人主義という主題から、コミュニティと個人主義の関係を独自の視線で捉えようという試みがここにある。(二六)

 七章「ポストモダン・コミュニティ―統一性を超えるコミュニティ」では、コミュニティに関わるポストモダン理論についての批判的議論に基づき、「統一性」を超えるコミュニティの概念と内容について考察している。ここでは、日常生活、ニューエイジ・トラベラー、嗜好のコミュニティといった一見ユーモラスな議論が含まれている。(二七)

 八章「コスモポリタン・コミュニティ―ローカルなものとグローバルなものの間」では、国民国家の枠を超えるコミュニティという論点が中心に据えられており、グローバリゼーションというテーマに基づくコスモポリタン・コミュニティの議論を提起している。そして、世界コミュニティとトランスナショナル・コミュニティといった、コミュニティの新たな表現方法について検討している。(二八)

 九章「ヴァーチャル・コミュニティ―コミュニケーションとしての帰属」では、今日における重要な、ある意味、先鋭的なコミュニティ概念でもあるヴァーチャル・コミュニティについて着目し、「テクノロジーに媒介された形の相互作用はどのようにしてコミュニティの形態を構成するかを理解する」という視点の下、主な理論についての考察を行っている。(二九)

 そして、結論部にてデランティは、次のような文脈によってコミュニティの変遷について示し、読者と今日的なテーマを共有することを提案している。

今日におけるコミュニティの復活は、明らかに、場所と関係する帰属が危機に陥っていることと結びついている。グローバル化されたコミュニケーションや、コスモポリタンな政治。プロジェクト、国家の枠を超えた移動性は、資本主義が伝統的な形態の帰属を掘り崩すのとまさしく同時に、コミュニティに新たな可能性を付与してきた。しかし、これらの新たなコミュニティそれは実際には、個性化された成員から構成されるものであり、再帰的に組織された社会的ネットワークであるは帰属に対する希求以上のものではなく、これまでのところ、場所に代わるものとなってはいない。コミュニティが場所との結びつきを確立できるか、それとも想像された条件にとどまるかが、将来のコミュニティ研究にとって重要なテーマとなるであろう(三〇)

ここから見出せるものは、すなわち、新たなコミュニティ論の体系化と、それによる新たなコミュニティの可能性への類稀なる意欲の表明であるといえよう。

このデランティが示すところの基底に存在しているのは、コミュニティの復活に向けた議論における「場所(トポス)」の重要性ではないだろうか。次節にて、この場所ともいうべきコミュニティの喪失について着目することになるが、現代的な状況が、いかに難解なものであるかという条件と先ず向き合わなくてはならないのである。しかしながら、コミュニティの実体について問い続けること、しかのみならず、コミュニティというレンズを通して様々な事項へと着目することは、極めて重要であるといえる。それはコミュニティの復活や再生という理論の目的と重なるものであるが、ギリシア哲学から現代思想、更にはそれ以降へと至る中で議論され続けてきた市民社会論・共同体論を未来へ継承するための一つの方法論となり得るからである。すなわち、こうした我が思索を経たところでも、やはり、デランティ『コミュニティ』が、未来へと通じるコミュニティ論の経路を示すための重要な道標ともいえる意義を有していることが感じられるのではないだろうか。

第二節 現代思想による共同体の議論―ポストモダン・コミュニティ

 現代思想、ポストモダンにおける共同体の議論において、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』とモーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』という二人のフランス人哲学者の著作をめぐって展開された考察は、特筆すべき内容を含んでいる。デランティ『コミュニティ』もこの二著作についての議論を現代思想からのコミュニティ論として取り上げている。デランティは、「これらの二つの論説は、実際には、ナンシーとブランショを何らかの形で魅了したところの、謎めいたフランスの思想家ジョルジュ・バタイユによる初期の研究との対話から成り立っている」と述べた上で、脱構築主義の伝統に属すポストモダン・コミュニティに関してその他の主な研究例として、ウィリアム・コーレットの『一体性なきコミュニティ』、ジョルジョ・アガンベンの『来るべきコミュニティ』、ミシェル・マフェゾリの『部族の時代』(邦題は『小集団の時代大衆社会における個人主義の衰退』)」などの研究成果を挙げている(一)

 ブランショとナンシーにおけるポストモダン・コミュニティへの思考は、「コミュニティは喪失の経験なのであり、したがって、人々の生活における不在として経験される」(二)という点が根底に据えられている。ナンシーの疑問は「本質なきコミュニティ(「人民」でも「民族」でもなく、「運命」でも「生物種としての人間」その他もろもろでもないコミュニティ)は、いかにしてそのようなものとして提示可能か」ということであった(三)

これに対して、デランティは「コミュニティの回復に対するノスタルジックな訴えとは異なり、こうした考え方は、コミュニティを実現不可能なものとみなしている。コミュニティは、求めることはできても決して叶えられることのないものであり、不在としてのみ経験される。コミュニティは喪失の経験ではあっても、かつて保有していたものの喪失ではない」(四)として、ナンシーの言説への解釈を示している。

この喪失という観点に基づき、バタイユから影響を受けたナンシーとブランショは、コミュニティが友人の死の経験に似ていると考えたのであった(五)。すなわち、死を凝視する中でのこうしたコミュニティ表現の一例が、有名な人間の死後にみられた広範な喪の現象であるとされるのである(六)。デランティはそのコミュニティを「喪のコミュニティ」と表現している(七)

 ナンシーは「コミュニティは、他者を通じて、また他者のために生じるものである」と述べている(八)。この見解について、デランティは「コミュニティにおいて、自己はそのアイデンティティを他者との関係の中に見出す。こうしたコミュニティ観は、それを制度的あるいは空間的構造の形で明確に定義しようとするあらゆる試みに抵抗する。というのも、それは経験されるものとしてしかあり得ないからである」と解説している(九)

ナンシーはこうした理由によって、コミュニティが「操作不能」なものであり、道具化、制度化のできないものであるという見解を提出しているのである。更に、コミュニティが具体的な形態を持たず、対話的な関係の形態の場合、共通の絆の形態としては構成し難いことに着目し、「コミュニケーションは絆ではない」と述べている(一〇)

デランティは、ナンシーが、この見解の先に、コミュニティという感覚を表現するために、「本質なきコミュニティ」について論じていることを取り上げ、併せて、ナンシーが「我々は失われたコミュニティとそのアイデンティティに対する回顧的な意識に疑問を抱くべきである(この意識が自らを実質的には回顧的なものと考えるのか、それとも過去の現実性を無視し、理想あるいは回顧的なヴィジョンのためにこうした過去のイメージを構築するのかはともかくとして)」と論考したことを提示している(一一)

 対して、ブランショは、コミュニティが友愛の経験に由来するものであるとされるが、決して実現できないものであるという見解を併せ持つものであった。つまり、それは常に何らかの形で中断され、破壊されるからであり、そのことは『明かしえぬ共同体』の原典における試論名である「ネガティヴなコミュニティ」として表明されているのであった(一二)

デランティは、次のようにブランショの言説の経緯について説明している。つまり、ブランショは、「グノーシス派やキリスト教諸宗派など、謎めいていて、社会秩序を転覆しようとする、周縁的で秘儀的な集団に魅かれていた。ブランショにとってコミュニティは社会の不完全性についての意識なのであり、社会は来るべきコミュニティの約束を実現できないという認識を表すものである。こうした想定からするならば、コミュニティは社会によっては支えられないような種類の、強烈な経験を含む」ということであった(一三)。すなわち、それはまた、ブランショが語るコミュニティが、伝統的なコミュニティとは異なり、選ばれる「選択的コミュニティ」であるという点に重きを置いていることを意味している(一四)。つまり、その選択的コミュニティとは、「コミュニティが自由を表現しており、社会からの撤退によって、更には制約からの逸脱によって成り立っている」というような特質を含んでいるのであり、新たなコミュニティ論の一様が窺えるのである(一五)

 これらに示すナンシーやブランショのコミュニティ論の傾向は、まさしく現代思想の立場からのそれぞれ独創的なアプローチを意味している。

かくしてデランティは、これらの魅惑的な地に踏み入れた後、その他の現代思想に関わる言説について次のように考察している。

デリダは、あらゆる伝統的な概念を乗り越えたところの、コミュニティに関するまったく新しい見解を提示している。それは差異の相互承認から構成されるのであって、そこではあらゆる対立が抑制されるとするコミュニティ観である。(一六)

ウィリアム・コーレットは、デリダの哲学をコミュニティに応用しながら、コミュニティの一つの表現として差異の経験を挙げることができると述べている。―コーレットにとってコミュニティとは、自己の中心性を追放することにより、抑圧に立ち向かうための動員を可能とするものである。これは、フーコーとデリダから学んだ教訓であると彼は述べている。(一七)

 これらの思想は、コミュニティを、個人主義または集合性とは異なる「分かち合い」を基礎としたものへの関心として、論を進めることができる(一八)。コーレットは、「個人主義対集合主義という二元論を再生産しているコミュニタリアンの政治理論を乗り越えること」を目標にしており(一九)、そこにも領域の超越性という状況が示されるのであった。デランティはこのコーレットの解釈を踏まえて「ポストモダン・コミュニティに関する議論の大半は曖昧なものであるが、一つの重要な見方として、コミュニティは統一性を超えるものだ、とされている点が挙げられる」と分析している(二〇)

その他にデランティは、ビル・レディングズが「不一致のコミュニティ」を取り上げ、共通の主体性、集合的な「我々」、あるいは基礎となる文化的アイデンティティに基づかないコミュニティ論に着目しており(二一)、そこに示されるコミュニケーション・コミュニティについて、「開かれたコミュニケーション・コミュニティとしてのコミュニティ観は、未完成でしかありえないところの、ある種の連帯感の経験として表現される。これらの経験において特徴的なのは、自己と他者の異質性(alterity)と、基礎となる準拠点の不在である」という説明を加えている(二二)。この異質性という観点は現代思想の分野において論じられることが多い重要な素材であり、やはりコミュニティ論の中にも介入する意義を多分に含んでいることが分かる。

続いて、デランティは、ナンシーの影響を受けたスコット・ラッシュに着目し、次のようにその影響関係について論じている。「彼のポストモダン・コミュニティの解釈におけるコミュニティは再帰的なものとして概念化されており、その結果、現代の社会理論の重要な潮流との間に見られる極めて重要な結びつきを示している。ラッシュは、ハイデガーも引用しながら、コミュニティが示す共有性を強調しているが、しかし、伝統的コミュニティという意味においてではない。今日、コミュニティは選択されるものとなってきており、したがってより再帰的になっている。この点でラッシュは、ピエール・ブルデューの社会学理論から重要な発想を援用している。つまり、再帰性とは社会的帰属を疑問視する傾向を指す、というブルデューの論点である」(二三)。ここには、ブルデューの論じる社会的帰属を疑問視する「再帰性」という観点が含まれており、「基盤を欠いたコミュニティ」をいわばコミュニティの基底に据えた上で、それをいかにして論じるかという新たな試みを見ることができる。

 そこに見る社会学理論の見地に関連して、デランティは「ポストモダン・コミュニティについてより社会学寄りの解釈方法を用意するためには、ミシェル・マフェゾリの研究を念頭に置くべきである」と述べている(二四)。すなわち、マフェゾリは、現代社会の文化的変容という文脈の中で「情緒的コミュニティ(emotional communities)」が出現していると論じているのであった(二五)。なお、「情緒的コミュニティとは、不安定であるとともに開放的であり、確立された道徳的秩序に対し、多くの方法によって無秩序をもたらす可能性がある」としており(二六)、それらは「空間のない近接性、脱領土的な集団形成、開放的なネットワークといった姿」(二七)として現れるという傾向が見出せるのであった。

デランティはマフェゾリの情緒的コミュニティを、流動性や、時に応じた集合・分散を特徴とすると捉え、その一例として新たな宗派としてのオカルト集団を挙げている(二八)。そして、このコミュニティは、「世界を再魔術化」しようとする試みの中から生み出される存在であると認識している(二九)。もはやそこには、史的な展開を見る市民的共同体、市民社会などの議論とは異なる視座からの言説が存在しているといえよう。

 更に、マフェゾリは、コミュニティのポストモダンとしての形態に言及する際に、デュルケムの概念を現代の文化的コンテクストに着目し、「集合的沸騰(collective effervescence)」という理解を加えている(三〇)

デランティは、デュルケムが大規模な社会に適合し、市民的道徳を提供するための近代的なコミュニティの形態に関心を持していたことに対して、マフェゾリが、秘密的であり、その中では活発で、非常に感情的で、「大衆」というより「部族」から生じる、擬似宗教的な宗派的運動に関心を持っていたこと取り上げ、双方の思考について分析している(三一)。また、デランティは、マフェゾリの思考法について、「小規模集団や階級的特性を持たない文化的相互作用の形態を強調したジンメルの理論に近い。しかしマフェゾリは、大衆社会それは階級特性的な消費形態に立脚しているは衰退期にあるとみなしたのであり、また、新たな集団形成のダイナミクスに基づく、もっと混成的な消費と社交の形態に置き換えられつつあると考えている」と説明している(三二)。この階級特性的な消費形態における衰退期という捉え方は、現代的な消費論の領域との関連を持していることが垣間見られよう。これらの言説を進展させると、大衆の「部族化」に伴って、文化は断片化され、新たなコミュニティが登場しつつあるという想定がそこに含まれていることが分かるのである。デランティはマフェゾリのポストモダン・コミュニティについての考察を取りまとめ、次のように論じている。

ポストモダン・コミュニティが、日常生活に支えられる社交の形態や、消費の形態、更にはインフォーマルな友愛のネットワークの形で見られるということである。彼のコミュニティ概念は、何の道徳的目的もプロジェクトも持たない諸集団、そして更に重要なことは、それを構成する社交の関係にしか言及していない諸集団に関するものである。したがって、この意味で、ポストモダン・コミュニティは基礎とすべき何ものをも持たない。それは、一時的な集団形成なのであり、生活の流れの中に存在する。こうした見解を持つマフェゾリ版のポストモダニズムは、社会的なものは仮想現実の人工的な文化によって吸収されているとする、彼の主なライバルであるジャン・ボードリヤールのそれとは異なっている。マフェゾリにとっては逆に、コミュニティをめぐる特定の経験の中に、新しい社交の形態が存在しているのである。(三三)

 

ここに含まれるマフェゾリのコミュニティ論は、現代思想におけるその多様性の中でも、極めて独創的であるといえる。また、ここにおける要点である、インフォーマルな友愛のネットワークという観点は、場所のコミュニティの構築という目的を据えた時、軽視できない側面を持しているようにも思える。

デランティは以上の各言説と向き合った上で、ポストモダン・コミュニティについての総括として、次のように示している。「ポストモダン・コミュニティとは、伝統的でもなければモダンでもなく、自らの再帰性、創造性、自己の限界に対する認識によって支えられているということである。―ポストモダンのコミュニティ概念は、自己と他者の関係の流動性を強調し、閉鎖的ではなく、開放的なコミュニティ観へと導く。こうした議論のすべてから得られるものは、大衆文化という場の隅々にまで及んでいるところの、絶え間なく変容するものというコミュニティ概念である」(三四)

そして、次のデランティの表現が、共同体論の一様を分析するものとして重要である。すなわち、「ポストモダン・コミュニティは、文化の表現主義的な個人主義への開放に伴って到来したものであり、現代社会の空白を満たすものとして出現するのである」(三五)ということであり、まさに空白に対しての働きかけというコミュニティ論として、現代思想からの一つの視座を提供していることを明らかにしているのであった。

第三節 ヴァーチャル・コミュニティの可能性と課題

 デランティ『コミュニティ―グローバル化と社会理論の変容』の醍醐味の一つが、ヴァーチャル・コミュニティに関する論考である。この主題は政治学や純粋社会学の領域を越え、記号論やメディア論にまで到達したコミュニティ論として捉えられる側面を有している。

まず、デランティは、マーシャル・マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』がグローバルなコミュニケーション・コミュニティという発想を社会思想の分野に当て嵌めた(一)と理解することを始点として、現実に目を向けたところ、メディア発展に伴うコミュニティの衰退に着目するマクルーハンの予想とは異なる事態が生じていることを認識するに至ったのである。

つまり、それは、「情報通信技術は、これまでのあらゆるコミュニティの形態をはるかにしのぐところの、強力で新しいコミュニティの出現をもたらしている」ということであった(二)。デランティは『グーテンベルクの銀河系』以降の状況を踏まえた上で、「テクノロジーはコミュニティを衰退させると考えられていたが、今日のソフトなテクノロジーの時代において、コミュニティは新たな表現の可能性を与えられている。これにより、コミュニティに対する新たなアプローチが求められている」と述べている(三)。これがまさにマクルーハンの予想との乖離を意味している。この衰退論について改めて見渡すとそこにある実相とは次のようなものであろう。すなわち、歴史的経過として、産業革命の技術革新とコミュニティの崩壊との関連性が論じられている中において、技術の向上がコミュニティを衰退あるいは崩壊させるという視座を準備することが確かにあるが、新たに誕生した「技術・テクノロジー」が、それとは異なる効果を与えたということである。ここに肝要部が見受けられよう。そのテクノロジーとは、まさしくネットメディアやモバイルメディアを主とした情報技術であり、イノベーションによる更なる進展の産物であることが窺えるのである。

 すなわち、サイバー・コミュニティやヴァーチャル・コミュニティを一例とするテクノロジーに媒介されたコミュニティが、新たな社会集団を生み出しているということである。デランティはそのようなコミュニティについて、「集団は多形的であって、高度に個人化されており、表現力に富んでいる場合が多いが、それだけではなく、より伝統的な形態をとり、家族や農村部、更には政治運動までをも再構成することができる」と述べている(四)

しかし、次のような点を看過するわけにはいかないのであった。ヴァーチャル・コミュニティはグローバルな要素を多分に持ち、帰属という概念を失わせるという傾向があり、つまり、それは「帰属の問題はコミュニケーションの流れの中に姿を消していくのであって、その結果、多くの人々は帰属の可能性そのものを疑問視する」(五)という状況として表れるということである。また、これは「場所や地域性」、「象徴的な絆」の傾向や意義は薄れるとして捉えられるものであった。デランティはこのことについて、「その代わりに、対話者たちの間以外ではまったく現実性を持たない社会関係が、つまり、コミュニケーションのプロセスによってのみ支えられる、もっと流動的で一時的な社会関係が据えられることとなる。これらの対話的な契機がコミュニティを構成するかどうかを述べるのは困難であり、コミュニティという言葉が何を意味すると考えるかにかかってくる」(六)とその複雑性を認識した上で述べている。これはつまり、ヴァーチャル・コミュニティは実体をいかにして把握すべきかという論点を孕んでいることを意味している。

 このような状況を踏まえた上で、デランティは、ヴァーチャル・コミュニティに関する主要な理論家として、ハワード・ラインゴールド、マニュエル・カステル、クレイグ・キャルホーンの三人を挙げて、各論に含まれる見解と問題性について論じている(七)

 ハワード・ラインゴードの著作『ヴァーチャル・コミュニティ電子フロンティアへの入植』について、デランティは「ヴァーチャル・コミュニティに関する最初の有力な研究であり、その後のすべての研究の準拠点となっている。本書が出版されたのは一九三三年のことで、インターネットはほとんど普及しておらず、情報通信技術も今日に比べて未発達であったにもかかわらず、今日もなお帰属の変容に関する古典的著作の地位を保っている」(八)と評価している。

 ラインゴールドは、インターネットを既成の現実に対するオルタナティヴな現実とみなし、社会を変化させる力を持っていると思索したのであった(九)。それは、既存の関係を補うというよりも、新しい段階としての相互作用を提供するという見解として示されたものであった。すなわち、ラインゴールドは、インターネットを、人々が「リアルな」現実から逃れることのできるオルタナティヴな現実として認識するということを思考の基礎に置くのであった。

デランティは、ラインゴールドの「この現象について一つの解釈を下すとすれば、インフォーマルな公衆空間が次第に我々の現実の生活から消えていくにつれて、世界中の人々の心の中に、コミュニティに対する飢餓感がふくらんできた、ということではないだろうか」という言述を引用し、新たなコミュニティについての論点を提供している(一〇)。しかし、デランティはその社会の変化という解釈に対しては異論を唱えて、「仮想現実は、リアルなものの代用品にとどまらないのであり、リアルなものからの逃避でもある。ある種の技術決定論的な前提が彼の議論の背後にはみられる。情報通信技術は、社会関係を変化させることが可能なだけでなく、それ自体が新たな社会関係を生み出す力を持っている」と述べている(一一)

 ラインゴールドは、ヴァーチャル・コミュニティが日常生活の中には存在しない「ネット上のコミュニティ」であるとした。よって、インターネットが存在しなければ、ヴァーチャル・コミュニティは存在しないことになる。このような傾向に対して、デランティは「彼の著作が、比較的少数のユーザーが事実上かなり同質的なコミュニティを構成していた、一九八〇年代半ばから末のインターネット文化に対応するものであったという事実を反映している」と解説している(一二)。しかし、ここに見る理論的前提から展開したインターネットによってコミュニティを構成するというラインゴールドの想定は、旧来からの実体的なコミュニティ論に基づく見識から多くの批判を浴びたのであった。

 デランティは、ラインゴールドが行ったこれらの思索について、「人々が日常生活から撤退し、新たな関係とコミュニケーションの方法が生み出され、不可思議な仮想現実の世界に入っていく、というイメージ」として解釈したのであった(一三)。加えて、ラインゴールドは、ヴァーチャル・コミュニティを伝統的コミュニティのテクノロジー版と認識していたことが窺えるのであった(一四)。デランティは、ラインゴールドが模索するこれらのヴァーチャル・コミュニティについて、空間論の見地から、より具体的な次の説明を次のように行った。これは、当時におけるコミュニティ再生に関する一種の示唆を含んでいるといえよう。つまり、「ラインゴールドの著作では場所のイメージが非常に強烈で、村落、家庭、近隣社会など、伝統的な場所を再空間化するものだとするインターネット観を示している。ラインゴールドによれば、インターネットとは、郵便や電話など、モダニティの対話的なテクノロジーとは違って、その中でコミュニティが共通のアイデンティティを持つ人々から意味ある形で再構成されるような、新たな空間を提供できる」ということであった(一五)

なお、これらの言説を見詰め直しても、ラインゴールド『ヴァーチャル・コミュニティ電子フロンティアへの入植』が一九三三年に発表されたということは驚くべきことであり、その秀逸な先見の明を改めて高く評価する必要があるだろう。

 続いて、『情報時代』(一九九六年)を著したマニュエル・カステルのヴァーチャル・コミュニティに関する社会理論に着目する。デランティは、カステルの理論はラインゴールドと差異を持していることを指摘し、カステルのヴァーチャル・コミュニティについて次のように論じている。

  情報通信技術に対する信頼という点ではラインゴールドの理論と多くの共通点がみられるが、カステルはヴァーチャル・コミュニティを、リアル・ヴァーチャリティの一部と位置づけている。要するに彼は、ラインゴールドの著作の特徴である仮想性と現実性の二元論を、更にはヴァーチャル・コミュニティを「濃い」コミュニティだとする想定を、避けているのである。ヴァーチャルと現実の関係はもっと複雑で再帰的なものであり、仮想現実は今では現実世界の一部となっているそこでは「濃い」コミュニティは稀である。(一六)

 カステルは、ヴァーチャル・コミュニティに対して、より現実性を踏まえての複眼的なアプローチを試みているのである。その際、コミュニティの成員について着目するに併せて、ユーザーのタイプとその目的という点を考慮することで、成員であるユーザーの広範な社会的・文化的な分化について指摘したのである。デランティはカステルから、ヴァーチャル・コミュニティの見解を捉えるために次の明瞭な引用を行っている。

ヴァーチャル・コミュニティには、二種類のまったく異なる人々が「住んで」いる。一方には、電子的なフロンティアに「入植」している電子村のごく少数の人々がいる。そして他方には、様々なネットワークに絶えず侵入を繰り返すことが、彼らにとってはつかのまの形であり、いくつかの存在を求めることに他ならないような、一過性の群衆がいる(一七)

 デランティは、カステルが関心を寄せるのは、電子村と比喩されるカテゴリーであるとした上で、ヴァーチャル・リアリティによって「制度的な領域における曖昧化や脱分化を引き起こしている」とする見解を示している(一八)。これは、ヴァーチャル・コミュニティ自体が、社会的関係を変化させる力を持ち、新たな現実を生じさせる可能性を持つという、主張であるといえる。なお、カステルは『インターネットの銀河系』(二〇〇一年)において、インターネットとともに出現した社交のパターンを再検討し、「ヴァーチャル・コミュニティが今や社会的現実の一形態になっている」という主張を行った(一九)。デランティはカステルが論じたインターネットとコミュニティとの関連について、次のように説明している。

カステルは、インターネットが社会的相互作用に好影響をもたらし、民主的な可能性を高め、人々が自分たちの関係を秩序立てるに当たってより対話的な手段を提供しているとする点で、明確な主張を提示している。たとえば、少なくとも高学歴者による電子メールの活用は、友人や家族のネットワークを支える手段である。インターネット・ユーザーから成るコミュニティのリアル・ヴァーチャリティに関するカステルの理論は、これを、変化する社交のパターンから構成されるとするものであり、日常的社会関係の代替物とする見方から脱却している。(二〇)

ここに示される内容に別視線からの異論を提示するならば、インターネットが民主的な可能性を高めるということにおいて、別領域からの視点ではあるが、現状においてはインターネット環境がより一般化し簡便性を享受できるようになったことも確かであるが、デジタルディバイドという問題が存在しているということも否めないといえよう。

 カステルは、社会関係を組織する手段としての地理的近接性の意義が減少するのに伴い、コミュニティがその他の諸要素によって形成されるということに着目して、居住の場がコミュニティ形成の規定要素から離脱している点を捉えたのであった(二一)。また、それは逆に、農業社会や初期の工業化において、地域性は重要な要素であった歴史的経緯に鑑みるのなら、居住という単純な事実よりも、労働との関係に帰するものとして認識することにより、地理的近接性の意義の減少という現象の要因が、居住の移動性という事実というよりも、「広範な社会・文化変動に伴う労働の性格の変化」によるとして把握できうるということである(二二)。このカステルの認識は、労働という視座の提示を含め、独特な言説でありながら多くの視座や可能性を含む有意義なものであったといえよう。

 なお、カステルはコミュニティの形成に関する議論に着眼点を据えて、新しいコミュニティはネットワークから築き上げられるとした。それはつまり、「ネットワークは、個人、家族、あるいは社会集団を問わず、社会的行為主体の選択と戦略によって打ち立てられるため、複雑な社会における社交の大変動は、ネットワークが社交の主要形態である空間的コミュニティに置き換わることによって発生する」というより具体的な分析内容として示されるのであった(二三)。カステルは、ネットワークによって実現され、個人が中心となるこれらの新たなコミュニティを「個人化されたコミュニティ」と命名している(二四)。なお、デランティは、カステルによるコミュニティ形成の構想や概念としての解釈について次のように説明を加えている。

(カステルが捉えるコミュニティは)―「薄い」コミュニティとしてのヴァーチャル・コミュニティ概念に行き着くように思われる。インターネットは、それに関わる努力や、おそらくはその関係の持つ価値のゆえに、その他の手段によっては保持できない積極的な社会関係を、空間的な距離を保ちながら維持する上で有効である。ヴァーチャル・コミュニティは既存の関係を支えることができるが、情報の共有を必要とする関係を除けば、新たな関係を生み出すことは稀である。こうした理由で、カステルは、大半のオンライン・コミュニティは「短命な」コミュニティであり、「社交のネットワーク」と解釈すべきであると指摘している。(二五)

 すなわち、カステルの想定するヴァーチャル・コミュニティは、そのものの性格上、持続困難であるという見解を含有させるものである。このことに関連して、カステルは社会関係を変化させているのは、情報通信技術そのものではなく個人主義やネットワーク化された個人主義の出現であると分析している。カステルにおけるヴァーチャル・コミュニティが含み持つ重要な機能は、多様な人々のネットワークを基礎にして、彼らの関係に新たな関係を連結させることが可能になり、その結果、家族はサイバー・ファミリーという形で維持することが可能であるとの解釈に連結するのであった(二六)。つまり、これはその他の方法では共通性のない、非常に個人化された諸個人からなる「薄い」ネットワークの形態としてこそ存立し得るという見解を示すものであった(二七)

カステルの言説に見る個々によって構成されるヴァーチャル・コミュニティは果たしてコミュニティに呼ぶに相応しい存在なのかという問題性を含んでいることも確かである。ただし、カステルは、社会関係を新たなスタイルで再構成するインターネットの解放的能力という基本的な性格を理解した上で、ヴァーチャル・コミュニティについて、社会関係を変化させるものであり、ネットワーク化されたグローバルな社会における民主化の主要行為主体(アクター)であると主張したのであり(二八)、この点は現代的な状況から見て、その一様も確かに的を射るものであると思われよう。

 続いて、クレイグ・キャルホーンのコミュニティ論に着目する。この言説は一つの決定的な点でカステルの理論と対照的であった(二九)。キャルホーンは、時代の経過や技術の向上によって間接的あるいは媒介された関係がより重要になりつつあるという点で、カステルに同意しているものの、間接的社会関係が完全に情報時代の産物として、あるいはグローバリゼーションの産物として捉えることはなかった(三〇)。つまり、大規模市場、輸送システム、行政機構、国民国家、近代化の過程で登場する全てのものが、インターネットなどの何らかの媒体を要する、間接的社会関係を生み出したと理解することか始まるものであった(三一)。  

 キャルホーンの議論によれば、ヴァーチャル・コミュニティは、間接的な形の社会関係に表現を与えるものと考えねばならないという性格を持していた。そこで、キャルホーンは、これらの社会関係の形態を誇張せずに、また直接的相互作用と間接的相互作用の差異を誤解せぬよう警戒し、それについて次のような指摘を行っている。「インターネットは、対面的コミュニティや運動組織の代替物としてよりも、それらの補足物としての重要性の方がはるかに大きい」(三二)。すなわち、「インターネットのもたらすインパクトは、それが既存の社会関係を補強する際に非常に有意義であるが、インターネットは必ずしもネットワークを作り出したり、促進したりはしない」と捉えているのである(三三)。キャルホーンが把握したこのインターネットの可能性と限界についての議論に関して、デランティは例示を含めながら次のように論じている。

大半の電子メールは見知らぬ人々とではなく、家族や友人、同僚、あるいは共通の生活世界を持つ人々との間でやりとりされる。その結果、インターネットの拡大が共通の絆に基づく既存の社会関係を促進し、強化し、それらに新たな表現の可能性を付与し、距離に順応できるようにするという意味では、そのインパクトによって再伝統化が進行する。コミュニティは、場所に規定されるものというより、一つの社会関係のシステムと解釈すべきである。しかし、コミュニティは何かの共有という意味での帰属も生み出す。(三四)

 更に、デランティは、キャルホーンが、「インターネットを、多様な人々のローカルなネットワークを強化するだけではなく、相似のコミュニティを生み出すと考える」という点で、カステルとは異なるとして位置付け(三五)、また、コンピュータに媒介されたコミュニケーションは、既存のコミュニケーション形態を補足するものであると再確認を行っている(三六)。キャルホーンが想定するヴァーチャル・コミュニティはそれらの多くが、すでに高度に媒介されネットワーク化されたものであり、嗜好や文化の個人的な選択に基づく相互作用に関わる高度な能力としてキャルホーンが称している「カテゴリカル・アイデンティティ」に基づいた、ネットワーク・コミュニティであるといえよう(三七)。デランティはこの言説について、「多くの活動分野の人々を結び合わせるネットワークというよりも、単一の関心事の共有を基礎とするコミュニティである可能性が高い」という説明を加えている(三八)。そして、デランティはキャルホーンのヴァーチャル・コミュニティについて次のように総括している。

キャルホーンにとって問題の核心は、ヴァーチャル・コミュニティはいったん文化的な特定集団を超えて広がってしまうと「薄い」コミュニティとなり、民主主義を促進する能力が弱くなってしまうという点である。ヴァーチャル・コミュニティは、確かに共通のアイデンティティに基づくコミュニティとして存在したとしても、その成員同士が会うことは稀かもしれない。これらのコミュニティは、民主主義の醸成の点では無効であろう。このように、彼の議論は、ヴァーチャル・コミュニティが必ずしも新たな社会的・政治的現実を生み出さないという点で、カステルとは異なっている。(三九)

 以上の議論を踏まえると、デランティは、三者の見解の中でも、キャルホーンの議論を評価していることが分かる。その理由は、ヴァーチャル・コミュニティの基礎づけに向けて、社会的関係の理論化を同時に行っているということである。ヴァーチャル・コミュニティが、既に脱空間化されているという認識を伴うことは明らかであるが、既存のコミュニティの補足物であるという認識も、社会学や記号論の見地から有用な解釈として着目され続けているといえよう(四〇)

 加え、デランティは、このヴァーチャル・コミュニティ論の新側面において脚光を浴びている「オンライン・コミュニティ」について、「非常に多様な形態と規模を持っている。その範囲は、同じ関心を持ってはいてもそれまでまったく面識がなく、地理的に隔たりあった人々を結びつけるヴァーチャル・コミュニティから、地理的に規定される地域と関連のある諸問題に照準を合わせた相互作用を促進する状況にまで及ぶのである」(四一)と説明を加え、オンラインを媒介にして様々な人々と形成するコミュニティの存在に対して特段の着眼点を置いている。そして、デランティは「ヴァーチャル・コミュニティという発想については、何かまったく新しいものの創出というよりも、非常に多様な社会的帰属形態の表現に対して可能性を提供する情報通信技術のインパクトという、もっと分化した見方にトーンを弱めるべきである」(四二)と付言し、インターネットの普及という技術的な革新に基づいたコミュニティは、今までのコミュニティ全般の特質を維持した上で、新しく展開される存在であると捉え、ヴァーチャル・コミュニティに対して見られる固執的態度について一定の危惧を示しているといえる。

 なお、これらのヴァーチャル・コミュニティの議論は、インターネットの匿名性という問題へと視野が拡大され、それを克服する可能性を持つ、非匿名性によるソーシャル・ネットワーキング・サービスというオンライン・コミュニティへの人々の参画という事例にも関連しているといえよう(四三)。そして、このソーシャル・ネットワーキング・サービスは、人々の欲求に対する様々な技術的な試行や構想によって実現したといえるが、その構想の根本的な部分に、ラインゴールド、カステル、キャルホーンの議論が含まれていることは明らかである。そして、ヴァーチャル・コミュニティに含まれる諸問題や問題意識は、「場所のコミュニティ」の再認識という、共同体の再構築に向けての方法について、特にその実践理論に向けての重要な素材であることは明らかである。

コーダ  場所のコミュニティを構築する現代的意義

 コーダにおいては、「場所のコミュニティ」について述べたい。場所はギリシア語に当て嵌めると、本題名に加えた「トポス」である。場所のコミュニティというテーマは何であるか、前章にて取り上げたデランティ『コミュニティ』における訳者、山之内靖による解説が多くの示唆を含んでいることから、その要点部分を引用し、検討を試みたい。デランティの言説に含まれ、そして山之内が提起する次の問いは、まさしく本論の意義を考える際に、向き合わざるを得ないテーマであろう。それはすなわち、「現代社会のコミュニティは、国家にかわる代替物(オルタナティヴ)として機能するように期待されている。しかし、復元しつつあるコミュニティは果たして代替物としての役割を十分に担うことができるのであろうか」という問いである。この代替物という捉え方についてデランティが示した内容に対して、山之内は次のような批判的検討を行っている。

ハーバーマスのコミュニケーション論をベースとしながら、更にそれをポストモダン以後のニューエイジ・トラベラーやヴァーチャル・コミュニティへとつなげてゆくデランティの方法は、ポストモダニズムの潮流にやや過剰に依拠しているところがあると思われる。対話的コミュニケーションやヴァーチャル・コミュニケーションは、それだけでは、現代社会全体を特徴付けている「脱身体的」傾向に対して、明確な対抗の原理をもち得ないのではなかろうか。身体的接触を通して初めて成り立つような濃密な相互理解を、ポストモダンの潮流は見えなくさせてきた嫌いがある。「言語論的転回」を中心軸として構築されたポストモダニズムの諸潮流は、言語とそれに依拠したコミュニケーションに過剰なウェイトを置くことによって、身体のモーメントを脱落させてしまったのである。(一)

  身体性の欠落は、人間相互の社会開係だけではなく、人間の生命活動がそこに根源的に根ざしている自然との関係においても、重大な問題を惹き起こす。デランティは、ポストモダン・コミュニティのなかに「再魔術化」の契機を見出すという貴重な提言を残しているのであるが、彼の方法全体は、全体社会の「脱身体化=再魔術化」に対抗するものとしてのコミュニティの「再魔術化」的機能という論点を、充分に展開できていない。―「場所」をめぐってデランティがこう述べているのは、だから、「社会理論」の方法問題としても、見逃せない。―今日におけるコミュニティの復活は、明らかに場所と関係する帰属が危機に陥っていることと結びついている―にもかかわらず、新たなコミュニティは、―帰属に関する希求(aspiration)以上のものではなく、これまでのところ、場所に替わるものとなってはいない。コミュニティが場所との結びつきを確立できるか、それとも想像された条件にとどまるかが、将来のコミュニティ研究にとって重要なテーマとなるであろう。(二)

 ここに見られる山之内のデランティ批判において顕著に見られるのは、身体性や場所といった「そこにあるもの」といった存在を重視すべきであるとの意気である。代替物としてのコミュニティに含まれる様々な問題性もここに収斂されうるのではないだろうか。すなわち、これに対して投げ掛けられる課題とは、いかにしてコミュニティを再生することが可能かという点である、その方法論の模索へと帰するものであった。

これに関連して、デランティをめぐる山之内の見解を表したような実践、すなわち日本に居住する者たちの身の回りでも、ローカルな「場所」をよりどころとする様々な試みとして、二つの例が示されている。学校に通うことができなくなった不登校児童を抱えて途方に暮れた親たちが、その切なる苦悩を共有しようとして寄り合った自主的な学習の「場所」造りを行っている事例(三)、そして、もう一つが、宮城県の一人のカキ養殖業者が始めた取り組みであった。これは、森林の荒廃は川の水を貧しくし、カキの成育を妨げるといった関連に気づいた一人のカキ養殖業者(畠山重篤氏)を発起として、気仙沼湾に注ぐ大川の原流域に木を植える運動が漁師たちによって実践されているという事例である。更に、一人のカキ養殖業者によって始められたこの活動は、その後、大学機関などにまで反響を及ぼし、「森里海連関学」という領域をテーマとした新しい研究センターや講座が開かれるまでに進展したということであった(四)

山之内は、これらの実践を「場所」という観点に基づき、哲学史的な思索を踏まえて、次のような見解を明らかにしている。

  全体社会の「脱身体化=再魔術化」に対抗するためには、我々人類は、単に「想像の共同体」に属しているといったレヴェルの感傷に自足するのではなく、身体的感覚を取り戻す場としてのコミュニティを再構築しなくてはならない。初期のマルクスは、彼の『経済学・哲学草稿』第三草稿においてフォイエルバッハから「受苦的存在者」(leidendes Wesen)としての人間という認識を受け継いでいたのであり、これこそが、彼の終生におよぶ唯物論の出発点であった。ドイツ敗戦直後のハイデガーは、彼の実存主義の根源にあるものについて問われたとき、この初期マルクスの構想を高く評価して、これを自らの「世界内存在」「故郷喪失」「存在忘却」のテーマとかかわらせたのであった。

  ハイデガーのこの論考において中心におかれていた問題、それは「場所」の存在論に他ならなかった。「初期マルクス」と「後期ハイデガー」によって共有されていたこの「場所」(Aufenthalt, Ort des Wohnens)の問題が、あらためて検討されなければなるまい。人間の存在は地球という「場所」とともにあるのであり、人間はその「場所」のありように従って生きなければならない。ハイデガーが人間を「存在の牧人」(Hirt des Seins)と呼んだのは、そのことを指していた。(五)

 ここに示されるフォイエルバッハからマルクスへと至る哲学史におけるコミュニティの再構築論ともいうべき抽出、そしてハイデガーの存在論からの提起、これらを含む指摘からも明白なように、「場所」のコミュニティの再生や再構築に向けた思索こそ、我々にとっての大きな課題なのであろう。第三章に示したとおり、現代での思想的状況においては、インターネット技術の拡大と共に異なる場所での繋がりについて、ヴァーチャル・コミュニティとして論じられるようになり、その新たなコミュニティを更に進展させようとした試みもある。しかしながら、場所の共有や、同じ気持ちを同じ場所で感じ合うといった、古き典型的な共同体、コミュニティを我々が再認識することによって多くの利点を得ることが可能であろう。コミュニティの規模はいかにせよ、何らかの理念を共有し、人間同士が共生できる現代社会に向けて、場所のコミュニティというテーマは必要不可欠の議論として継承し続けることであろう。

かくして、共同体と市民社会について、各研究への着目を主として、複数の角度に視線を当てながらの考察を行ってきた。その一応の帰結の中で生じた見解を示したい。緒論で述べたように、共同体とは何か、市民社会とは何かという問いを今の時点で投げ掛けられたとしても、筆者は的確な解答を述べることはできないであろう。しかしながら、或る種の価値判断を述べることは可能である。

すなわち、市民社会概念の歴史やコミュニティの再生の言説に見られたように、かつての共同体を、今日的な特質を含ませた上で、復活、再構築させる必要があると筆者は考えている。対して、市民社会を国家に止揚することによって市民社会の問題点を克服するという構想も誤謬ではなく、実際的にも有効な方法としての史的な経緯を垣間見ることもできる。ただし、共同体の成員同士が友愛の精神を持ち、相互扶助することへの働きかけも重要である。この二項は、根本的には対立するものではないが、国家主義、共同体主義という名目に見られるように、理論上、それぞれ極端な言説が強調されて認識される状況がある。ところが、国家も必要不可欠であり、共同体も看過できないことは、自明の通りである。しかし、これらの議論も、国家とは何か、克服すべき問題を抱えた市民社会とは何か、そして共同体とは何かという議論に辿り付く以上、大枠のみの思考に留まっていることを付言しなければならない。

けれども、かつての原始的な共同体や農村共同体にて行われていた人々の相互依存の営みが、今日に生かされる多くの要点を持っていることは間違いない。それは、かつての共同の労働という方法ではなく、各人のライフスタイルに合わせて、一定期において、共同体を形成するということは、困難ではない。例えば、先述したように、健全な山野から、美しい海が保たれて、格別に美味しい海産物が取れるという目的意識の下に、林業や農業従事者と漁業従事者が新しいコミュニティ(共同体)を形成し、植林や砂浜清掃といった活動を共に行うということも、新たな共同体像の典型として示されるのであろう。

また、筆者は、その新たな共同体像を模索する上で、共同体が変容し崩壊したその過程に、重要な鍵が隠されているように思う。その一例として提示したいのが、「コーヒー・ハウス」である。

コーヒー・ハウスとは、一七世紀後半に誕生した、イギリスの市民階級の集うクラブ・ハウスのことである。一八世紀前夜にはロンドンの他、ケンブリッジ、マンチェスター、グラスゴーなどにも数多くのコーヒー・ハウスが作られていた。コーヒー・ハウスにおいて、人々はコーヒーを飲み、集まった人々は互いに雑談し、政治・宗教・文学・科学に関する議論も行った。

 その当時のコーヒー・ハウスという空間・場所では、誰でも、身分に関係なく貴族であろうと平民であろうと、宗教、貧富を問わず、空いている席に自由に身を置き、自由に談話でき、討論にも加わることができたのである。いわば、コーヒー・ハウスは、芸術を、商品を、そしてその他すべての知識を進歩させるような、極めて近代的であり民主的な文化機関であったのである。コーヒー・ハウスに居座る人々にとって、その場所は、新興市民階級を支える知識と教養の源泉なのであった。

 しかし、一八世紀を前後し、そのようなコーヒー・ハウスの状況が変容した。例えば、席が指定制となり、市民の政治活動の拠点としての特色を持ち始めたのである。このことは、安価なコーヒー代を払いさえすれば自由に様々な議論に参加でき、情報を共有し、それら生活の糧にするという利点を共有していた下層階級の人々が締め出されたということを意味している。まさにコーヒー・ハウスというコミュニティが崩壊し、人々の一部が隔離されるという状況がそこにあった。

なお、この変容の時期においては、産業革命の進展に伴う国家の領域では富の増大が見られたものの、個人の領域の状況としては、貧困や病害という問題を抱える人々が増大したという社会的な事実があった。ところが、旧来から続くコミュニティは疲弊し、そのような人々を保護する余地がなく、更に問題は深刻になったのである。

ここから見出せるのが、かつての地域共同体で行われていた、共同の農作物管理、共同食事、相互扶助、介護、年長者から年少者への教育、世代間を越えた教育などの行為、これらによって構成されるコミュニティを支えるコミュニティの存在であり、共生の思想なのである。

結局のところ、人間は一人では生きていけないという考えが、共同体の再構築というテーマの中には含まれている。逆に、人間は一人で生きていこうとしても、誰かに助けられ、誰かを助けてしまう。このことは既に前人の時代からも見られる現象である。人間が他者と一緒に生きざるを得ないのは、何らかの束縛や、道徳心や倫理観から指示された結果ではなく、共同性への意志が我々の本能に宿っているからである。しかしながら、今日の人間像は、その本能が目覚めず、個人主義的の様相を呈していることも否めない。

そこで、我々には、本能を呼び戻すためのレッスンが必要なのであろう。先ず、その先駆けとなるのが、共感(sympathy)であるように筆者は考えている。それは、まさにブラームスの交響曲第一番を聞いた際の、会場の一体感として表象されるものである。そして、その共感の領域を拡大させることによって、人間相互の共同体を形成する手がかりが得られるのではないだろうか。加えて、その共感とは歓喜や愉悦の共有に留まらず、死者を葬る時の悲嘆や落胆として表出することもあるだろう。これらの共感の先に多様な形態や概念を持つ共同体が存在している。

最後に、アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(野谷訳、洛北出版)という名の一見奇妙な、そして強烈な共同体論の冒頭を引用して、コーダを記したい。

  

  共同体とは普通、何かを、たとえば言語やものの見方や考え方を、共有している人びとが形づくっているものだと考えられている。また、一つの民族、都市、制度といったものを共に作っている集団によって形づくられると思われている。けれども私は、すべてを残して去っていく者、すなわち、死にゆく人びとのことを考え始めた。死は一人ひとりの人間に一つひとつ別のかたちで訪れる、人は孤独のなかで死んでいく、とハイデガーは言った。しかし、私は病院で、生きている人が死にゆく人の傍に付き添うことの必然性について、何時間も考えさせられた。この必然性は、医師や看護師、つまり、できることをすべて行なうためにそこに居る人びとだけのものではない。死にゆく人に最後まで付き添おうとする人、打つ手が何もなくなったのに居つづける人、自分がそこに居つづけないわけにはいかないと切実に感じている人にとっての必然性でもある。それは、この世で最も辛いことではあるが、人はそうすべきだとわかっている。死にゆく人が人生を一緒に生きてきた親や恋人だから、という理由だけではない。人は、隣のベッドで、あるいは隣の病室で、まったく知らない人が孤独に死につつあるときにも、そこに居つづけようとするのだ。これはたんに、一人ひとりの人間のモラルを問う決定的瞬間という意味しかないのだろうか?私は、病院であれ貧民街であれ、孤独に死にゆく人を見捨てるような社会は、みずからその土台を根こそぎにしているのだと考えるようになった。私たちと何も共有するもののない―人種的つながりも、言語も、宗教も、経済的な利害関係もない―人びとの死が、私たちと関係している。この確信が、今日、多くの人びとのなかに、ますます明らかなかたちで広がりつつあるのではないだろうか? 私たちはおぼろげながら感じているのだ。私たちの世代は、つきつめれば、カンボジアやソマリアの人びと、そして私たち自身の都市の路上で生活する、社会から追放された人びとを見捨てることによって、今まさに審判を受けているのだ、と(六)

レチタティーヴォからその先へ

あとがき レチタティーヴォからその先へ

本書は、二〇〇七年一月、明治大学大学院政治経済学研究科博士前期課程経済学専攻に提出した修士学位請求論文「共同体・市民社会の思想史―共同体論・市民社会論の系譜と市民社会批判の実践理論をめぐって」の中から、主としてマンフレート・リーデル、ジョン・エーレンベルク、ジェラード・デランティの論考を参照した共同体・市民社会概念の歴史的系譜に関する部分を抽出し、追加修正して取り纏めたものである。

前掲論文においては、原始共同体から市民社会への発展、市民社会への批判、共同体再構築に向けた実践理論、というような歴史的な導線によって古代から現代に至る思想史的な論究を構想するものであった。これに基づく或る建築は、一応の終結は見たものの、そこにできたのは、冗長で、改良する必要性に苛まれる歪んだ建築物であった。今回の試みは、その全体像を改めて構築しようとするものではなく、共同体・市民社会とは何かという純粋な関心に、再び向き合い直すという意思に基づいて、再構成されたものである。特に概念史を一つの主題として、共同体から市民社会へという歴史的水脈とは逆に、市民社会から共同体を再検討するといった方法で、多く引用、依拠した二次資料との対話を再び行い、改めて、その先に存在するギリシア哲学から現代思想への系譜に手を伸ばしたいと考えたのである。果たしてその内容構成が奏功したか否か、自らへの大きな課題として残存するわけであるが、既存建築物から、新たな思考法に基づき、どこの箇所のどの素材を再び使用するかという要点部を生かすための修繕作業によって、共同体論・市民社会論に対する自らの関心が更に高まることになった。そして「市民社会のロゴス 共同体のトポス」の題目を掲げたのである。市民社会の「概念」の検討から、共同体の「場所」の探索へ。この意図を持ち続けながらの作業は、極めて有意義であった。ただし、この試論ともいうべき内容も、かくして構成し終えるまでに、想像以上の時間を要してしまった。

 本文においても引用した、デランティによる「コミュニティが放つこの尽きせぬ魅力をどう説明すればよいのであろうか。その理由はおそらく、コミュニティの理念が、モダニティの不安定な条件下における帰属探しと関連があるという点にある」という言述が示唆するように、コミュニティ(共同体)への着目は、現代における様々な問題意識についての議論へと繋がるものであろう。この状況は、市民社会概念の検討と共に市民社会批判の思想や実践理論の構想が繰り広げられた近代前後の状況と通じるものである。

この観点からすると、市民社会・共同体について問うことは、時代について問うことに他ならないと言明できよう。ところが、その考察すべき範囲は幅広く奥深く、到底概観できるものではない。本論文の各所に含まれる概念史的な着目であれ、何処に視線を向けるか、何処に焦点を合せるかによって、明確な判断が困難な場合も生じてくるのである。その典型が、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトに関する解釈であろう。我々は、術語の変遷と共に使用者の解釈を含めた上での概念化によって、双方の術語についての明確な意義を提示する困難性と直面せざるを得なくなっている。そしてまた、そこにある現実に対して、ゲマインシャフトないしゲゼルシャフトの解釈を当て嵌めようとするに際しても、容易な判断をすることはできない。つまり、我々は、これらの問題と並行して、共同体・市民社会概念の探究を絶えず継続されるべきものとして位置づけ、ギリシア哲学から近代哲学、現代思想に至る水脈の中を行き来しながら思考を繰り広げる必要性を持しているのであろう。

この帰結こそ、市民社会批判から問われ続けている共同体の再構築やコミュニティの再生という論理である。コーダにおいて論じたとおり、またデランティのコミュニティ研究の動機からも分かるとおり、現代の社会状況の中から人間的な欲求としての提示され続けている「共同性」の再構築や再生に向けて、我々は何を思考し、実践するべきかという問いを持ち続けざるを得ないのである。これによって崩壊したもの、断絶したもの、欠落したものとしてのコミュニティを再び取り戻すための道程が開かれるのではないだろうか。

 

さて、ここにおいて、本書における特に共同体(コミュニティ)論の側面と、筆者(私)が取り組んでいる仕事内容との関連について自ら問うてみたい。筆者は大学院博士前期課程を修了した後、独立行政法人国立文化財機構・東京文化財研究所の有期職として勤務することになった。学部時代に学芸員資格を取得し、文化財行政の世界へ興味を抱き続けていたことが端緒となり、そこでは国内外の文化財保護行政や研究推進への協力に関わりながら、その方法論などについての研鑽を行うことができたのである。これに併せて、同じ機構内の東京国立博物館や隣接する東京藝術大学における第一級の学術的情報に触れることができ、大変有用な時間を過ごすことになった。そして、筆者は次なる段階として、地方行政における文化財保護の現場へと足を踏み入れることになった。まさに、研究所での仕事とは異なり、市民や地域住民との協力関係を基礎とした文化財保護の最前線ともいえる環境に身を置くことになった。その初年度以降において、有形文化財や民俗文化財、天然記念物など、大枠で類推するならば一般文化財ないし文化遺産の保護を担当するに至った。

 筆者は、これらの文化財保護の現場において、まさしくコミュニティともいえる文化財の保護や活用推進に関わる人的な協力関係や枠組みを多く目にしてきた。その中で顕著なるものを挙げるとすると、世界で熊谷市にしか生息していないとされる絶滅危惧種の希少魚「ムサシトミヨ」の保護に関わる事例である。ムサシトミヨの生息する元荒川最上流部は天然記念物に指定されている。二〇〇八年度、このムサシトミヨの保護事業を担当した筆者は、行政(国・県・市)と地域住民、元荒川での保全活動を行う地元保護団体(ムサシトミヨをまもる会)、ムサシトミヨの増殖活動を行う地元小中学校(熊谷東中、久下小、佐谷田小)など、多くの人々がムサシトミヨ保護に向けての意識を集約させ、相互の協力関係を培う状況を目の当たりにしたのである。それは「ムサシトミヨ保全推進協議会」として組織化された上で、元荒川というトポスにおいて構成されたコミュニティと呼びうるものであった。なお、同年には国際条約に基づく「生物多様性基本法」が施行され、その保全推進支援事業の一つにムサシトミヨ保護事業が採択されることになり、更にコミュニティの存在意義は高まるのであった。このコミュニティは、「ムサシトミヨの保護」という共通の目的を持ち、多面的な実践を行うという、まさに目的意識を共有することに基づいた集団であることが窺えよう。すなわち、これはトポスを守るために、トポスに集うコミュニティなのである。しかし、このコミュニティを恒久的に維持するためには、構成するメンバー同士がその目的意識を強く持ち続けることが求められ、まさしく本論においても示した「共同性」の確立をいかにして行い、継承させていくか問い続ける必要があると言えよう。

 加えて、これらのような文化遺産保護のためのコミュニティの観点から、筆者が会員として属している「文化遺産国際協力コンソーシアム」についてもここで附言したい。このコンソーシアムは、文化庁と外務省が主導して組織されたものであり、このコンソーシアム(共同体・団体連合)という表現からも分かるように、世界の文化遺産保護を目指すコミュニティの性格を有している。そして、このコンソーシアムにおいては、日本内外の研究者や行政での実務者、技術者が結集し、損失毀損の危機に瀕している世界中の文化遺産の保護修復に向けて歩調を合わせ、様々な国際協力事業を運営している。その事業の具体例として、カンボジア・アンコール遺跡群の保存修復、アフガニスタン・バーミヤーン遺跡保存、インドネシア・アチェ文字文化財復興支援などが挙げられる。このコミュニティは国際的な環境の中に根差すものであり、特定のトポスに限らない、まさしくグローバルでコスモポリタンなコミュニティとしての様相が窺える。

ムサシトミヨ保護に見るようなローカルなコミュニティ、そしてこのコンソーシアムのようなグローバルなコミュニティ、この双方が共存した上で、様々な実践が行われている状況に、筆者は文化遺産保護の理想像を見出すことができるのである。

 末尾を迎えるに当たり、本書を纏める上で、筆者の意志を支え、多くの教示と共に、ここにある探究心へと潤滑油を注いでくれた方達に感謝を申し上げたい。先ず、本稿における、市民社会概念の史的分析およびヘーゲルの共同性に関する議論へと導いてくれた、大学院時代の指導教授であり、ヘーゲル研究・社会思想史を専門とする生方卓先生と、同大学院にて現代的なコミュニティの可能性についてグローバルな協同組合論の側面から多くの識見を指し示してくれた中川雄一郎先生の的確な指導がなければ、修士論文および本書の進展はなかったであろう。

なお、筆者が格別の御礼を申し上げたいのが、大学時代における哲学ゼミナールの指導教授として筆者の人生行路に計り知れない影響を与えてくれた尾崎和彦先生(明治大学名誉教授)である。先生は、実存主義哲学者キェルケゴールおよび北欧神話論を専門とし、またこれらに北欧思想全体の史的意義と可能性についての探究を併せた上で、「北欧学」の構築を目指している。先生から学んだ学術的研究への方法論や姿勢は、筆者にとって掛け替えのない恩恵として残り続けるものである。また、筆者が学部を卒業し、また先生が定年退職された以降も、その後における研究の方向性に苦慮していた時や、大学院を離れて文化財保護の分野に進み出た際にも、勇気付けられる助言を頂き、大変感動したことを憶えている。まさしくその各々が、未完成の試論でありながらも、ここにおける本書の終幕へと後押ししてくれたのであった。加え、二〇〇九年冬、筆者は、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークなどと共に、先生が研究員として在籍していたミュンヘン大学(ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン)へと出向いた。この機会によって、本書を纏める意志が生じ、動き始めたということもここに明かしたい。

併せて、東京文化財研究所、熊谷市教育委員会社会教育課、

 ベートーヴェンは、交響曲第九番の第四楽章に声楽の用語であるレチタティーヴォという表記を用いて、シラー「歓喜に寄す」の声楽合唱へと向かう序奏を準備した。その叙述するように演奏される音楽は、苦悩から歓喜へというモチーフの狭間に広がる重厚で緊張感のある音世界を構築するのであった。共同体の苦悩から、共同体の歓喜へ。このモチーフの狭間について思考すること。まさしく、これが本書の最たる目的であり、脱稿後の筆者に再び残された大きな課題なのであろう。まさしくそれは、レチタティーヴォからその先へ、ということである。

筆者は思考の継続を約束しつつ、本書を静かに閉じたいと思う。ベートーヴェンの「交響曲第十番」と言われるブラームスの交響曲第一番。その曲の華やかなコーダとは異なり、情熱を秘めつつも静寂に包まれながら終わる交響曲第三番のように。

熊谷市
立江南文化財センターの皆様、明治大学教授の中村幸一先生(英語史・印欧詩学)、伊出彰仁さん、佐藤百合子さん、そして、日々支えてくれた家族をはじめ多くの方達と共に過ごした時間が、本書へと直結していることはいうまでもない。ここに感謝を記したい。

注・出典



注・出典

第一章   市民社会概念の思想史―M・リーデル『市民社会の概念史』読解  

(一)(原書Geschichtliche Grundbegriffe, hrsg. Von

Brunner/ Conze/ Koselleck, Bde. Klett-Cotta Stuttgart 1975-82)に寄稿された四つの論考集)

(二)M・リーデル『解釈学と実践哲学―法と歴史の理論によせるヘルメノイティクの新たなる地平』(河上・青木・フーブリヒト訳)以文社、一九八四年、(ManfredRiedel,Hermeneutik und praktische Philosophie)四〇九-四一一頁。

(三)同、四一五-四一七頁。

第一節 市民社会概念の歴史的系譜

(一)マンフレート・リーデル『市民社会の概念史』(河上・常俊他訳)、以文社、一九九〇年、(Geschichtliche Grundbegriffe, hrsg. Von Brunner/ Conze/ Koselleck, Bde. Klett-Cotta Stuttgart 1975-82)一一頁。

(二)同、一一頁。

(三)同、一二頁。

(四)同右。

(五)同右。

(六)同右

Marx/Engels, Die deutsche Ideologie,1958,36)。

(七)同、一二-一三頁

(八)同、一三頁。

(九)同右。

(一〇)   同右。

(一一)   同、一三-一四頁。

(一二)   同、一四頁。

(一三)   同、一四-一五頁。

(一四)   同、一五頁。

(一五)   同右(Aristteles, Pol 1252a)。

(一六)   同、一五頁。

(一七)   同右。生活・社会についてのギリシア語表記は省略。

(一八)   同、一五-一六頁。(Aristteles, Pol 1260b

(一九)   同、一六頁。引用内の「共同形式」については「ゲゼルンクスフォルメン」とのドイツ語音が  表記されている。「主人」他のギリシア語表記は省略。

(二〇)   同、一六-一七頁。(Aristteles, Pol 1255b,1253a) 「実力」他のギリシア語表記は省略。

(二一)   同、一七頁。

(二二)   同、一七-一八頁。

(二三)   同、一八頁。

(二四)   同、一八-一九頁。

(二五)   同、一九頁。(Stobaeus, Curtius他)

(二六)   同、一九頁。

(二七)   同右(Diogenes Laertius他および、Stoicorum veterum fragmenta他)。

(二八)   同右(Stoicorum veterum fragmenta)。

(二九)   同右(Gaius Institutiones 3,93 訳注によると、自然法によれば全ての人間は自由であるが、万民法は奴隷と自由人の区別を導入したことについて、自然法よりも市民社会の法に近いとしている。

(三〇)   同、二〇頁(Aristteles, Pol 1322b)。

(三一)   同右(Augustin, De civitate Dei 4,32)。

(三二)   同、二〇-二一頁。

(三三)   同、二一頁。

(三四)   同右。

(三五)   同、二一-二二頁(Leonardo Bruni 225f)。

(三六)   同、二二頁。

(三七)   同右(Jacob von Viterbo, 1926 ,91)。

(三八)   同、二二-二三頁(Albertus Magnus 1891, 6)。

(三九)   同、二三頁。

(四〇)   同右。

(四一)   同右。

(四二)   同、二三-二四頁(Thomas von aquion, Summa theological 2,1)。

(四三)   同、二四頁。

(四四)   同、二三頁。

(四五)   同右(Ders, Super libros sententiarum 3,29,6)。

(四六)   同、二五頁。

(四七)   同右。

(四八)   同右。

(四九)   同右。リーデル書においては、次節「近世自然法論におけるキウィタスとソキエタス・キウィリス」の項目において説明されている。

(五〇)   同、二六頁。

(五一)   同右。

(五二)   同右。リーデルは注釈において「〈法〉は世俗的統治、ラント法、都市法であり、これらに従って市長や諸侯は外的事物(三身分論の基礎になっている法概念)を統治するのである」と説明している(同右、一一六頁)。

(五三)   同、二六-二七頁(Luther, WA Bd. 50, 1914 652)。

(五四)   同、二七頁。

(五五)   同右(Luther, WA Bd. 50, 1915 440)。

(五六)   同、二七-二八頁。

(五七)   同、二八頁(Philipp Melanchthon, Commentarii inPolitica Aristotelis, 421ff)。

(五八)   同右。

(五九)   同右。

(六〇)   同、二八-二九頁(Melanchthon, CR Bd.21 991)。

(六一)   同、二九頁(Melanchthon, CR Bd.21 991)。

(六二)   同右。

(六三)   同右。なお、この言説について、メランヒトンは「市民社会 societas civilisは讃えられるべきものであり、それは帝国 imperium〔国家〕なしには維持されない」としている。(同、二九-三〇頁)

(六四)   同、三〇頁(Francis Bacon, De dignitate et augementis scientiarum 8,1.)。

(六五)   同右。

(六六)   同、三〇-三一頁(Francis Bacon, 8,3)。

(六七)   同、三一頁(Machiavelli, Discorsi 1,3.6.18.)。

(六八)   同、三一-三二頁(Bodin, Les si livre de la république 3,7)。

(六九)   同、三二頁(Ders, De republica libri sex 521.)。

(七〇)   同、三二-三三頁。

(七一)   同、三三頁(Hobbes, Elements of Law 1,19,8)。

(七二)   同右(Hobbes, De cive 5,9)。

(七三)   同、三三-三四頁。

(七四)   同、三四頁(Hobbes, De cive 5,9,  Ders, Leviathan 2,31)。

(七五)   同右。

(七六)   同、三四-三五頁。

(七七)   同、三五頁。

(七八)   同、三六頁(Locke, The second Treatise of Civil Government 5,27ff)。

(七九)   同右。

(八〇)   同右。

(八一)   同、三六-三七頁。

(八二)   同、三七頁(Melanchthon, CR Bd.21 991他)。

(八三)   同、三七-三八頁(Melanchthon, Commentarii, Spinoza, Ethica 4)。

(八四)   同、三八頁。

(八五)   同右。

(八六)   同、三九頁。ここにおけるリーデルの解釈は、前掲の次なる項目「啓蒙期における概念伝統の固定化と解体」にて示されている。

(八七)   同、四〇頁(Alsted Bd 3 167他)。

(八八)   同、四〇-四一頁。

(八九)   同、四三頁(Alsted Bd 3 164他)。

(九〇)   同、五一頁。

(九一)   同右、(Adam ferguson, An essay on the History of Civil Society他)。

(九二)   同、五二頁(David Hume, An Inquiry Concerning the Principles of Morals 3,1 vol.4 183)。

(九三)   同右(Rousseau 1754)。

(九四)   同、五三頁。

(九五)   同、五四頁(Ders, Betrachtungen,AA Bd.7,379他)。

(九六)   同右(Moses Mendelssohn, Uber die Frage: Bd3 399f)。

(九七)   同、六一頁

(九八)   同、六一-六二頁(Kant Metaphysik der Sitten, Rechtslehre, 45 AA Bd.6 311)。

(九九)   同、六二頁。(Kant Metaphysik der Sitten, Rechtslehre, 45 AA Bd.6 306f

(一〇〇)                  同右。

(一〇一)                  同、六二-六三頁

(一〇二)                  同、六三頁(Kant, Relection 7847, 7665)。

(一〇三)                  同、六三-六四頁(Kant, Relection ebd., 533)。

(一〇四)                  同、六四頁(Kant, Idee AA Bd, 8, 22)。

(一〇五)                  同、六五頁(Kant Metaphysik 55ff.)。

(一〇六)                  同右(Kant Metaphysik4 AA Bd6他)。なお、リーデルは注釈において「人間は、市民社会において一定の権利を享受するかぎりにおいて、ペルゾーンと呼ばれる」と示している。

(一〇七)                  同、六五頁(Kant, Relection 7841)。

(一〇八)                  同右。

(一〇九)                  同、六八頁。

(一一〇)                  同、六九-七〇頁(Déclaration art2

(一一一)                  同、七〇-七一頁

Fichte, Beiträge zur Berichtigung der Urtheile des Puublicums1.Tl 276-284)。

(一一二)                  同、七一頁。

(一一三)                  同右。リーデル注釈においてはこれらの相互関係について仔細に示している。

(一一四)                  同、七二-七三頁

(一一五)                  同、七三頁。

(一一六)                  同、八九頁(Hegel Rechtsphilosophie, 190 Zusatz, SW Bd.7 272f)。

(一一七)                  同、八九-九〇頁。

(一一八)                  同、九〇頁(Hegel Rechtsphilosophie, 182 Zusatz, S. 262f)。

(一一九)                  同右。

(一二〇)                  同、九〇-九一頁。

(一二一)                  同、九一頁(Hegel Rechtsphilosophie, 209 Anm, SW Bd.7, 286)。

(一二二)                  同右。

(一二三)                  同、九三頁。

(一二四)                  同右(Arnold Ruge, Aus früherer Zeit, Bd. 4)。

(一二五)                  同、九三頁(Augst Cieszkowski 1843/44)。

(一二六)                  同右(Moritz Veit 1843, 58ff)。

(一二七)                  同、九四頁。

(一二八)                  同右。

(一二九)                  同右。

(一三〇)                  同右

Marx, Kritik des Hegelschen Staatsrechts 275f)。

(一三一)                  同、九五頁。

(一三二)                  同、九五-九六頁(Marx, 10 MEW Bd.3, 535)。

(一三三)                  同、九六頁。

(一三四)                  同右(Marx, Deutsche Ideologie, MEW Bd. 3,36)。

(一三五)                  同、九六頁。

(一三六)                  同右。

(一三七)                  同、九六-九七頁(Marx, MEW Bd.13, 636)。

(一三八)                  同、九七頁(Lorenz v. Stein,1921 Bd.1 Bd.2)。

(一三九)                  同右。

(一四〇)                  同、一一二頁。リーデル書においてはこの見解の表明を前にして、「一八四八年革命以後の立場と概念」とした章節を設けて、ブルンチェリやレスラー、『市民社会』を著したヴィルヘルム・ハインリッヒ・リールなどの思想的背景について分析している。

(一四一)                  同、一一二-一一三頁。

(一四二)                  同、一一三頁(Ferdinand Lassale,1919, 148)。

(一四三)                  同、一一三-一一四頁(Rudolf v. Gneist 1879 8ff他)。

(一四四)                  同、一一四頁。

(一四五)                  同右。

(一四六)                  同右。

(一四七)                  同、一一四-一一五頁。

第二節 二分法的解釈の意義―GemeinschaftGesellschaft

(一)マンフレート・リーデル『市民社会の概念史』(河上・常俊他訳)、以文社、一九九〇年、(Geschichtliche Grundbegriffe, hrsg. Von Brunner/ Conze/ Koselleck, Bde. Klett-Cotta Stuttgart 1975-82)二一九頁。

(二)同、二一九-二二一頁(Hermann Paul 1935他)。

(三)同、二二一頁。

(四)同右。

(五)同、二二一-二二二頁(Grimm Bd4/1,2, 3264ff)。

(六)同、二二二頁。この部分に関するリーデル注釈において、シラーの叙爵書が引用されている。

(七)同右。

(八)同、二二二-二二三頁(Aristoteles, Nik. Eth. 1155a 3ff; 1159b 20ff)。

(九)同、二二三頁。

(一〇)   同、二二三-二二四頁。なお、ここにおける「Vergesellschaftetseine」の説明と、Aristotelesのコイノーニアの用法、更にゲマインシャフト・ゲゼルシャフトの用法に関して語訳的な制約が含まれるように思われる。

(一一)   同、二二四頁。

(一二)   同右

Niklas Luhmann,1968 Herbermas/Luman,1971)。

(一三)   同、二二五頁。

(一四)   同右。

(一五)   同、二二五-二二六頁。文中における「共通の法則」、「自然法則」、「共同性」のギリシア語表記省略。

(一六)   同、二二六頁(die Untersuchung von Heinrich Seesmann 1933)。

(一七)   同右(Cicero, Off. 1,17  Augustin, Decivitate Dei 19,7他)。

(一八)   同、二二七頁(Institutiones 1,1他)。

(一九)   同、二二七-二二八頁。

(二〇)   同、二二八頁(Thomas von Aquin, Contra impugnantes Dei cultum et religionem 3)。この引用を前にして、リーデルは、J・v・ヴィテルボーの解釈、すなわちアリストテレスがコムニタスないしソキエタスという組織が人々の自然的傾向から発生したとの言説解釈を提示している。

(二一)   同、二二八頁。

(二二)   同、二二八-二二九頁(Seneca, Epist. 6,48,3  Montaigne, Essais 1,27  Bodin, Les six livres de la république 6,6他)。

(二三)   同、二二九頁(Rädlein Tl.2 770; 1 369)。

(二四)   同、二二九-二三〇頁(Joh. Angelius Werdenhagen 1632他)。これに続き、『アウグスブルグの信仰告白』について、キリストのもとにある全員をゲマインシャフトと捉えることとして、示している。

(二五)   同、二三〇頁(Jakob Thomasius, Philosophia practica)。

(二六)   同右。

(二七)   同右。

(二八)   同右。

(二九)   同、二三一頁(Leibniz, Vom Naturrecht, Deutsche schriften 417f)。

(三〇)   同右。